第161話 レクイエム・ベント試験案
ルクス・ヴァルキュリアの第七整備区画は、普段よりもさらに厳重に封鎖されていた。
隔壁は三重。
内部通信は独立回線。
外部認証は一時切断。
帝国式規格の自動接続は全て停止。
さらに、区画中央には仮設の術式隔離フィールドが展開されている。
そこに置かれているのは、まだ機体ではなかった。
ノクス・レクイエム本体ではない。
ネメシス・レクイエムの外殻も、ノクス・リリスの中核操縦系も、まだ接続されていない。
あるのは、外部術式排出機構の試験ユニットだけだった。
黒灰色のフレーム。
背部装備に似た湾曲構造。
その周囲に浮かぶ、未調整の術式環。
まだ兵器というより、実験用の危険な装置に近い。
グリッドは、その試験ユニットの前で腕を組んでいた。
「見た目からして、ろくでもないな」
隣で端末を確認していたリクトが、苦笑もせずに答える。
「ろくでもないから、こうして試験ユニットだけを先に作っている」
「分かってる。だから本体に組ませてない」
グリッドは試験ユニットの基部を軽く叩いた。
「こいつはまだ機体じゃない。安全機構の実験台だ。そこを勘違いするなよ」
リクトは頷いた。
レクイエム・ベント。
それは、ノクス・レクイエムがレクイエム級出力を抱え込んだ時、その出力を本体ではなく外部へ逃がすための装置だった。
撃つためではない。
撃たないため。
ユイが発射を拒否した時、または機体側が暴走しかけた時、出力を安全方向へ逃がす。
必要ならユニットごと切り離す。
そのための安全弁。
だが、安全弁という名前ほど、安全なものではなかった。
リクトは術式図を拡大する。
「試験ユニットは、三層構造で組む」
グリッドが手元の整備図を合わせる。
「外側がハーモニア式の流路安定層。中間が独立遮断層。内側が帝国式レクイエム出力を模した疑似負荷層、だったな」
「そうだ」
リクトは頷く。
「術式層は俺が見る。物理フレームと隔離フィールドの実装は、グリッドさんと技術班に任せる」
「任された。だが、危険だと思ったら、こっちで物理的に切るぞ」
「そのための試験だ」
その時、区画の入口からアシュが入ってきた。
手には、独立遮断層の制御端末がある。
「危険だと思ったら、では遅い場合もある」
グリッドが振り返る。
「安全装置担当のご到着か」
「ふざけるな」
「ふざけてない。今回は本当にそうだろう」
アシュはグリッドの軽口を流し、端末をリクトの横へ置いた。
そこには、独立遮断層の試験項目が並んでいる。
外部命令遮断。
帝国式認証遮断。
疑似暴走時の自動切離。
本人意思拒否時の排出優先。
艦側緊急停止。
カナデ承認による精神負荷停止。
ユイ本人による即時中断。
どれも、単なる技術項目ではない。
ユイを守るための項目だった。
アシュは試験ユニットを見ながら言った。
「レクイエム・ベントは、出力を逃がす装置だ。だが、逃がす先を間違えれば砲撃と同じになる」
「分かっている」
リクトが答える。
「だから、今回は実出力ではなく疑似負荷だけだ」
「疑似負荷でも、術式層は反応する」
「そのために遮断層を挟む」
「遮断層が破られた場合は?」
アシュの問いに、グリッドが答えた。
「ユニットごと切り離す。試験台から物理的にパージして、隔離フィールド内で出力を減衰させる」
「減衰しなかった場合は?」
「第七整備区画ごと完全封鎖。外部接続を切断。ルクス本体への逆流を防ぐ」
「それでも逆流した場合は?」
グリッドは少しだけ黙った。
そして、苦い顔で答える。
「ノア・ドック側の独立遮断層で受ける。そこまで行ったら、試験は完全失敗だ」
「失敗条件を先に決めているならいい」
アシュは短く言った。
「成功条件より、失敗条件が重要だ」
その言葉に、リクトも頷いた。
「今回は、完成させる試験ではない。危険な条件を見つける試験だ」
少し離れた場所で、リンが端末を見ていた。
工具は持っていない。
試験ユニットの物理実装にも、術式層の組み込みにも直接は触れていない。
彼女が見ているのは、帝国式認証反応と、疑似負荷層に残る命令系統の痕跡だった。
リンは画面を見たまま、短く言う。
「今のところ、命令層の反応は浅い。でも、切ったつもりでも残る」
グリッドが彼女を見る。
「リン、そこは任せる」
「私は整備士じゃない。帝国式の癖を見ているだけ」
「それでいい。むしろ、そこを見られる奴が少ない」
リンは軽く頷いただけで、再び端末へ視線を戻した。
「直結は駄目。疑似負荷でも、命令層に触れすぎると痕が残る」
アシュが短く答える。
