第145話 撤退戦
グラウス・ヴェルナーとの通信が切れた直後、アシュの声が飛んだ。
『全員、すぐに移動しろ』
その声は、いつもよりわずかに鋭かった。
カイトは通信端末を握り直す。
「グラウス総督は、一度だけ見逃すって言ってた」
『総督はな』
アシュは即答した。
『だが、帝国の管理網は別だ。自動監査、識別網、エルマ直属の追跡系統。全部が総督の言葉だけで止まると思うな』
レータが端末を確認する。
「都市防衛網が動いています。治安維持部隊への警戒通達。ただし、都市全域への大規模展開ではありません」
「局所的な追跡か」
レイが言う。
彼の表情は、すでに戦闘へ切り替わっていた。
「どこから来る」
「空と地上、両方です。都市防衛ドローンが山岳外縁部へ移動中。さらに、GD反応が四。治安維持用の軽装タイプです」
セラが舌打ちする。
「見逃すって言ったわりには早いじゃない」
『グラウスの直属とは限らない』
アシュが言う。
『エルマが動かした可能性もある。特にパルスティア識別ドローンが混じっているなら、間違いなくそっちだ』
カナデの端末が警告音を鳴らした。
「ユイさん、反応が上がっています」
ユイは胸元を押さえるようにして、旧ドックの奥を振り返った。
そこにはもう、隔壁も認証端末も見えない。
だが、ノクス・リリス旧データの断片に触れてから、何かが微かに残っていた。
呼ばれているような感覚。
過去の自分を探す信号。
帝国の管理網が、ユイ型の反応を追っている。
「大丈夫」
ユイは言った。
だが、カナデは首を横に振る。
「大丈夫ではありません。反応が外部照合波に引っ張られています」
「でも、私が囮になれば――」
「駄目です」
カナデの声は強かった。
ユイが言葉を止める。
「あなたが囮になれば、識別網は喜んであなたを追います。それは戦術ではありません。首輪を差し出すのと同じです」
その言葉に、ユイは唇を噛んだ。
カイトが彼女の横に立つ。
「ユイ、今回は持ち帰るのが目的だ」
「でも、追跡を引き離さないと」
「それを一人でやるな」
カイトははっきりと言った。
「第143話で決めただろ。もう、誰か一人を鍵にはしない。囮にもさせない」
ユイはカイトを見た。
少しだけ迷いが揺れた。
だが、やがて小さく頷く。
「……分かった」
アシュの声が通信に入る。
『いい判断だ。リン、回収ルートは?』
『今作ってる!』
クロウヴェイル・ノアの艦橋で、リンは複数の軌道図と地表ルートを同時に開いていた。
アース・ネメシスの監視網は、すでに警戒態勢へ移行しつつある。
民間航路を遮断せず、都市に混乱を起こさない範囲で、治安維持ドローンと防衛衛星が配置を変えている。
それは大規模戦闘ではない。
だが、逃げる側にとっては十分すぎる圧力だった。
「カイル艦長、低空回収ルートは二つあります」
リンが叫ぶ。
「一つは山岳谷間を抜けるルート。ただし、地上ドローンが多いです。もう一つは旧輸送トンネル上空を使うルート。監視は薄いですが、出口が都市防衛網に近い」
カイルは艦長席で腕を組み、瞬時に判断する。
「谷間だ。地上ドローンは味方機で抑えられる。都市防衛網に近づく方が危険だ」
「了解。進路、山岳谷間ルート。クロウヴェイル・ノア、低空侵入準備」
艦橋の空気が一気に引き締まる。
クロウヴェイル・ノアは、アース・ネメシスの監視衛星の死角を縫いながら降下を開始した。
ルクス・ヴァルキュリア本体はまだ遠距離待機。
ここで巨大艦を動かせば、グラウスの見逃しも何もなくなる。
だから、回収はクロウヴェイル・ノアが単独で行うしかない。
「レイ、アシュ」
カイルは通信を開く。
「出られるか」
『ヴァナルガンド、出せる』
レイの声が返る。
『ネヴァも短時間なら出せる』
アシュも応じた。
『ただし、長くは戦わない。ネヴァの反応は識別網に拾われやすい』
「十分だ。目的は撃破ではない。回収までの時間を稼げ」
『了解』
山岳外縁部に警報音が響いた。
