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第138話 帝国教育院

 帝国教育院は、中央記念館の隣に建てられていた。

 白い外壁。

 銀色の柱。

 広い前庭。

 校舎の正面には、帝国の紋章とアース・ネメシス統合記念章が並んで掲げられている。

 そこに、破壊の跡はない。

 兵士が銃を構えているわけでもない。

 前庭では、制服姿の生徒達が授業の合間らしく、穏やかに談笑していた。

 その光景だけを見れば、どこにでもある学校に見える。

 だが、校門の上に掲げられた標語が、それを否定していた。

 ――秩序を学び、帝国を支えよ。

 ――統合された名は、未来への誓いである。

 カイトはその文字を見上げ、言葉を失った。

「学校、なんだよな」

 ぽつりと呟く。

 隣に立つユイは、校舎から目を離さなかった。

「学校だよ。帝国にとっては、ここが一番大事な場所の一つ」

「軍の施設よりもか?」

「うん」

 ユイは静かに頷いた。

「兵器は壊せば終わる。でも、教えられた考え方は、人の中に残る。帝国はそれをよく知っている」

 その言葉に、カイトは前話で見た街の様子を思い出した。

 認証ゲート。

 統合記念碑。

 教育放送。

 帝国の標語。

 それらは、武器ではない。

 だが、街全体を覆うように存在していた。

「カイト」

 背後から小さな声がかかる。

 振り返ると、ナユが外套のフードを深くかぶったまま立っていた。

 低軌道の旧中継ステーションから別ルートで降下し、合流したばかりだった。

「ナユ、大丈夫だったか?」

「はい。リンさんの計算通り、監視の薄い時間に降りられました」

 ナユはそう言いながらも、視線を教育院の校舎へ向ける。

 彼女の表情は硬い。

「ここも、音が重なっています」

「前に言ってた、名前をかぶせる音か?」

「それに近いです。でも、ここはもっとはっきりしています。古い言葉の上に、新しい意味が並べられているような……そんな感じです」

 カイトには、ナユの言う感覚そのものは分からない。

 だが、この場所を見れば、何を言いたいのかは少し理解できた。

 教育院の外壁には、いくつもの歴史パネルが並んでいる。

 統合前のアース・ネメシス。

 戦争。

 飢餓。

 資源紛争。

 都市暴動。

 それらの写真や映像が、整理された説明文と共に展示されていた。

 そして最後には、必ず同じ結論へ行き着く。

 帝国による統合。

 秩序の回復。

 平和の実現。

 カイト達がパネルを見ていると、背後から声がかかった。

「昨日の外部作業員の方ですよね」

 振り返ると、そこには前日に出会った少年が立っていた。

 整った制服。

 胸元の教育院記章。

 年齢はカイトより少し下に見える。

 少年は礼儀正しく一礼した。

「エリオ・ハーゼンです。帝国教育院、士官候補課程に所属しています」

 レータが即座に軽く頭を下げる。

「昨日は案内をありがとうございました。こちらは追加の作業員です」

 ナユは静かに会釈した。

 エリオは警戒する様子もなく、柔らかく笑った。

「統合記念日に外部の方が来るのは珍しくありません。記念館や教育院の視察ですか?」

「少し、見せてもらっているだけだ」

 カイトは慎重に答えた。

「この星のことを、知りたくて」

 その言葉に、エリオの表情が少し明るくなる。

「それなら、教育院は良い場所だと思います。ここでは、統合前と統合後の歴史を学べますから」

「統合前……」

 カイトが壁面パネルを見る。

 そこには、燃える都市と避難民の列が映っていた。

 エリオはその横に立ち、教えられた内容を自然に口にする。

「帝国が来る前、この地球はずっと戦争をしていたそうです。国同士が資源を奪い合い、技術を独占し、弱い地域は飢えていたと習いました」

「習いました、か」

 ユイが静かに言う。

 エリオは頷いた。

「はい。統合以前の記録も残っています。映像、文書、証言記録。中央記念館にもあります」

 彼の言葉に嘘はなかった。

 少なくとも、エリオ自身はそう信じている。

「帝国が来てから、飢えなくなったのか?」

 カイトは尋ねた。

 エリオは迷わず答える。

「はい。完全ではありませんが、以前よりずっと安定したと聞いています。医療も、教育も、帝国の標準制度に組み込まれました。僕の祖父は統合前の混乱を知っていますが、今の方が子供は生きやすいと言っています」

