第122話 セイン・オルティス
会談の場として案内されたのは、都市中心部にある高層建築の一室だった。
建物の外観は、白と淡い青を基調としている。
尖った威圧感はない。
軍事施設にも、政府庁舎にも見えない。
むしろ、医療施設や図書館に近い落ち着きがあった。
窓の外には、整然とした街が広がっている。
滑らかな道路。
一定間隔で並ぶ街路樹。
水路沿いを歩く人々。
案内ドローンが静かに飛び、車両は音もなく流れていく。
誰も急いでいない。
誰も怒鳴っていない。
誰も衝突しない。
失敗しない街。
カイトは、その言葉を胸の中で繰り返した。
前話で出会った少女のことが、まだ頭に残っている。
外の星を見てみたい。
そう言った時の彼女の目は輝いていた。
だが、AIの適性判定によって、彼女は別の進路を選び、穏やかに納得していた。
誰も傷ついていないように見えた。
けれど、何かが置き去りにされているようにも見えた。
会議室の中央には、円形のテーブルがある。
カイト、ユイ、ミオ、セラ、レータ、三島が席に着いた。
セイン・オルティスは向かい側に座る。
彼の横には補助端末が置かれているが、彼自身はそれに触れない。
それでも、周囲の空気そのものが彼を補助しているように感じられた。
セインは穏やかに頭を下げる。
「改めまして、アース・ネオジェネシスへようこそ。外部来訪者との直接対話は、我々にとっても重要な機会です」
「こちらも、受け入れに感謝します」
三島が丁寧に返す。
カイトは、少し間を置いてから口を開いた。
「さっきの子のこと、聞いてもいいか」
「教育区画で会った少女のことですね」
「はい」
セインはすぐに答えた。
その返答の速さに、カイトは少しだけ眉を寄せる。
「もう分かってるんだな」
「はい。あなたが会談冒頭で触れる可能性は高いと予測されていました」
「それ、会話としてはやりにくいな」
「申し訳ありません」
セインはすぐに謝った。
だが、そこにも怒りや焦りはない。
「ただ、隠しても不信を生むだけです。ですので、予測していたことも含めてお伝えします」
「……そういうところ、本当に徹底してるな」
「徹底しなければ、支援は人を傷つけます」
その言葉に、カイトは少し黙った。
支援は人を傷つける。
それをセインは知っている。
知っているからこそ、ここまで慎重なのだろう。
セインは続ける。
「彼女の進路提案は、強制ではありません」
「でも、非推奨って出てた」
「はい。外宇宙航路職は、彼女の適性値から見て長期的負荷が大きすぎると判断されています」
「本人が望んでも?」
「本人の希望は重要です。しかし、希望だけで選んだ結果、深刻な苦痛や挫折に至る可能性が高い場合、私達は再検討を提案します」
「苦しむかもしれないから、止めるってことか」
「はい」
セインは迷わず頷いた。
「私達は、できるだけ苦しみを減らすために社会を設計しています」
その言葉に、会議室の空気が少し変わった。
ミオが静かに尋ねる。
「苦しみを減らすことが、ネオジェネシスの基本思想なのですか」
「はい」
セインは穏やかに答える。
「犯罪、自傷、暴力、過度な悲嘆、孤立、衝動的な破滅行動。そうしたものは、多くの場合、本人だけでなく周囲も傷つけます」
「だから、事前に補正する」
ユイが言った。
「その通りです」
セインはユイを見る。
「怒りが暴力へ変わる前に。悲嘆が自傷へ至る前に。孤独が判断を歪める前に。私達は、本人が壊れてしまう前に手を差し伸べます」
「それが補正」
「はい」
セインの声は穏やかだった。
だが、その言葉に迷いはない。
「ネオジェネシスでは、重大犯罪の発生率は極めて低いです。自殺率も低く、家庭内暴力もほとんどありません。交通事故、教育放棄、医療未接続、孤立死も、他文明圏に比べれば非常に少ない」
「住民は、幸せなんですか」
三島が問いかけた。
セインは少しだけ間を置く。
「生活満足度は高い水準を維持しています。日常不安指数も低く、医療支援への接続率も高い。多くの住民は、現在の補正社会を肯定しています」
「数値ではなく、本人達の声としては?」
レータが言う。
セインは彼女を見た。
「本人達の声も、肯定的です」
「本当に?」
「はい」
セインは視線を伏せずに答える。
「少なくとも、多くの住民は、この社会を恐れてはいません。彼らは自分達の生活を、安定していて、優しく、安全なものだと考えています」
「それは、分かります」
ミオが言った。
「街を歩いていて、住民の方々が怯えているようには見えませんでした」
「ありがとうございます」
セインは丁寧に頷く。
「私達は、人間から自由を奪ったのではありません。不要な苦痛を減らしたのです」
その言葉は、柔らかかった。
だが、重かった。
カイトはすぐに言い返せなかった。
不要な苦痛。
それが本当に不要なら、減らした方がいいのかもしれない。
事故。
暴力。
自傷。
孤独。
後悔。
挫折。
もし、それらを事前に減らせるなら、それは確かに救いかもしれない。
けれど、少女の目の輝きが消えた瞬間を、カイトは忘れられなかった。
「でもさ」
カイトはゆっくり言った。
「傷つくかもしれないからって、最初から避けるのが正しいとは限らないだろ」
「その通りです」
セインは即答した。
カイトは少し拍子抜けする。
「否定しないのか」