遠くの空に、黒い点がいくつも浮かぶ。
都市防衛ドローン。
小型だが数が多い。
さらに地上の輸送路から、帝国式治安維持GDが現れた。
通常の軍用GDよりも軽装で、装甲は薄い。
だが、都市部での制圧に特化している。
非殺傷兵装、電磁拘束弾、機体停止用ネット。
人を殺すより、捕らえるための装備だった。
ユイがそれを見て、表情を硬くする。
「捕獲用……」
セラが吐き捨てる。
「エルマの趣味って感じ」
レータが端末を見ながら言う。
「さらに、識別ドローンが混じっています。戦闘用ではなく、反応照合用です。あれに近づかれると、ユイさん達の偽装が剥がれる可能性があります」
「なら、近づけさせない」
レイの声が響いた。
上空から、ヴァナルガンドが降下する。
重い機体が山岳斜面に着地し、岩盤を砕いた。
レイ機、LF-PT-R01 ヴァナルガンド。
白兵と強襲に特化したその機体は、都市防衛用の軽装GDとは明らかに存在感が違った。
ヴァナルガンドが腕部兵装を展開する。
「カイト達は走れ。こっちは押さえる」
「レイ!」
「振り返るな」
レイの声は短い。
だが、その一言だけで十分だった。
治安維持GDが警告音声を発する。
『無許可武装機を確認。武装解除を要求する。抵抗する場合、拘束措置に移行する』
「やれるものならやってみろ」
ヴァナルガンドが前へ出た。
最初の治安維持GDが電磁拘束弾を撃つ。
レイは機体を横へ滑らせ、岩壁を蹴って間合いを詰めた。
一撃。
拳のように振るわれた腕部兵装が、GDの肩部を砕く。
だが、撃破しきらない。
レイは中枢を避け、脚部と腕部だけを潰した。
敵を殺すためではない。
動きを止めるための戦いだった。
「都市防衛機を無駄に破壊するなってことか」
カイトが走りながら呟く。
セラが隣で頷く。
「ここは敵地だけど、戦場にしちゃいけない場所だからね」
上空のドローンが一斉に降下する。
その瞬間、黒い機影が横から割り込んだ。
ネヴァ。
アシュの機体だった。
動きは鋭い。
だが、どこか不安定だった。
ネヴァはドローン群の間をすり抜け、電子妨害を叩き込む。
数機のドローンが制御を乱し、空中で回転した。
『識別ドローンを優先して落とす』
アシュの声が通信に入る。
『戦闘用はレイに任せる。俺は網を切る』
ネヴァの背部から、細い光の線が広がった。
それは攻撃ではなく、干渉だった。
識別ドローン同士の通信を乱し、照合波を歪ませる。
だが、そのたびにネヴァの反応も識別網に引っかかりかける。
リンが艦橋から警告する。
『アシュ、ネヴァの反応が浮いてる! 長く出てるとそっちも拾われる!』
『分かってる』
アシュは短く答える。
ネヴァが急旋回し、識別ドローンの一群を山肌へ誘導する。
ドローンは照合波を放ちながら追う。
アシュはぎりぎりまで引きつけ、岩陰に設置された旧通信反射板へ照合波をぶつけた。
反射された照合波が乱れ、ドローン群が一瞬だけ互いを誤認する。
その隙に、ネヴァが低出力パルスを撃ち込んだ。
ドローンが次々に落ちる。
派手な爆発はない。
ただ、黒い機体が静かに網を切っていく。
カイト達は旧輸送路の影を走る。
ユイの呼吸がわずかに乱れていた。
カナデが並走しながら端末を見る。
「ユイさん、外部照合波がまだ来ています。遮断しきれていません」
「分かってる。ノクス・リリスの反応を探してる」
「応えないでください」
「応えない」
ユイはそう言いながらも、視線を上げた。
遠くで、旧レクイエム制御実験機が起動していた。
それは通常のGDとは違う形をしていた。
細い手足。
過剰な制御ケーブル。
背部に取り付けられた環状の術式層安定器。
兵器として完成しているというより、実験台を無理に機動兵器化したような姿だった。
レータが息を呑む。
「旧レクイエム制御実験機……!」
カイトが振り返る。
「あれが?」
「はい。レクイエム級の制御構造を小型機に試験転用したものです。完成機ではありませんが、識別網との連動機能があります」
