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第144話 総督グラウス・ヴェルナー

 旧ドックからの撤退は、完全な成功ではなかった。

 ノクス・リリス旧データの断片は回収できた。

 レクイエム級制御構造の一部。

 帝国式術式層の遮断方法。

 命令系統を主制御から切り離す理論。

 そして、本人意思による認証再定義の手がかり。

 それらは、ノクス・レクイエムを制御するための最初の道標だった。

 だが同時に、侵入の痕跡も残った。

 リンとアシュが可能な限りログを消したものの、帝国の監査網を完全に欺くことはできなかった。

 アース・ネメシスの管理網は、静かに動き始めていた。

 カイト達が山岳外縁部を抜け、旧市街方面へ戻ろうとした時だった。

 周囲の街頭端末が一斉に点灯した。

 道路脇の案内板。

 輸送路の管理表示。

 遠くに見える公共放送塔。

 その全てに、同じ帝国紋章が浮かび上がる。

 レータが足を止めた。

「……総督府回線です」

 レイが周囲を見た。

「包囲か?」

「いえ。少なくとも、まだ治安部隊は動いていません」

 レータは端末を確認する。

「これは、都市全域向けの緊急放送ではありません。こちらの通信端末だけを選んで割り込んでいます」

「つまり、見つかったってことか」

 カイトが低く言う。

 通信端末の画面が乱れ、やがて一人の男の姿が映った。

 年齢は五十代ほど。

 軍服ではなく、行政官の正装に近い帝国式の服を着ている。

 髪は灰色に近く、姿勢はまっすぐだった。

 声は落ち着いている。

 怒りも焦りもない。

 だが、その静けさがかえって威圧感を持っていた。

『初めまして、外部からの来訪者諸君』

 男は淡々と言った。

『私はグラウス・ヴェルナー。アース・ネメシス総督だ』

 カイトは息を呑んだ。

 この星を統治する人物。

 エリオが尊敬を込めて語った総督。

 ハルドが憎しみと苦さを込めて語った帝国の代表。

 その本人が、今こちらに接続している。

 レイが一歩前に出る。

「こちらを捕まえるつもりか」

『その選択肢はある』

 グラウスは否定しなかった。

『君達は我が統治区域へ無断侵入し、旧軍事施設へ侵入し、管理データを持ち出した。通常であれば、治安維持部隊を動かす』

「通常であれば、か」

 レイの目が細くなる。

『だが、今は少し話をしたい』

「罠ではない保証は?」

『ない』

 グラウスは即答した。

『同時に、君達にも私を信用する理由はないだろう。だから、この会話は互いに不完全なまま進めるしかない』

 その正直さに、カイトはかえって警戒した。

 ヴァイスのような冷たい圧力ではない。

 エルマのような観察する目でもない。

 グラウスは、行政官としてこちらを見ていた。

 反乱分子。

 侵入者。

 だが同時に、対話可能な相手として。

『君達は、この世界を見たはずだ』

 グラウスの背後に、アース・ネメシスの都市映像が映る。

 清潔な街路。

 医療施設。

 教育院。

 配給施設。

 規則正しく動く交通。

 笑顔で歩く子供達。

『この世界を、どう見た?』

 カイトはすぐには答えられなかった。

 その沈黙を、グラウスは急かさなかった。

 やがて、カイトはゆっくりと口を開く。

「壊れていない世界だと思った」

『正しい』

「でも、自由には見えなかった」

『それも正しい』

 グラウスは静かに頷いた。

『自由という言葉は美しい。だが、私はこの星で、その言葉の別の顔も見てきた』

 映像が切り替わる。

 統合前の記録だった。

 爆撃された街。

 焼けた輸送路。

 飢えた人々。

 武装した民兵。

 軍事境界線。

 病院の前で倒れる市民。

『帝国統合以前、この世界は長い分断の中にあった。資源紛争、国家間戦争、技術独占、飢餓、医療崩壊。全てが同時に存在していた』

 カイトはその映像を見つめる。

 旧記録館で見たものと同じだった。

 だが、総督が見せるそれは、さらに生々しい。