「分かっている」
その時、区画の反対側の扉が開いた。
カイト、ユイ、カナデが入ってくる。
その後ろには、三島もいた。
ユイは試験ユニットを見た瞬間、足を止めた。
それはノクス・レクイエム本体ではない。
だが、どこかでノクス・リリスの記憶を呼び起こす形をしていた。
背部から伸びる外部ユニット。
術式環。
黒灰色のフレーム。
まだ何も接続されていないのに、ユイの胸の奥が小さくざわついた。
カナデがすぐに気づく。
「ユイさん」
「大丈夫」
ユイは答えた。
けれど、カナデはその言葉だけでは済ませなかった。
「大丈夫かどうかは、こちらでも確認します」
「うん。お願いします」
以前なら、少し反発していたかもしれない。
今は違った。
ユイは、確認されることを拒まなかった。
三島は試験区画の表示を一つずつ確認してから、静かに言った。
「確認します。この試験は、ノクス・レクイエム本体の完成試験ではありませんね」
リクトが答える。
「はい。レクイエム・ベント単体の低負荷試験です。本体には接続しません」
「ノクス・リリス旧データにも接続しない」
リンが短く補足した。
「帝国式命令層にも直結しない」
アシュが続ける。
「外部命令が混入した場合、即時遮断する」
三島は端末へ記録した。
「分かりました。これは兵器完成試験ではなく、安全機構試験として記録します」
カイトはその言葉に少しだけ反応した。
「安全機構試験……」
「はい」
三島は頷く。
「ここを曖昧にすると、後から『兵器強化のための試験だった』と解釈されかねません。記録上も、目的を明確にしておく必要があります」
アシュが低く言う。
「その点は同意する」
三島は少しだけ目を向けた。
「珍しく意見が合いましたね」
「安全に関しては、合わない方が問題だ」
カナデは小型センサーを準備しながら、ユイに説明する。
「今日行うのは、本人意思認証と精神負荷監視の接続試験です。ノクス・レクイエム本体には接続しません。ノクス・リリス旧データにも接続しません」
ユイは頷く。
「レクイエム・ベントだけ?」
「はい。それも実出力ではなく、疑似負荷です」
リクトが補足した。
「言い換えると、今日は『ユイが止めると言った時、試験ユニットが本当に止まるか』を見るだけだ」
「撃つ試験じゃない」
ユイが確認する。
「撃つ試験じゃない」
アシュが答えた。
「排出試験ですら、まだ前段階だ。本人意思認証、精神負荷監視、遮断層が同じ判断を共有できるかを確認する」
三島がカナデへ視線を向ける。
「ユイさん本人に、中断権限はありますね」
「あります」
カナデは即答した。
「ユイさんが『止める』と言った時点で、試験は中断できます。私が精神負荷上危険と判断した場合も、即時中断します」
「アシュさん側の遮断権限は?」
「ある」
アシュが答えた。
「外部命令混入、命令層反応、疑似暴走の兆候が出たら切る」
「グリッドさん側の物理停止は?」
グリッドが片手を上げる。
「ユニットごと落とす。遠慮はしない」
三島は記録を終える。
「監査条件としては、最低限を満たしています」
カイトは三島を見る。
「最低限、なんですね」
「はい」
三島は淡々と答えた。
「安全試験である以上、慎重すぎるくらいでいい。安全確認に満点はありません」
アシュが短く言う。
「その通りだ」
カナデはユイのこめかみ、手首、首元に小型センサーを付けていく。
「接続するのは、三つです」
彼女は端末を表示した。
「一つ目。ユイさん本人の意思認証」
ユイの反応波形が表示される。
「二つ目。精神負荷監視。恐怖、拒否、迷い、過覚醒、命令反応の混入を確認します」
次に、レクイエム・ベント試験ユニットの仮想制御図が表示される。
「三つ目。ベント側の停止判断。ユイさんの拒否反応を発射拒否として認識し、出力を上げずに逃がす準備へ移るかを確認します」
ユイは画面を見ながら言った。
「私が嫌だと思った時、機体が勝手に撃たないようにする」
「はい」
カナデは頷く。
「ただし、嫌だと思っただけで即座に全部を停止するわけではありません。そこも大事です」
「どういうこと?」
「人は迷います。恐怖もあります。瞬間的な拒否反応だけで全てが停止すると、今度は戦場で動けなくなる可能性があります」
カナデは慎重に言葉を選んだ。
「だから、段階を作ります。違和感、迷い、拒否、明確な停止意思。それぞれを区別します」
リクトが説明を引き継ぐ。
「ハーモニア式の負荷分散を使うのは、そこだ。ユイの感情反応を一つの命令に変換しない。複数の状態として扱い、必要なら出力を下げ、必要ならベントへ逃がす」