実験機のセンサーがユイへ向く。
その瞬間、ユイの胸の奥に、冷たい信号が刺さった。
ノクス・リリス。
旧個体認証。
接続要求。
中核操縦系確認。
ユイの足が一瞬止まる。
「ユイ!」
カイトが叫ぶ。
ユイは目を見開いていた。
「あれを止めれば、追跡が切れるかもしれない」
「駄目だ」
「でも、私なら――」
「駄目だ!」
カイトは強く言った。
その声に、ユイがはっとする。
カナデもすぐに遮断補助を入れた。
「ユイさん、今の反応は誘導です。あなたの意思ではありません」
ユイは歯を食いしばる。
「……分かってる」
実験機が腕を上げる。
照合波が広がり、ユイ達を包もうとする。
その前に、ヴァナルガンドが割り込んだ。
「そっちを見るな」
レイの声。
ヴァナルガンドが実験機へ突進する。
治安維持GDが妨害に入るが、レイはそれを肩で弾き飛ばした。
実験機が術式層を展開する。
通常の防御ではない。
接触した相手の制御信号を乱す干渉膜。
ヴァナルガンドのモニターに警告が走る。
『外部干渉。制御系にノイズ』
レイは眉一つ動かさない。
「知るか」
ヴァナルガンドが左腕を犠牲にして干渉膜を突き破る。
装甲が焦げ、制御ラインが焼ける。
それでもレイは止まらなかった。
右腕の兵装を振り抜き、実験機の環状安定器を叩き割る。
照合波が乱れ、ユイへの圧力が消えた。
ユイは膝をつきかけ、カイトに支えられる。
「ごめん」
「謝るな。戻ってきたならそれでいい」
カナデがすぐに確認する。
「反応低下。危険域を抜けました。まだ走れますか?」
ユイは頷く。
「走れる」
上空からクロウヴェイル・ノアの影が現れた。
山岳谷間を縫うように、黒い艦が低空で接近する。
巨大な艦影ではない。
だが、十分に大きい。
周囲の防衛ドローンが反応し、進路を塞ごうとする。
カイルの声が全回線に響いた。
『回収ポイントまで三十秒。全員、指定座標へ集まれ』
リンが続ける。
『回収用ハッチを開ける。監視衛星の死角は二分もないから、遅れないで!』
クロウヴェイル・ノアが谷間へ滑り込む。
その機動は、通常の艦艇ではあり得ないほど細かい。
アーク・ノア由来の姿勢制御と、クロウヴェイルの機動力を合わせた改修の成果だった。
艦体が岩壁すれすれを通過し、回収ハッチが開く。
カイト達は最後の坂を駆け上がった。
背後では、ネヴァが識別ドローンを引き離している。
だが、ネヴァの機体反応が不安定になっていた。
『アシュ、もう戻って!』
リンが叫ぶ。
『ネヴァの反応が識別網に食われかけてる!』
『あと十秒』
『駄目、五秒!』
アシュは舌打ちした。
ネヴァが最後の識別ドローンに妨害波を打ち込み、急反転する。
その瞬間、機体の一部が赤く点滅した。
外部照合反応。
識別保留。
未登録近似個体。
アシュは即座に全系統を切る。
ネヴァの動きが一瞬止まり、落下しかけた。
だが、クロウヴェイル・ノアから伸びた回収ワイヤーが機体を捉えた。
『掴んだ!』
リンの声。
ネヴァが引き上げられる。
同時に、ヴァナルガンドも後退を始めた。
左腕は損傷。
装甲の一部も焼けている。
だが、レイの声は落ち着いていた。
『敵機、足止め完了。撤退する』
治安維持GDは追撃を試みるが、ヴァナルガンドが最後に地面を砕き、岩盤崩落を起こした。
殺すためではない。
追えなくするための一撃。
帝国機の前に岩と土砂が崩れ、進路が塞がれる。
カイト達が回収ハッチへ飛び込む。
ユイ、カナデ、セラ、レータも続く。
最後に、ヴァナルガンドが艦の格納ハッチへ滑り込んだ。
『全員回収!』
リンが叫ぶ。
カイルは即座に命じた。
「上昇。谷間を抜ける。衛星死角が切れる前に離脱するぞ」
クロウヴェイル・ノアが急上昇する。
背後から都市防衛ドローンの迎撃光が走る。
だが、艦は山岳の影を使い、射線を切りながら上空へ抜けた。
低軌道へ向かう途中、民間航路のすぐ外側を通過する。
帝国側は大規模な砲撃を行わない。