『我々はこの世界を滅ぼしていない。統一したのだ』

 グラウスの声は揺れなかった。

『帝国が来なければ、この地球は自らの手で多くを失っていた。そう判断したからこそ、統合は実行された』

「侵略を、そう呼ぶのか」

 レイが言う。

 グラウスはレイを見た。

『戦争を終わらせた者を侵略者と呼ぶのか』

「外から来て、名前を奪い、歴史の意味を変え、従わせたならな」

『従わせた。確かにそうだ』

 グラウスは否定しない。

『だが、その結果、子供達は飢えなくなった。病院は機能し、教育は全域に行き渡り、旧国家間の戦争は消えた』

「それで、全部正当化できるのか」

 レイの声が低くなる。

『全部ではない』

 その答えに、レイはわずかに眉を動かした。

 グラウスは続ける。

『だが、何も救っていない者より、救った者に統治の資格があると私は考える』

 カイトの胸に、重いものが沈んだ。

 グラウスは粗暴な支配者ではない。

 自分のやっていることを理解している。

 そして、その結果に確かな自負を持っている。

 それが厄介だった。

 もし彼がただの暴君なら、カイトは迷わず否定できた。

 だが、アース・ネメシスの街は本当に安定していた。

 エリオのような若者が、本当に未来を信じて学んでいた。

 それを、全て偽りとは言えなかった。

『自由とは、弱者が踏み潰される権利でもある』

 グラウスは言った。

『強者が資源を独占する自由。多数派が少数派を排除する自由。国家が国民を見捨てる自由。企業が命を値段で選別する自由。統合前のこの世界には、それらがあった』

「だから、帝国が全部決めるのか」

 カイトが問う。

『秩序がなければ、人は救えない』

「秩序があれば、何を奪ってもいいのか」

『奪うものを最小限にし、救うものを最大化する。それが統治だ』

 カイトは拳を握った。

 完全には否定できない。

 だが、受け入れることもできない。

 その時、通信端末の別枠に新たな映像が割り込んだ。

 レータが驚いて端末を見る。

「これは……教育院の回線?」

 映ったのは、エリオ・ハーゼンだった。

 彼は帝国教育院の制服を着たまま、戸惑った表情で周囲を見ている。

『総督閣下、これは……』

『君にも聞いてもらいたいと思った。エリオ・ハーゼン』

 グラウスは淡々と言った。

『君はこの星の若い世代だ。帝国統合後のアース・ネメシスで育った者として、彼らの言葉を聞く権利がある』

 エリオの表情が硬くなる。

 彼はカイト達に気づき、目を見開いた。

『あなた達は……』

「エリオ」

 カイトは小さく名前を呼んだ。

 エリオは戸惑いながらも、画面越しに姿勢を正した。

 その一方で、別の通信がひどいノイズと共に入った。

 古い旧式回線。

 アシュが短く言う。

『ハルドの回線だ。総督府に拾われたか、逆に割り込んできたか』

 映像は乱れていた。

 だが、そこに映った老人の顔を、カイトはすぐに理解した。

 ハルド・レイスだった。

『……聞こえているか、外の連中』

「ハルドさん!」

 カイトが声を上げる。

 ハルドは苦々しく笑った。

『総督殿が大層な演説を始めたようだからな。黙って聞いている気にはなれなかった』

 グラウスは表情を変えなかった。

『ハルド・レイス。まだ旧通信網を維持していたか』

『忘れないためにな』

『それが旧世代の執念か』

『そうだ。お前達が資料分類に押し込めたものだ』

 エリオは画面の中で、二人のやり取りを聞いていた。

 尊敬する総督。

 旧地球を覚えている老人。

 その二人が、同じ通信空間にいる。

 エリオは明らかに動揺していた。

『ハルド・レイス』

 グラウスは静かに言う。

『私は君達を完全に消すこともできた。だが、それはしなかった』

『恩着せがましく言うな。消さずに分類しただけだろう』

『分類は統治に必要だ』

『そうやって、俺達は治安不安定要因になった。旧防衛軍は未熟な抵抗勢力になった。俺達の敗北は、帝国の救済物語になった』

 ハルドの声は荒くない。

 だが、深く沈んだ怒りがある。

