第142話 エルマ・ディクセン
旧ドックを離れてから、カイト達は山岳外縁部の廃棄整備区画に身を潜めていた。
表向きは、帝国統合後に閉鎖された旧補助倉庫。
実際には、ハルド達がかつて物資回収に使っていた退避地点の一つだった。
壁は古く、照明は半分死んでいる。
だが、帝国の管理網からは外れかけている。
今のカイト達にとっては、それだけで十分だった。
ユイ、セラ、レータは壁際に座り、カナデの診断を受けていた。
前話のパルスティア識別網との浅い同期は、短時間で遮断された。
それでも、負荷は確かに残っている。
「ユイさん、同期波形は安定してきています。ただ、ノクス・リリス関連の反応がまだ消えていません」
カナデが端末を見ながら言う。
ユイは小さく頷いた。
「大丈夫。引っ張られてはいない」
「大丈夫かどうかは、こちらでも確認します」
「うん。分かってる」
ユイは素直に答えた。
以前なら、無理をしてでも自分だけで抱え込んでいたかもしれない。
だが今は違う。
カナデの診断は命令ではない。
彼女を縛るためのものではなく、戻ってこられるようにするためのものだ。
セラは壁に背を預け、腕を組んでいた。
顔色は悪くない。
だが、表情は明らかに不機嫌だった。
「気持ち悪い」
彼女が吐き捨てるように言う。
「識別された瞬間、自分が名前じゃなくて型番で呼ばれてる感じがした」
レータは端末に残ったログを見ながら、静かに答える。
「実際、あれは型番照合です。個人名ではなく、反応分類、適性、命令受容性、戦術補助系統との相性で見ています」
「最悪」
「同感です」
レータの返事は冷静だった。
だが、声の奥には普段よりも強い嫌悪があった。
カイトは三人を見て、胸の奥が重くなるのを感じた。
彼女達は、帝国の扉を開けるための鍵ではない。
前話でアシュが言った通り、あれは鍵穴ではなく首輪だった。
その意味を、カイトは遅れて実感していた。
「アシュ、追跡は?」
レイが通信端末に向かって尋ねる。
彼は倉庫の入口付近で警戒していた。
片手はいつでも武器に届く位置にある。
『監査ログは遅延させた。だが、完全には消せていない』
クロウヴェイル・ノアから、アシュの声が返る。
『上位管理層へ断片が飛んだ。現地総督府ではない。もっと上だ』
「帝国本国か?」
『本国直結か、戦術演算局の占領地管理系統か。どちらにせよ、厄介なところに触れた』
リンの声も通信に混じる。
『今のところ、現地部隊が即座に動いた様子はない。でも、識別反応は残った。こっちの位置までは特定されてないと思うけど、時間の問題かも』
その言葉に、カイトは息を呑む。
「じゃあ、急いで離脱した方がいいんじゃないか?」
『それが正しい』
アシュは即答した。
『だが、もう一つ問題がある』
「問題?」
『向こうから接続要求が来ている』
倉庫の空気が、一瞬で張り詰めた。
カナデの端末が低い警告音を鳴らす。
レータが顔を上げた。
「接続要求……識別網経由ですか?」
『ああ。こっちが切った中継層の残骸を辿っている。普通の追跡ではない。誰かが手動で触っている』
セラの目が鋭くなる。
「誰かって、誰?」
アシュは短く沈黙した。
そして、低く答える。
『エルマ・ディクセンの可能性が高い』
ユイの指がわずかに動いた。
カナデが即座に反応を見る。
「ユイさん」
「大丈夫」
ユイは答えた。
だが、その声は先ほどよりも硬くなっていた。
エルマ・ディクセン。
その名は、ユイの過去に繋がっている。
ヴァイス・クロムウェルとは違う形で、パルスティア達を見ていた人物。
研究者。
管理者。
評価者。
人を人としてではなく、結果として見る者。
「エルマは、ここにいるのか?」
カイトが尋ねる。
『おそらく遠隔だ。アース・ネメシスの現地総督府ではなく、帝国戦術演算局か、パルスティア管理系統から接続している』
アシュの声には、珍しく強い警戒があった。
『通信を開けば、こちらの位置を絞られる。だが、開かなければ向こうは別の手段で探し始める』
「開くのか?」
レイが問う。
『最小限だ。こちらから開くのではなく、向こうが残した接続要求を隔離領域に誘導する。会話はできるが、こっちの本線には触れさせない』
「危険は?」
『ある』
アシュはいつも通り、飾らずに言った。
『だから俺がやる。ユイ達は直接つなぐな』
その一言に、ユイは少しだけ目を伏せた。
セラが唇を噛む。
「また首輪か」
『そうだ』
アシュは否定しなかった。
『エルマはヴァイスとは違う。ヴァイスは人格をノイズとして切り捨てる。だがエルマは違う』