 その言葉は重かった。

 帝国が悪であるなら、全てを奪い、焼き払い、住民を苦しめていてほしかった。

 そうであれば、反論は簡単だった。

 だが、目の前の少年は、帝国の秩序によって学ぶ機会を得ている。

 医療も、食料も、教育も、現実に整えられている。

 カイトはすぐに言葉を返せなかった。

 ナユが壁面パネルに近づく。

 そこには、統合前の政府代表達が写っている。

 しかし、その下の説明文には彼らの名前よりも、分断、対立、無秩序という言葉が大きく記されていた。

「記録は、残っているんですね」

 ナユが呟く。

 エリオは不思議そうに彼女を見る。

「はい。帝国は、統合前の過ちも残すべきだと教えています。同じ失敗を繰り返さないために」

「でも……」

 ナユは指先で、パネルの端に刻まれた旧言語の小さな文字をなぞる。

「記録が残っていても、意味を変えられたら、別のものになるんですね」

 エリオは一瞬、意味が分からないという顔をした。

 カイトも、ナユの言葉の続きを待った。

 ナユはゆっくりと振り返る。

「この写真に写っている人達は、きっと自分達の名前や理由や願いを持っていたはずです。でも、ここでは全部、帝国に統合される前の混乱として並べられている」

「それは……事実だからでは?」

 エリオは悪意なく答えた。

「争いがあったのは事実です。飢えた人がいたのも、戦争があったのも、記録に残っています」

「はい。たぶん、それは事実です」

 ナユは否定しなかった。

「でも、事実を並べる順番と、そこにつける意味を変えれば、記録は別の物語になります」

 その場に、静かな空気が降りた。

 エリオは少しだけ困ったように眉を寄せる。

 彼は反発しているわけではない。

 ただ、ナユの言葉をどう受け止めればいいのか分からないようだった。

「あなたは、帝国の教育が間違っていると言いたいんですか?」

 その問いに、ナユはすぐには答えなかった。

 ユイが代わりに口を開く。

「間違いだけでできているわけじゃない。だから、怖いんだと思う」

 エリオの視線がユイへ向く。

 ユイは教育院の校舎を見上げた。

「帝国は、全部を嘘で塗り替えるわけじゃない。本当にあった争いを使う。本当に救われた人を使う。本当に安定した生活を使う。その上で、帝国以外の道は間違いだったと教える」