『確かに俺達は負けた。確かに統合前のこの星には争いがあった。お前達が整えたものもあるだろう。そこまで否定するつもりはない』

 エリオが息を呑む。

 ハルドは続けた。

『だが、俺達は帝国に救われるだけの愚かな未熟者ではなかった。自分達で未来を選ぼうとしていた。その失敗も、願いも、全部あったんだ』

 グラウスは静かに聞いていた。

『君達の願いは、多くの市民を救えなかった』

『そうだ』

 ハルドは即答した。

『だから負けた。だから今、俺は地下で古い通信機を守るだけの老人だ』

 その言葉に、エリオの表情が揺れた。

『だが、若い奴らに、帝国の答えしか残さないでくれ』

 ハルドの視線が、エリオへ向く。

『坊主。お前が帝国を信じていることを、俺は責めない』

『……僕は』

『お前はこの街で育った。病院も学校も、帝国のものだった。そう思うのは当然だ』

 エリオは何も言えなかった。

 ハルドは続ける。

『だが、覚えておいてくれ。この星には、別の名前があった。別の未来を選ぼうとした奴らがいた。それを知った上で帝国を選ぶなら、それはお前の選択だ』

 エリオの目が揺れる。

 カイトはその様子を黙って見ていた。

 グラウスは、ハルドの言葉を否定しなかった。

 だが、静かに言った。

『その選択が、再び戦争を呼ぶとしてもか』

 ハルドは答えない。

 代わりに、レイが口を開いた。

「戦争を避けるために、選択肢を全部奪うのか」

 グラウスの視線がレイへ向く。

「戦わないために、記憶を管理する。争わないために、名前を一つにする。迷わせないために、歴史の意味を決める」

 レイの声は静かだった。

「それは平和じゃない。戦う前に負けさせているだけだ」

『では、自由に任せて再び弱者が踏み潰されたら、誰が責任を取る』

 グラウスの問いは鋭かった。

 レイは答えに詰まらない。

「その責任を、帝国だけが持てると思っている時点で間違っている」

 グラウスの目がわずかに細くなる。

 カイトは一歩前に出た。

 自分の中で、まだ答えは完全ではない。

 それでも、言わなければならないことは見え始めていた。

「総督」

『何だ』

「俺は、この星が平和になったことまで否定する気はない」

 グラウスは黙って聞いている。

 カイトは続けた。

「病院が動いてることも、子供達が学校に行けることも、飢える人が減ったことも、それは大事なことだと思う。そこまで嘘だとは言わない」

 エリオがカイトを見る。

 ハルドも黙っている。

「でも」

 カイトは拳を握った。

「他の道を選ぶ記憶まで奪われていいはずがない」

 通信空間が静まり返った。

「この星が帝国に統合されたこと。統合前に争いがあったこと。帝国によって救われた人がいたこと。それは全部、残せばいい」

 カイトは旧記録館で見た古い地図を思い出す。

 複数の名前。

 複数の言葉。

 複数の失敗と願い。

「でも、それを全部、帝国統合が必要だった証拠にだけ変えるのは違う」

 グラウスは静かに問い返す。

『では、君は何を望む。アース・ネメシスを即時解放し、再び旧国家の争いに戻すのか』

「違う」

 カイトははっきり言った。

「今すぐ全部を壊すことじゃない。帝国を追い出せばそれで終わりだとも思ってない」

『では何だ』

「選び直せるようにすることだ」

 その言葉に、エリオが目を見開いた。

「帝国の下で生きることを選ぶ人もいるかもしれない。旧地球の名前を取り戻したい人もいるかもしれない。どちらでもない道を探す人もいるかもしれない」

 カイトはグラウスを見る。

「でも、最初から帝国の答えしか知らなければ、それは選択じゃない」

 ハルドが静かに目を伏せる。

 レイはカイトの横に立ったまま、何も言わなかった。

 ただ、その沈黙が支えになっていた。

 グラウスはしばらく黙っていた。

 やがて、低く言う。

『理想論だ』

「そうかもしれない」

『選択肢は混乱を生む。混乱は対立を生み、対立は戦争を呼ぶ』

「それでも、人が自分の未来を考える余地を奪ったら、何のための平和なんだ」

 カイトの声は大きくない。