中央画面に段階が表示される。
第一段階。
違和感検出。
第二段階。
出力上昇抑制。
第三段階。
外部流路準備。
第四段階。
レクイエム・ベント排出待機。
第五段階。
本人停止意思による排出またはパージ。
「つまり、いきなり全部が止まるわけじゃない」
カイトが言う。
「そうだ」
リクトは頷いた。
「止めるためにも、段階が必要になる」
ユイはその表示をじっと見つめた。
段階。
戻れる場所。
迷ってもいい余地。
エデンで見たハーモニアの思想が、ここにも入っている。
支援は、命令ではない。
止めることは、失敗ではない。
迷った時に、いきなり壊れるのではなく、戻るための道を作る。
「これなら……少し怖くない」
ユイが小さく言った。
カナデはその言葉を記録する。
「重要な反応です」
「今のも?」
「はい。怖さが完全に消える必要はありません。何が怖いのかを言えることが大事です」
カイトはユイの隣に立った。
「無理しなくていいからな」
「うん」
「途中で止めても、誰も文句は言わない」
三島も静かに付け加えた。
「むしろ、止めるべき時に止められることが、この試験の目的です」
ユイは三島を見る。
「それも記録するんですか?」
「はい」
三島は頷いた。
「止めたことも、続けたことも、どちらも記録します。責めるためではありません。次に同じ状況が来た時、判断できるようにするためです」
ユイは少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
試験が始まった。
術式環がゆっくりと回転する。
淡い緑と水色の光が、黒灰色のフレームの周囲を流れ始めた。
リクトが確認する。
「本人意思認証、通過。外部命令反応なし」
リンが別画面で短く告げる。
「帝国式認証反応、浅い。命令層への接触なし」
カナデが続ける。
「精神負荷、平常域。軽度緊張。危険反応なし」
リクトが疑似負荷をわずかに上げる。
「疑似負荷、一段階上昇」
試験ユニットの内側に、暗い光が灯った。
ユイの波形がわずかに揺れる。
カナデがすぐに見る。
「反応あり。ユイさん、言葉にできますか」
「少し、近い」
「何に近いですか?」
「ノクス・リリスの操縦席に近い。でも、同じじゃない」
「続けられますか」
ユイは目を閉じ、ゆっくり呼吸した。
「続けられます」
カナデが頷く。
「続行します」
リクトが次の項目へ進む。
「外部流路、準備」
ハーモニア式の術式環が一つ開いた。
暗い疑似負荷が、その流路へ少しずつ流れていく。
リクトの目が細くなる。
「流れた。押さえ込んでいない。外側へ逃がしている」
カイトには、専門的なことは分からない。
だが、画面上の黒い負荷が、淡い光の中へ分散していく様子は見えた。
それは、エデンで見た水路に似ていた。
一箇所に溜めない。
行き場を作る。
衝突する前に流す。
リンが端末を見ながら言う。
「命令層には戻っていない。今は大丈夫」
アシュは遮断層の制御に指を置いたまま、黙っている。
安心はしていない。
だが、今は切る必要がないと判断しているようだった。
リクトが次の段階を見た。
「試験三。違和感検出。疑似負荷を少しだけ不安定にする」
カナデがユイへ確認する。
「ユイさん、嫌だと思ったら、すぐに言ってください」
「分かりました」
リクトが負荷を微細に揺らす。
試験ユニットの術式環がわずかに乱れる。
ユイの眉が動いた。
胸の奥に、小さなざわめきが走る。
撃て。
進め。
出力を上げろ。
そんな命令ではない。
だが、それに似た圧が、奥の方で生まれかける。
「違和感」
ユイが言った。
すぐに画面上の第一段階が点灯する。
違和感検出。
出力上昇抑制準備。
カナデが確認する。
「精神負荷上昇。ただし危険域ではありません」
リクトが術式層を見る。
「ハーモニア式流路が、疑似負荷を外側へ逃がしている。押さえ込んでいない」
リンが短く告げる。
「命令反応、混じりかけた。でも戻っていない」
アシュがすぐに聞く。
「残るか」
「浅い。今なら消せる」
「消せ」
リンは端末を操作し、残留反応を監視領域から外部隔離へ送った。
「消した。痕は薄い」
三島はそのやり取りも記録していた。
「違和感申告あり。試験継続。命令反応の兆候を隔離。記録します」
ユイは息を吐いた。
「今、止まれた」
カイトが小さく笑う。
「よかった」
だが、アシュはまだ表情を緩めなかった。
「次が本番だ」
リクトも頷く。
「試験四。拒否反応の確認。疑似負荷をさらに上げる。ただし、危険域の十分の一以下だ」