民間航路を巻き込めないからだ。
そのわずかな制限が、クロウヴェイル・ノアに逃げ道を与えた。
カイルは正面モニターを見据えたまま言う。
「この星を戦場にはしない。だが、捕まるつもりもない」
クロウヴェイル・ノアは帝国監視網の隙間を抜け、アース・ネメシスの重力圏を離脱していった。
格納庫では、カイト達が息を整えていた。
ユイは壁にもたれ、カナデの診断を受けている。
「ユイさん、反応は安定しています。危険域からは完全に抜けました」
「……ありがとう」
ユイは小さく答える。
カイトは彼女の隣に座った。
「あの実験機に行こうとした時、危なかった」
「うん」
ユイは素直に認めた。
「ノクス・リリスの反応に似てた。あれを止めれば、全部切れる気がした」
「でも、それも誘導だった」
「うん。カイトとカナデが止めてくれなかったら、たぶん行ってた」
その言葉は重かった。
だが、ユイは目を逸らさなかった。
「次は、もっと準備する。私だけで反応しないように」
「一緒にやろう」
カイトが言う。
ユイは小さく頷いた。
少し離れた場所では、レイが損傷したヴァナルガンドの前に立っていた。
左腕部は大きく焼けている。
整備班が慌ただしく動き回る。
カイルが近づき、低く言った。
「無茶をしたな」
「必要だった」
「実験機を完全に壊さなかったのは?」
「街に落ちる可能性があった。あの場で爆発させるわけにはいかない」
カイルは少しだけ笑った。
「らしい判断だ」
レイは何も返さなかった。
その隣で、ネヴァの回収作業も進んでいた。
アシュはコックピットから降りるなり、リンから怒鳴られていた。
「五秒って言ったでしょ!」
「間に合った」
「間に合ったじゃない! 識別網に食われかけた!」
「食われてない」
「そういう問題じゃない!」
リンの怒りに対して、アシュはいつものように淡々としている。
だが、その顔色はわずかに悪かった。
ネヴァの危険性は、彼自身が一番理解している。
長く出せば、帝国の網に引っかかる。
それでも今回は、出る必要があった。
カイルは二人を見て、短く言う。
「二人とも、後で報告書だ」
「ええ!?」
「分かった」
リンとアシュの反応は正反対だった。
カイトはそのやり取りを見て、少しだけ息を吐く。
全員、戻ってきた。
データも持ち帰った。
だが、勝ったわけではない。
アース・ネメシスは、まだ帝国の管理下にある。
エリオはあの街に残っている。
ハルドも地下で通信網を守り続けている。
グラウスは、この星を統治し続ける。
エルマは、ユイ達の反応を見つけた。
何かを得た代わりに、何かを残してきた。
クロウヴェイル・ノアの窓から、アース・ネメシスが遠ざかっていく。
青く、美しい星だった。
壊れていない星。
救われた星。
奪われた星。
その全てを抱えたまま、星は静かに回っている。
カイトは窓越しにその星を見つめた。
「解放できなかったな」
隣でユイが静かに言う。
「うん」
「でも、何もできなかったわけじゃない」
ユイは頷いた。
「持ち帰れた。記録も、データも、あの星のことも」
カイトは拳を握る。
アース・ネメシスを今すぐ変えることはできない。
だが、帝国の答えだけにさせないための最初の火種は残せた。
エリオが疑問を持った。
ハルドの記録を持ち帰った。
ノクス・レクイエム制御の目途も立った。
戦艦改造に必要な情報も得た。
苦い撤退だった。
だが、無意味ではなかった。
カイルの声が艦内に響く。
『クロウヴェイル・ノア、アース・ネメシス宙域より離脱。ルクス・ヴァルキュリアとの合流コースに入る』
カイトは遠ざかる星を見つめたまま、小さく呟いた。
「いつか、また来る」
その言葉は、誓いというほど強くはなかった。
だが、逃げの言葉でもなかった。
今は撤退する。
けれど、忘れない。
アース・ネメシス。
帝国に統合された地球。
その平和と支配の記憶を抱えたまま、クロウヴェイル・ノアは暗い宇宙へと抜けていった。