「どう違うの?」
セラが尋ねる。
『人格も感情も、使える機能として見る』
その説明に、倉庫内が静まり返った。
『恐怖も、愛着も、反抗心も、保護欲も、戦闘判断に影響するなら利用価値がある。エルマはそう考える』
ユイが低く呟いた。
「……そういう人だった」
カイトはユイを見る。
「ユイ」
「ヴァイスは、私達の感情を邪魔なものだと思っていた。エルマは違う。感情があるなら、それを含めて運用できると言っていた」
ユイの声は静かだった。
しかし、その静けさがかえって痛々しい。
「優しい言葉を使うこともあった。でも、それは人として見ていたからじゃない。壊れないように、性能を落とさないように、そう扱っていただけ」
レイの表情が険しくなる。
「研究者か」
「うん」
ユイは頷く。
「私達を失敗作だとは言わなかった。むしろ、評価していた」
その時、アシュの端末が低く唸った。
『隔離領域を作った。接続要求をそっちへ流す』
通信空間にノイズが走る。
廃棄倉庫の壁際に置かれた小型投影端末が点灯した。
カイト達が持ち込んだ偽装端末の一つだ。
そこに、帝国式の紋章が一瞬だけ映る。
次に、淡い立体映像が浮かび上がった。
女性の姿だった。
年齢は三十代後半から四十代ほどに見える。
整えられた髪。
白衣にも軍服にも見える、機能的な帝国式の長衣。
表情は穏やかで、声も柔らかい。
だが、その目だけが違った。
人を見る目ではない。
観察対象を見る目だった。
『接続成功。隔離処理あり。なるほど、警戒しているのね』
女性は微笑んだ。
『久しぶりね、ユイ』
ユイは立ち上がった。
カナデが止めようとしたが、ユイは首を横に振る。
「エルマ・ディクセン」
『覚えていてくれたのね。嬉しいわ』
その声は、本当に嬉しそうに聞こえた。
だからこそ、カイトは背筋に冷たいものを感じた。
エルマは周囲を見回すように視線を動かした。
映像越しであるにもかかわらず、その視線はユイ、セラ、レータを正確に捉えているように見えた。
『ユイ型、セラ型、レータ型。全員、想定以上に安定している。しかも離反後の自律判断がここまで維持されているなんて』
セラが睨みつける。
「勝手に型で呼ばないで」
『ごめんなさい。癖なの』
エルマは柔らかく謝った。
だが、その声には本当の意味での謝罪はなかった。
『でも、誤解しないで。あなた達を失敗作だと思ったことは一度もないわ』
ユイの表情がわずかに歪む。
エルマは続ける。
『あなた達は失敗作ではないわ。むしろ、非常に優秀な結果よ』
その言葉は、優しい評価のように響いた。
しかし、そこにあるのは肯定ではない。
実験結果への満足だった。
『ユイ、あなたは特にそう。感情による判断補正、保護対象への執着、命令外状況での柔軟な対応。どれも、単純な命令実行型にはない利点だった』
「私は、あなたの結果じゃない」
ユイが静かに言う。
エルマは微笑んだままだった。
『ええ。今はそう言うでしょうね。それも成長の一部よ』
レイが一歩前に出た。
「黙れ」
短い一言だった。
だが、そこには明確な怒りがあった。
エルマの視線がレイへ向く。
『レイね』
エルマの視線がわずかに細くなる。
『覚えているわ。ユイ達の離反以前から、ずっと近くにいた子でしょう』
レイは無言のままエルマを見据えた。
『戦闘適性反応あり。保護的攻撃傾向……なるほど。ユイ達の周囲には、興味深い人材が集まるのね』
レイの目が細くなる。
「人を分類するな」
『分類は理解の第一歩よ』
「違う。あんたは理解していない」
レイの声は低かった。
「あんたは名前を聞いても、型に直す。言葉を聞いても、反応に直す。怒りを見ても、攻撃傾向に直す」
エルマはわずかに目を細めた。
レイは続ける。
「それは理解じゃない。相手を、自分の扱える形に切り刻んでいるだけだ」
セラが驚いたようにレイを見る。
ユイも同じだった。
レイは感情を荒げることは少ない。
だが今、彼の怒りははっきりと外へ出ていた。
エルマはしばらくレイを見つめ、それから微笑んだ。
『面白いわ。あなたのような反応は、戦闘時に保護対象の性能維持へ良い影響を与えることがある』
「まだ言うか」
レイの手が武器へ伸びかける。
カイトがそれを横目で見て、静かに息を呑む。
映像相手に武器を抜いても意味はない。
だが、レイがそうしたくなる気持ちは分かった。
エルマはユイへ視線を戻す。
『問題は、感情を持ったことではない。感情を自己判断に使い始めたこと』
ユイはその言葉を受け止める。