カナデがユイを見る。
「ユイさん。嫌だと思ったら『止める』と言ってください」
「はい」
試験ユニットの術式環が三重に回転する。
疑似負荷が上がる。
今度は、胸の奥に明確な圧が来た。
古い記憶が動く。
ノクス・リリスの操縦席。
帝国の命令。
出撃。
帰投。
疑問を持たないようにしていた自分。
その影が、少しだけ手を伸ばしてくる。
ユイの呼吸が乱れた。
カナデが即座に言う。
「負荷上昇。まだ危険域ではありません。ユイさん、今の状態を言葉にできますか」
ユイは目を閉じた。
逃げるのではなく、言葉にする。
「ノクス・リリスの残響があります。でも、今の私じゃない」
カナデが頷く。
「続けますか。止めますか」
ユイは少しだけ沈黙した。
カイトは何も言わない。
急かさない。
カナデも待つ。
リクトも、グリッドも、アシュも、リンも、手を止めて待っている。
三島も記録端末に触れたまま、何も言わなかった。
その沈黙の中で、ユイは自分の意思を探した。
命令ではない。
反射でもない。
誰かの期待でもない。
自分がどうしたいのか。
「止める」
ユイははっきり言った。
その瞬間、画面の第四段階が点灯した。
本人停止意思確認。
出力上昇停止。
外部流路開放準備。
レクイエム・ベント試験ユニットの術式環が、黒赤い疑似負荷を外側へ流し始める。
エデン式の淡い光が、その流れを受け止め、分散させ、減衰させていく。
排出はされない。
まだ排出試験ではない。
だが、疑似負荷は本体側へ戻らず、外部流路で静かに消えていった。
リクトが深く息を吐く。
「疑似負荷、外部流路で減衰。命令層への逆流なし」
グリッドが物理フレームの状態を確認する。
「試験台、異常なし。パージ不要」
アシュが遮断層を見る。
「遮断層、維持」
リンが短く告げる。
「帝国式認証反応、残留なし。今のところ」
カナデはユイの波形を見ていた。
「ユイさん、精神負荷は下降中です。呼吸は?」
「少し速いけど、大丈夫」
「本当に?」
「少し怖かった。でも、戻れた」
その言葉に、カナデは表情を柔らかくした。
三島は静かに記録した。
「本人停止意思による中断成功。試験目的達成。兵器完成試験ではなく、安全機構試験として有効」
カイトはユイの隣に立つ。
「お疲れ」
「うん」
「怖かった?」
「怖かった」
ユイは正直に答えた。
「でも、止めるって言えた」
「ああ」
カイトは頷く。
「ちゃんと止まった」
ユイは試験ユニットを見る。
まだ小さな装置だ。
本物のノクス・レクイエムには遠い。
レクイエム級出力にはまだ触れていない。
それでも、確かに一歩進んだ。
自分の「止める」が、機械に届いた。
命令ではなく、意思として届いた。
「完成じゃないんだよね」
ユイが言う。
リクトが頷く。
「完成ではない。試験開始だ」
グリッドも腕を組んで言った。
「むしろ、ここから確認項目が増える」
ユイは少しだけ苦笑した。
「そこまではっきり言うんだ」
「はっきり言わないと危ない」
アシュが続ける。
「今日は、本人停止意思がベント試験ユニットへ届くことを確認できた。それで十分だ」
カナデも頷いた。
「今日はここで止めましょう」
ユイが驚く。
「もう?」
「はい。成功したところで止めます」
アシュも頷いた。
「欲を出すな」
三島も記録端末を閉じた。
「監査上も、ここで区切るのが妥当です。成功直後に負荷を追加する理由はありません」
リクトは試験結果をまとめる。
第一段階試験、成功。
実出力試験未実施。
ノクス・レクイエム本体未接続。
ノクス・リリス旧データ未接続。
レクイエム・ベント試験ユニット、低負荷疑似停止試験通過。
ユイ本人の中断権限、機能確認。
カナデの精神負荷監視、正常動作。
アシュの遮断層、維持。
リンの帝国式認証反応監視、残留なし。
三島の監査記録、安全機構試験として登録。
カイトはその一覧を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「一歩目としては、悪くないんじゃないか」
ユイは隣で頷いた。
「うん」
そして、少しだけ笑う。
「私の意思で、止められた」
その言葉は小さかった。
けれど、第七整備区画にいた全員が、その意味を理解していた。
ノクス・レクイエムは、まだ影も形も不完全だ。
だが、中心に置くべきものは、少しずつ形になっている。
帝国の命令ではない。
レクイエム級出力でもない。
ユイ本人の意思。
それを守るための試験が、ようやく始まった。