 だが、揺れていなかった。

 グラウスはカイトを見据える。

『君達は危険だ』

 その言葉に、レータがわずかに身構える。

『単なる武装勢力より危険だ。君達は帝国の施設を壊すだけではない。帝国が与えた答えに疑問を持たせる』

「疑問を持つことまで罪なのか」

 レイが言う。

『統治者にとっては、時に戦艦より厄介だ』

 グラウスは淡々と答えた。

『エリオ・ハーゼン』

 突然名を呼ばれ、エリオが姿勢を正す。

『君は今、混乱しているだろう』

『……はい』

『それは危険な状態だ。だが、同時に学びでもある。帝国教育院の上級課程では、いずれ反帝国思想や旧地球史にも触れる』

 エリオは驚いたように顔を上げる。

『ただし、段階を経てだ。無秩序に触れれば、人は簡単に揺らぐ』

 ハルドが苦々しく笑う。

『都合のいい時期まで、答えを預けるわけか』

『未熟な判断で世界を壊させないためだ』

『そうやって、人はいつまでも未熟扱いされる』

 グラウスはハルドへ視線を向けた。

『君達は成熟していたか?』

 その問いに、ハルドは沈黙した。

 カイトは、その沈黙の意味を理解した。

 ハルド達も完全ではなかった。

 旧地球も美しいだけの場所ではなかった。

 だからこそ、グラウスの言葉は重い。

 だが、それでも。

『外部来訪者』

 グラウスがカイトに言う。

『君達をこの場で拘束することは可能だ。だが、それをすれば旧抵抗組織を刺激し、教育院にも余計な揺らぎを残す』

「見逃すのか?」

『一度だけだ』

 グラウスは静かに告げる。

『君達が持ち出した情報は、いずれ帝国本国にも報告される。エルマ・ディクセンも動くだろう。次にこの星で同じことをすれば、対話では済まない』

「なぜ、今は対話にした」

 レイが問う。

 グラウスは少しだけ間を置いた。

『私の統治する世界を、君達に見せるためだ』

 その答えは、誇りにも警告にも聞こえた。

『この星は帝国に屈しただけの星ではない。統合によって生き延びた星だ。その事実を、君達も忘れるな』

 カイトは静かに頷いた。

「忘れない」

 そして続けた。

「でも、ハルドさん達が覚えていることも、忘れない」

 グラウスは目を細めた。

『ならば、君達はいずれ再びここへ来ることになる』

「たぶん」

『その時、君達に統治の責任を語る資格があるか、見せてもらおう』

 通信が途切れかける。

 最後に、エリオがカイトへ向けて声を出した。

『カイトさん』

「エリオ」

『僕は、まだ帝国が間違っているとは思えません』

「うん」

『でも……あなた達が何を見てそう言ったのか、知りたいと思いました』

 その言葉だけで、カイトは十分だと思った。

 すぐに味方になる必要はない。

 帝国を否定できなくてもいい。

 ただ、疑問が生まれた。

 それは、グラウスが最も警戒したものだった。

「それでいいと思う」

 カイトは答えた。

「自分で見て、自分で考えてくれ」

 エリオは小さく頷いた。

 通信が切れる。

 街頭端末から帝国紋章が消え、周囲に静けさが戻った。

 遠くでは、相変わらず整備された都市の灯りが輝いている。

 平和な占領地。

 統合された地球。

 救われた世界。

 奪われた世界。

 その全てが、同時にそこにあった。

 ハルドの旧式回線も、最後に短く音を立てた。

『外の連中』

「はい」

『今の言葉、忘れるなよ』

「忘れません」

『なら、早く出ていけ。総督が一度見逃すと言っても、帝国の機械はそこまで甘くない』

 通信が切れた。

 カイト達は顔を見合わせる。

 猶予は少ない。

 次は撤退だ。

 だが、カイトの中には、これまでとは違う答えが残っていた。

 アース・ネメシスを今すぐ解放することはできない。

 帝国の統治成果を全て否定することもできない。

 それでも、帝国の答えだけを未来にしてはいけない。

 選択肢を取り戻す。

 そのために、彼らはこの星を後にしなければならなかった。

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