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第139話 旧地球記録館

 旧記録室は、中央記念館の地下にあった。

 地上の展示施設は明るく、整えられ、誰にでも分かりやすく作られていた。

 帝国が来る前、この地球は分断されていた。

 帝国が統合し、争いを終わらせた。

 だから今の平和がある。

 展示の流れは、どこを見ても同じ結論へ向かっていた。

 だが、地下へ降りる階段の先は違っていた。

 照明は少し暗く、壁の装飾も少ない。

 通路には帝国標準語の案内表示が並び、その下に、旧アース・ネメシスの言語らしき文字が小さく添えられている。

 ナユは、その二つの文字を見比べながら歩いていた。

「旧言語は、残っているんですね」

 彼女が呟く。

 レータが周囲を警戒しながら答えた。

「残されています。ただし、正式な行政言語ではありません。教育用、研究用、記念展示用。帝国では、こういう分類に入ります」

「使うための言葉じゃなくて、保存するための言葉……ということですか?」

「はい。消してはいません。ですが、生活の中からは切り離されています」

 その説明に、ナユは小さく息を呑んだ。

 言葉が残っている。

 文字も残っている。

 記録も残っている。

 けれど、それを使う人々の暮らしからは外されている。

 それは、消されることと同じではない。

 だが、残っているから失われていないとも言い切れなかった。

 旧記録室の入口には、二重の認証ゲートが設けられていた。

 一つ目は一般閲覧権限。

 二つ目は教育院上級課程、または帝国研究員向けの深層資料閲覧権限。

 レータは端末を手に取り、偽装コードを流し込む。

「リン、補助をお願いします」

『了解。こっちから旧中継ステーション経由で認証遅延をかける』

 通信越しにリンの声が入る。

 彼女はまだクロウヴェイル・ノア側にいる。直接潜入しているわけではないが、旧中継ステーションを経由して記録館の管理端末へ干渉していた。

『深層照合を三秒遅らせる。その間に通って』

「三秒ですか」

『文句言わない。これでもかなり無茶してる』

 レータは小さく笑った。

「十分です」

 認証ゲートに青い光が走る。

 同時に、黄色い警告表示が一瞬だけ浮かび上がった。

 だが、その表示はすぐに消える。

 レータが先に通過し、ナユ、イリスが続いた。

 最後にカイトが入ると、ゲートは何事もなかったかのように閉じた。

 旧記録室の中は広かった。

 壁一面に記録端末が並び、中央には立体投影装置が配置されている。

 そこに映し出されていたのは、この地球の古い地図だった。

 今のアース・ネメシスではない。

 帝国登録名を与えられる前の地図。

 複数の国境線。

 独自の都市名。

 海域名。

 山脈名。

 それぞれに、旧言語の文字が付されている。

 ナユはその地図の前で足を止めた。

「……これが、この星の前の名前ですか?」

 イリスが端末を操作する。

「該当記録を検索します。帝国登録前の惑星総称……該当項目、複数あり。統一名称は不明。地域ごとに異なる自称を使用。帝国統合後、全行政区分をアース・ネメシスとして再登録」