 エリオの表情が、初めて硬くなった。

「帝国以外の道が、正しかったと言えるんですか?」

 ユイは答えない。

 答えられなかったのではない。

 簡単に答えるべきではないと分かっていた。

 カイトも同じだった。

 もし、統合前のアース・ネメシスが本当に戦争と飢餓に苦しんでいたなら。

 もし、帝国の介入によって多くの人が救われたなら。

 その全てを否定することはできない。

 だが、それでも胸の奥に引っかかるものがある。

 エリオは静かに続けた。

「あなた達は、外から来た人ですよね」

 その言葉に、レイの気配がわずかに鋭くなる。

 だが、エリオは敵意を向けているわけではなかった。

「僕達の街を見ましたか?」

「ああ」

 カイトは頷く。

「見た」

「人は飢えていません。病院は動いています。学校もあります。子供達は勉強できます。統合前より犯罪も減りました」

 エリオは真っ直ぐにカイトを見る。

「それでも、あなた達は帝国の支配を壊すべきだと思いますか?」

 カイトは息を呑んだ。

 エリオの声は責めるものではない。

 だからこそ、重かった。

「あなた達の言う自由は、僕達の平穏を壊すものではないんですか?」

 その問いに、カイトはすぐに答えられなかった。

 自由。

 解放。

 帝国への抵抗。

 これまで、自分達が当然のように掲げてきた言葉が、目の前の少年の生活に影を落とす。

 カイトは拳を握る。

「俺は……」

 言いかけて、言葉が止まった。

 帝国は間違っている。

 そう言うのは簡単だ。

 けれど、この街で生まれたエリオにとって、帝国は侵略者ではない。

 学校を作った存在であり、食料を届ける存在であり、未来の進路を与えた存在だ。

 カイトが何かを言えば、それは彼の生活そのものを否定することになる。

 ユイが横目でカイトを見る。

 助け舟は出さなかった。

 これはカイト自身が考えなければならない問いだった。

「……今は、答えられない」

 カイトは正直に言った。

 エリオは少し驚いたようだった。

「答えられないんですか?」

「ああ。俺は、この街を全部知ってるわけじゃない。統合前に何があったのかも、帝国が何をしたのかも、まだ全部は分からない」

 カイトはエリオから目を逸らさなかった。

「だから、簡単に壊すなんて言えない」

 エリオの表情が少しだけ和らぐ。

 だが、カイトは続けた。

「でも、簡単に正しいとも言えない」

 その言葉に、エリオは黙った。

「人が飢えなくなったことは、悪いことじゃない。病院が動いて、学校があって、子供が笑ってる。それは、たぶん大事なことだ」

 カイトは教育院の標語を見る。

「でも、他の道を選ぶことまで忘れさせられるなら、それは怖いと思う」

 エリオは答えなかった。

 彼はカイトの言葉を否定しようとして、何かを飲み込んだように見えた。

 ナユが静かに目を伏せる。

「名前が残っていても、呼び方が変われば、別のものになる。記録が残っていても、意味が変われば、違う物語になる」

 彼女の声は小さい。

 けれど、はっきり届いた。

「人も、同じなのかもしれません」

 ユイはその言葉に、わずかに目を伏せた。

 帝国にいた頃の自分。

 与えられた任務。

 教えられた価値。

 命令に従うことが正しいとされた時間。

 ユイはそれらを完全に否定できない。

 あの場所で生きていた自分も、確かに自分だった。

 だが、今は違う。

 違う道を選んだ。

 だからこそ、この教育院の空気は苦しかった。

「ユイさん」

 エリオが彼女を見る。

「あなたは、帝国を知っているんですか?」

 ユイは少しだけ間を置き、頷いた。

「知ってる」

「帝国は、そんなに悪いものですか?」

 その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。

 ユイはしばらく沈黙した。

 そして、静かに答える。

「悪いものだけではないと思う」

 カイトがユイを見る。

 ユイは続けた。

「でも、帝国は人を役割で見る。住民、兵士、技術者、管理対象、戦力。役に立つなら守る。従うなら生かす。でも、その人が何を望むかは、後回しにする」

 エリオは眉を寄せた。

「でも、全員の望みを聞いていたら、世界はまとまらないんじゃないですか?」

「そうかもしれない」

 ユイは否定しない。

「だから、帝国は強い。迷わないから」

「それは、間違いですか?」

「うん」

 今度は、ユイは迷わなかった。

「迷わないことが、いつも正しいとは限らない」

 エリオはその言葉を受け止めきれないように、黙り込んだ。

 その時、教育院の鐘が鳴った。

 澄んだ音が前庭に響く。

 生徒達が一斉に校舎へ戻り始めた。

 エリオも振り返る。

「次の授業が始まります」

「悪かったな、引き止めて」

 カイトが言うと、エリオは首を横に振った。

「いえ。外の人と話す機会は、あまりありませんから」

 彼は少し迷ったあと、カイト達に向き直った。

「中央記念館の奥に、統合前の旧記録室があります。一般公開されている資料より、少し詳しいものが見られます」

 レータの視線が動いた。

「旧記録室?」

「はい。教育院の上級課程や研究員が使う場所です。統合前の文書も残っています。ただ、閲覧には許可が必要ですが」

「なぜ、それを私達に?」

 ユイが尋ねる。

 エリオは少し困ったように笑った。

「あなた達が、本当に知りたそうだったからです」

 その答えに、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 エリオは一礼する。

「僕は帝国が間違っているとは思いません。でも、あなた達が何を見てそう考えるのかは、少し気になります」

 彼は校舎へ向かって歩き出す。

 途中で一度だけ振り返った。

「もし旧記録室を見るなら、気をつけてください。あそこは、普通の記念展示より監視が厳しいです」

 それだけ言い残し、エリオは生徒達の列へ戻っていった。

 カイトはその背中を見送る。

 敵ではない。

 だが、帝国の側にいる少年。

 悪人ではない。

 だが、帝国の秩序を信じている若者。

 その存在が、カイトの胸に重く残った。

「……難しいな」

 カイトが呟く。

 ナユが隣で頷いた。

「はい。壊れているものなら、直せばいい。でも、ここは壊れていないように見えます」

 ユイが静かに言う。

「壊れていることを、忘れさせられているのかもしれない」

 カイトは教育院の校舎を見た。

 白い壁。

 整った窓。

 笑い声。

 そして、その上に掲げられた帝国の紋章。

 ここには、確かに平穏があった。

 だが、その平穏は、誰かが選び直す余地を残しているのだろうか。

「旧記録室へ行こう」

 カイトは言った。

「この星が何を失ったのか。帝国が何を残し、何の意味を変えたのか。ちゃんと見ないと、何も言えない」

 ユイが頷く。

 ナユも、静かに前を向いた。

 帝国教育院の鐘が、もう一度鳴る。

 それは授業の始まりを告げる音だった。

 同時に、カイト達にとっては、この星の過去へ踏み込む合図でもあった。

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