『感情は有用よ。恐怖は危険回避に使える。愛着は護衛行動を強化する。怒りは瞬間出力を上げる。罪悪感は再発防止に役立つ』
「やめて」
ユイの声が震えた。
エルマは首を傾げる。
『なぜ? 私はあなた達を否定していないわ』
「否定してる」
『いいえ。ヴァイスなら、人格をノイズと呼ぶでしょう。私は違う。あなた達の人格も、感情も、成長も、全て価値ある要素として評価している』
「それを、人として見ていないって言うんだ」
ユイの声が強くなった。
エルマは初めて、少しだけ沈黙した。
その隙に、アシュの声が通信に入る。
『会話を長引かせるな。向こうが隔離層を測っている』
エルマの視線が、今度は通信の向こうを向いた。
『アシュね』
アシュの返事はなかった。
エルマは楽しげに言う。
『あなたも懐かしいわ。相変わらず、余計な安全装置を作るのが好きなのね』
『お前のような人間がいるから必要になる』
アシュの声には冷たさがあった。
エルマは微笑む。
『人間、ね。あなたが私をそう呼ぶのは、少し意外だわ』
『分類の話をするなら、俺はお前を研究者とは呼ばない』
『では何と?』
『管理者気取りの解体屋だ』
倉庫の空気がさらに冷える。
エルマは怒らなかった。
むしろ、その評価すら興味深そうに受け止めている。
『厳しいのね。でも、あなたも分かっているでしょう。管理しなければ、優れた個体は壊れる。使い方を誤れば、自分自身も周囲も破壊する』
『だから首輪をつけるのか』
『首輪ではなく、安全管理よ』
『同じだ』
アシュは即答した。
『本人が外せない安全装置は、首輪だ』
その言葉に、ユイは目を伏せた。
カナデも静かに端末を握りしめる。
彼女が今している監視と、帝国の管理は違う。
違わなければならない。
本人の意思を守るための制御と、本人の意思を奪うための管理。
その境界を、カナデは改めて意識した。
エルマはカナデにも気づいたように視線を向ける。
『あなたは……医療班にいた子ね。確か、カナデだったかしら』
カナデの指が、診断端末の上でわずかに止まった。
「覚えていたんですね」
『記録には残っているわ。ユイ達の精神負荷監視に、ずいぶん熱心だったもの。感情反応を安定させる手順も、あなたは丁寧だった』
「私は、彼女達を安定した兵器にするために見ていたわけではありません」
『目的が違っても、手段は似ることがあるわ』
カナデは端末を握りしめた。
その言葉が一番危険だと分かったからだ。
自分が今していることと、エルマがしていたことは似ている。
けれど、同じであってはならない。
「違います」
カナデは静かに言った。
「私は、彼女達が戻ってこられるように見ています。あなたは、彼女達を戻れない場所へつなごうとしている」
カナデは表情を引き締める。
『良い姿勢ね。外部監視は重要よ』
「あなたとは目的が違います」
『目的が違っても、手段は似ることがあるわ』
カナデは何も言わなかった。
その言葉が一番危険だと分かったからだ。
エルマは再びユイへ向き直る。
『ユイ。あなたがノクス・リリスの記録に触れたことは確認したわ』
ユイの目が鋭くなる。
『探しているのでしょう? ネメシス・レクイエムの制御に必要なものを。ノクス・リリスを中核に組み込むつもりかしら』
カイトが息を呑む。
こちらの構想を、どこまで読まれているのか。
エルマは楽しそうに続ける。
『理屈としては悪くない。ノクス・リリスの中核操縦系を使えば、レクイエム級の出力と変形構造を、ユイ型の反応に合わせて安定化できる可能性がある』
「……」
『でも、危険よ。帝国式命令系統を切り離せなければ、あなたは機体を動かすのではなく、機体に回収される』
ユイは黙って聞いていた。
『忠告してあげる。ノクス・リリスの旧データを追うなら、あなた達だけでは足りない。レクイエム級制御構造には、感情反応を出力制御に転用する層がある。そこを誤れば、あなたの意思は主制御ではなく、燃料になる』
カイトの顔色が変わる。
「燃料……?」
エルマは穏やかに答える。
『比喩よ。でも、近いわ』
セラが怒鳴る。
「ふざけるな!」
『ふざけていないわ。だから言っているの。あなた達は優秀だけれど、無防備すぎる』
「心配してるふりをするな」
レイが低く言った。
エルマは彼を見る。
「欲しいだけだろ。ユイ達が。研究結果が。自分の管理下に戻せるものが」
『否定はしないわ』
その素直さが、かえって異様だった。
『でも、破壊したいわけではない。回収し、調整し、より良い形で運用したいだけ』
「それを人間扱いしないって言うんだ」