「統一名称は不明……?」

 カイトが眉をひそめる。

 イリスは淡々と続ける。

「帝国側分類では、統合前に単一惑星名として機能していた名称は存在しない、とされています。ただし、旧政府資料の中には、いくつか候補となる語があります」

 空中に、いくつもの文字列が浮かぶ。

 カイトには読めない。

 だが、ナユはその文字を見つめ、胸を押さえた。

「名前が、たくさんあったんですね」

 レータが頷く。

「この地球は、帝国統合前から一つの名前でまとまっていたわけではなかったようです。国家ごと、文化圏ごとに、自分達の世界の呼び名があった」

「だから、帝国は全部まとめてアース・ネメシスにした」

「はい。管理上は、その方が効率的です」

 レータの声には、感情を抑えた硬さがあった。

 彼女自身、帝国式の分類を理解できてしまう。

 だからこそ、その冷たさも分かっていた。

 ナユは古い地図を見上げたまま、ゆっくりと言った。

「効率的でも、呼んでいた名前は消えるんですね」

「記録上は残っています」

 イリスが答える。

 ナユは首を横に振った。

「記録に残っているのと、誰かが今も呼んでいるのは、違います」

 その言葉に、イリスの指が止まった。

 彼女は少しだけ考えるように沈黙し、それから小さく頷く。

「……理解しました。記録保持と文化継続は、同一ではありません」

「うん」

 ナユは静かに答えた。

 部屋の奥には、時代ごとに分類された記録展示が並んでいた。

 旧国家時代。

 資源戦争期。

 宇宙開発競争期。

 統合戦争期。

 帝国統治開始期。

 どの時代の資料も、きれいに保存されている。

 文書、映像、音声、個人記録、政府声明、軍事資料。

 量だけを見れば、帝国はこの世界の歴史を消していなかった。

 むしろ、徹底的に集め、整理し、保存している。

 だが、その分類名が全てを物語っていた。

 旧国家時代は「分断期」。

 宇宙開発競争期は「軍拡前段階」。

 資源戦争期は「統合必要性の顕在化」。

 文化復興運動は「局地的反帝国感情の形成」。

 抵抗組織の記録は「治安不安定要因」。

 旧政府の外交文書は「統合交渉失敗例」。

 カイトは一つの資料の前で足を止めた。

 そこには、旧地球側の代表者らしき人物が演説する映像が残っていた。

 音声は旧言語。

 帝国語の字幕が添えられている。

『我々は分断を望んでいるのではない。外から与えられる秩序ではなく、自ら選ぶ未来を求めている』

 そう字幕には表示されていた。

 だが、展示説明には別の言葉が大きく書かれている。

 ――統合前勢力による感情的反発の一例。

 ――自律を口実とした管理拒否。

 ――結果として、市民被害の拡大を招いた。

「……これ」

 カイトの声が低くなる。

「言っている内容と、説明の印象が違いすぎないか」

 レータが映像を確認する。

「帝国式の再分類です。発言そのものは残しています。ですが、文脈を帝国側の統治論に合わせて整理している」

「整理?」

 カイトは思わず言葉を強くした。

「これが整理なのか?」

 レータは少しだけ目を伏せた。

「帝国では、そう呼ばれます」

 ナユがその映像を見つめていた。

 古い代表者の声が、低く響いている。

 彼の後ろには、大勢の市民が映っていた。

 旗を掲げる者。

 泣いている者。

 手を取り合う者。

 怒っている者。

 恐れている者。

 その全てが、展示説明では一つの言葉に押し込められている。

 感情的反発。

 管理拒否。

 不安定要因。

「怖いです」

 ナユが言った。

「消されているわけじゃないのに、声が届かなくなっている」

 イリスは端末を操作しながら、複数の資料を照合していた。

「記録欠損を確認。該当時代の市民側音声記録の一部に、閲覧制限があります」

「改ざんか?」

 カイトが尋ねる。

「完全な改ざんではありません。原本は残っています。ただし、公開版では抜粋、要約、分類変更が行われています」

「都合の悪いところだけ隠してるってことか」

「はい。ただし、全てを隠しているわけではありません」

 イリスは別の映像を表示する。

 統合前の内戦。

 爆撃。

 避難民。

 飢餓。

 確かにそこには、この地球が抱えていた問題も映っていた。

 帝国が捏造しただけではない。

 この世界には、本当に争いがあった。

 本当に救いを必要とした人々がいた。

 だからこそ、帝国の物語は強い。

 嘘だけではないから、否定しづらい。

「帝国は、都合のいい事実を選んでいる」

 レータが言う。

「都合の悪い事実も完全には消さない。ただ、意味を変える。反抗は混乱。独立は非効率。文化は管理対象。旧名は資料分類。そうやって並べ替えます」

 ナユは小さく呟いた。

「記録の中に閉じ込めるんですね」

「そうです」

 レータは頷く。

「残しているから、奪っていないと言える。分類しているから、管理しているだけだと言える。帝国の統治は、そういう形を取ります」

 通信越しに、リンの声が入った。

『みんな、そっちで重い話をしてるところ悪いけど、こっちでもかなり重要なものを見つけた』

 カイトが顔を上げる。

「何だ?」

『記録館の管理端末、文化資料だけじゃない。旧軍施設や帝国改修後の軍需施設の位置情報が紐づいてる』

 空中に、新しい地図が表示される。

 都市の地下構造。

 軌道エレベーター周辺の軍事区画。

 沿岸部の旧造船施設。

 そして、山岳地帯に隠された大型ドック。

 リンの声が少しだけ緊張を帯びた。

『この大型ドック、今は帝国軍の補助整備施設になってる。でも基礎は旧地球時代の艦艇建造施設っぽい』

「戦艦用か?」

『たぶん。しかも、完全には閉鎖されてない。艦艇用の術式層安定器、帝国式管制中枢、GD搬送用の大型ハンガー。記録上は残ってる』

 レータが地図を確認する。

「帝国式統合改修ドック……これなら、クロウヴェイル・ノアやルクス・ヴァルキュリアの改造に使える情報があるかもしれません」

「施設そのものを使うのは無理だろ?」

 カイトが言う。

『もちろん無理。敵地のど真ん中だし、艦を突っ込むなんてできない。でも、設計データと管制規格なら抜ける可能性がある』

「リン、抜けるか?」

『今すぐ全部は無理。けど、場所と接続ルートは押さえた。後で潜入するなら、ここが候補になる』

 カイトは地図を見つめる。

 戦艦改造につながる情報。

 それは、このアース・ネメシスに来た目的の一つだった。

 だが、その手がかりが旧地球記録館から見つかったことに、カイトは皮肉のようなものを感じた。

 この星の失われた歴史を保存する施設。

 そこに、帝国に利用された軍需施設の情報が残っている。

 過去も、施設も、名前も。

 全てが帝国の管理網に組み込まれていた。

「イリス、旧名の記録はもっと探せるか?」

 ナユが静かに尋ねた。

 イリスは頷く。

「検索可能です。ただし、統合前名称は複数存在します。帝国登録上は全て地域史資料に分類されています」

「地域史……」

 ナユは古い地図を見上げた。

「この星は、今はアース・ネメシスと呼ばれている。でも、それだけじゃなかったんですよね」

 イリスは少し考えたあと、空中に複数の旧名称候補を並べた。

 国の名。

 大陸の名。

 宗教的な世界名。

 科学者達が使っていた惑星名。

 詩の中に出てくる古い呼び名。

 どれが正しいのかは分からない。

 もしかすると、全てが正しかったのかもしれない。

「帝国は、一つにした」

 ナユが言う。

「でも、一つにする時に、たくさんあった名前を下に押し込めた」

 カイトは静かに頷いた。

「それが統合か」

「はい」

 レータが答える。

「帝国にとって、複数の名前は管理上の揺らぎです。揺らぎは対立を生みます。対立は混乱を生みます。だから一つにする」

「でも、一つにされた側は?」

 ナユが問う。

 レータは答えなかった。

 答えられなかった。

 彼女もまた、帝国の分類の中で作られ、役割を与えられた存在だったからだ。

 その時、イリスの端末に警告が表示された。

「注意。深層資料へのアクセス履歴に対し、自動監査が走っています」

 リンの声が即座に入る。

『まずい。記録館側じゃなく、教育院の上位管理サーバーから照合が来てる』

「発見されたのか?」

『まだ。だけど、このまま資料を掘ると怪しまれる。時間は長くない』

 レータが地図と資料をまとめる。

「必要な情報を優先します。旧名記録、歴史改変の証拠、軍需施設位置、艦艇ドック情報」

「ノクスやパルスティア関係は?」

 カイトが尋ねる。

 イリスが別項目を検索する。

「パルスティア関連記録は、通常歴史資料には存在しません。ただし、管理タグに類似反応あり。分類名は、特殊人材・適性者検出制度」

 レータの表情が変わった。

「それは、パルスティア識別網につながる可能性があります」

「場所は?」

「この記録館にはありません。別施設です。統治府管理下の生体認証・適性分類センター」

 リンが地図上に新たな施設を表示した。

 都市中心部から少し離れた行政区画。

 帝国式の巨大な管理施設。

『ここ、かなり監視が厚い。正面からは無理』

「でも、そこに行けばユイ達の情報や、ノクス・リリス系統の手がかりがあるかもしれない」

 カイトが言う。

 レータは頷いた。

「可能性は高いです。ただし、危険も大きい。ユイやセラ、私が近づけば、識別網に反応する恐れがあります」

 ナユは古い地図から目を離し、表示された管理施設を見た。

 歴史を分類する場所。

 人を分類する場所。

 名前を変える場所。

 役割を与える場所。

 この星には、それらが同じ仕組みの中に並んでいる。

「記録も、人も、同じように分類されるんですね」

 ナユの声は震えていなかった。

 だが、その奥には確かな怒りがあった。

 カイトは彼女を見る。

 ナユは普段、あまり強い言葉を使わない。

 それでも今、彼女は静かに傷ついているように見えた。

 記録が残っていても、意味を変えられる。

 名前が残っていても、呼ばれなくなる。

 過去が残っていても、今を縛る材料にされる。

 それは、記憶を持たない者にとっても、重すぎる光景だった。

 イリスが必要なデータの複製を終える。

「主要情報の抽出完了。長時間滞在は危険です」

 リンも続ける。

『監査が近い。今すぐ出て。帰り道はこっちで開ける』

 レータが頷く。

「撤収します」

 カイト達は旧記録室を後にする。

 出入口へ向かう途中、ナユはもう一度だけ古い地図を振り返った。

 そこには、アース・ネメシスではない名前がいくつも浮かんでいる。

 誰かが呼んでいたはずの名前。

 誰かが守ろうとしたはずの名前。

 今はもう、資料分類の一部になった名前。

「忘れられたわけじゃない」

 ナユは小さく呟いた。

「でも、思い出す人がいなくなったら、忘れられたのと同じになる」

 カイトは何も言わなかった。

 その言葉に、簡単な返事はできなかった。

 旧記録室の扉が閉じる。

 上の階では、明るい展示室が観光客や学生を迎えている。

 帝国が救った地球。

 統合によって平和を得た星。

 そう説明された歴史が、整った照明の下に並んでいる。

 だが、地下には別の声が残っていた。

 かすかで、弱く、意味を変えられかけた声。

 その声を持ち帰るように、カイト達は旧地球記録館を後にした。

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