レイの怒りがさらに濃くなる。
ユイが一歩前へ出た。
「エルマ」
『何かしら』
「私は戻らない」
エルマの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「ノクス・リリスの記録も、ノクス・レクイエムの制御も、あなたの管理下では使わない」
『あなた一人で決められることではないわ』
「一人じゃない」
ユイは振り返らなかった。
だが、その背後にはカイト、セラ、レータ、レイ、カナデがいた。
通信の向こうにはアシュとリンがいる。
ルクスには、ジンやリクト、ミオ達もいる。
「私は、私の意思で決める」
エルマは静かにユイを見つめた。
『自己判断の強化。保護対象との関係性による意思固定。興味深いわ』
「……やっぱり、あなたは変わらない」
ユイの声は冷たかった。
エルマは微笑む。
『あなたは変わった。だから、価値がある』
アシュの声が割って入る。
『時間切れだ。切るぞ』
エルマは通信の揺らぎに気づき、少しだけ残念そうにする。
『隔離層を崩すのが早いわね。もう少し話したかったのだけれど』
『二度と繋ぐな』
『それは難しいわ。私はもう、あなた達の反応を見つけた』
その言葉と同時に、投影端末に帝国式の文字列が走る。
照合完了には至らない。
だが、識別反応は確かに残っている。
『ユイ、セラ、レータ。あなた達は失敗作ではない。だからこそ、帝国は諦めない』
エルマの映像が薄れていく。
『次に会う時は、もう少し落ち着いた環境で話しましょう』
最後に、彼女はカイト達全員を見回すように視線を動かした。
『それと、レイ。あなたの反応も覚えておくわ。保護的攻撃傾向は、時に最も扱いやすい弱点になる』
レイの目が鋭くなる。
だが、エルマの映像はそこで途切れた。
倉庫に静寂が戻る。
誰もすぐには口を開かなかった。
カナデの端末だけが、ユイ達の反応を静かに表示している。
アシュの声が通信から響く。
『接続は切った。だが、完全には撒けていない』
「場所は特定されたのか?」
カイトが尋ねる。
『この倉庫までは来ていない。だが、アース・ネメシス内にユイ達がいることは、ほぼ把握された』
セラが舌打ちする。
「最悪」
『最悪ではない。まだ逃げられる』
アシュは淡々と言う。
『だが、これで猶予は消えた。次は現地総督府か、エルマ直属の管理系統が動く』
レータが立ち上がる。
「なら、次の行動を早める必要があります。ノクス・リリス旧データの所在タグは得ています。こちらが動く前に、向こうが封鎖する可能性があります」
ユイは拳を握った。
エルマの言葉が、まだ耳に残っている。
あなた達は失敗作ではない。
非常に優秀な結果。
感情も機能。
意思も反応。
自己判断も評価対象。
どれも、ユイを否定する言葉ではなかった。
だからこそ、深く傷ついた。
否定される方が、まだ分かりやすかった。
価値があると言いながら、人として見ていない。
それが、エルマ・ディクセンという敵だった。
レイがユイの横に立つ。
「気にするな、とは言わない」
ユイは彼を見る。
レイはエルマの消えた投影端末を睨んだまま言った。
「あの女の言葉は、全部お前達を測るためのものだ。受け取る必要はない」
「でも、全部が嘘じゃない」
「だから厄介なんだろう」
レイは静かに答えた。
「なら、嘘か本当かじゃなくて、誰のための言葉かで判断しろ」
ユイは少しだけ目を見開いた。
レイは続ける。
「あの女の言葉は、お前のためじゃない。帝国のためだ。なら、従う必要はない」
その言葉に、ユイの表情がわずかに緩む。
「……ありがとう」
レイは短く頷いた。
カイトも、ようやく息を吐いた。
「次に行こう。エルマが動く前に、ノクス・リリスの記録を確保する」
アシュが通信越しに答える。
『急ぐ必要はある。ただし、焦るな。次に直接触れれば、今度こそ首輪をかけられる』
「分かってる」
カイトはユイ達を見る。
「もう、誰か一人を鍵にはしない」
ユイ、セラ、レータはそれぞれ頷いた。
エルマ・ディクセンは現れた。
姿は遠隔映像に過ぎない。
だが、その存在は、ヴァイスとは違う形でユイ達の過去を抉った。
人格を否定しない敵。
感情を評価する敵。
人としてではなく、機能として肯定する敵。
その危険を知ったまま、カイト達は次の目的地へ向かう準備を始める。
ノクス・リリス旧データ。
レクイエム級制御構造。
それらは、もう単なる技術情報ではなかった。
ユイが、自分を誰のものにもさせないための戦い。
その入口に、彼らは立っていた。