「しません。挑戦によって成長する例もあります。失敗から学ぶこともあります。苦痛の全てを消すべきだとは、私達も考えていません」
「じゃあ」
「ですが」
セインは静かに続ける。
「回復不能な傷を負う可能性が高い選択を、成長の機会と呼ぶべきでしょうか」
「……」
「二度と立ち上がれないほどの失敗を、自由の結果として許容するべきでしょうか」
「それは……」
カイトは言葉に詰まった。
答えられない。
簡単に答えていい問いではない。
セインは責める様子もなく、穏やかに言った。
「苦しみを価値と呼ぶのですか」
会議室が静まり返る。
「夢を追って傷つくこと。選択を誤って人生を壊すこと。怒りに任せて誰かを傷つけること。悲しみに耐えきれず自分を壊すこと。それらを、自由の名で肯定するべきでしょうか」
「苦しみそのものを肯定したいわけじゃない」
カイトは絞り出すように言った。
「ただ、苦しむかもしれないからって、選ぶ前に止められるのは違う気がする」
「なぜですか」
「なぜって……」
カイトは眉を寄せる。
自分でも、うまく説明できない。
「自分で選んだって思えなくなるからだ」
「自分で選ぶことは、苦しみを引き受けることより重要ですか」
「いつもそうとは言えない。でも、大事だろ」
「苦しんでも?」
「……大事な時もある」
セインは一瞬だけ目を伏せた。
補助AIが返答を選んでいるのかもしれない。
だが、次に口にした言葉は、どこか彼自身のものに聞こえた。
「私には、あなたの言葉も理解できます」
「本当に?」
「はい。ですが、私は、多くの人がその苦しみに耐えられないことも知っています」
セインの声には、初めて少しだけ感情が混じった。
「ネオジェネシスにも、かつては事故がありました。犯罪がありました。親しい者の死に耐えられず、自ら命を絶つ者もいました。夢を追い、挫折し、人生を壊した者もいました」
「……」
「私達は、その全てを無意味だったとは言いません。ですが、同じ悲劇を繰り返さない方法があるなら、それを選ぶべきだと考えました」
ユイが静かに問いかける。
「その結果、人は迷わなくなった」
「迷いは残っています」
セインは答える。
「ただし、危険な方向へ進む迷いには支援が入ります」
「支援と誘導の境界はどこですか」
「本人の同意です」
「その同意が、補正された結果だった場合は?」
セインは、そこで少し沈黙した。
短い沈黙。
だが、それまでの滑らかな受け答えとは違う重さがあった。
「難しい問いです」
ようやく、セインは答えた。
「私達も、その境界を常に検証しています」
「常に検証しているなら、誤りもあるということですね」
「はい」
セインは、はっきり認めた。
「補正は万能ではありません。過去には過剰介入もありました。本人の意思を尊重したつもりで、実際には選択肢を狭めていた事例もあります」
「それでも、やめないんですね」
「やめれば、多くの人が再び苦しみます」
ユイは黙った。
彼女はネオジェネシスを完全には否定できなかった。
帝国の命令とは違う。
ここには、支配欲や征服欲が見えない。
少なくともセインは、本気で人を助けようとしている。
ユイ自身も、間違いが生む痛みを知っている。
命令に従った結果、壊れた者達を知っている。
判断を誤った結果、失われた日常を知っている。
もし、あの日の空港で。
もし、玲奈を失う前に。
もし、誰かが危険を補正できたなら。
そう考えてしまう自分を、ユイは否定できなかった。
セラが、ぽつりと言った。
「迷わないのは、楽です」
「セラ」
ミオが小さく名前を呼ぶ。
セラは手元を見つめたまま続けた。
「帝国の命令で撃っていた時、私は迷わずに済みました。撃つべきか、撃たないべきか。相手が何を思っているか。自分が後でどう感じるか。考えなくてよかった」
「それは、補正とは違います」
セインが言う。
セラは彼を見る。
「違うと思います。でも、似ている部分もあります」
「……」
「私が迷わなくて済むように、誰かが答えを用意してくれる。そういう意味では、少し似ています」
セインはすぐには答えなかった。
また、ほんの短い間。
補助AIが返答を選んでいるようにも見えた。
だが、セインはその提案を受け取った後、少しだけ言葉を変えたようだった。
「あなたにとって、迷うことは必要ですか」
「はい」
セラは迷わず答えた。
「今は、必要です」
「なぜですか」
「自分で撃つためです」
その声は静かだった。
だが、はっきりしていた。
「帝国の命令で撃つのではなく、誰かの補正で撃たないのでもなく。撃つことも、止まることも、自分で決めるためです」
「それが苦しくても?」
「はい」
セインは、セラをじっと見た。
「あなたは強いですね」
「違います」
「では?」
「強くなりたいだけです」
セラの言葉に、ミオがそっと目を伏せた。
ユイも、ほんの少しだけ表情を緩める。
カイトは、セラの横顔を見ながら思った。
きっと、こういうことなのだ。
答えを渡されるより、自分で迷いたい。
たとえ苦しくても、それでしか取り戻せないものがある。
会談は、しばらく続いた。
ネオジェネシスの犯罪抑止。
自傷予測支援。
失業や孤立の早期発見。
教育適性の補助。
医療支援への自動接続。
高齢者の生活維持。
災害時の避難誘導。
どれも、聞けば聞くほど有用だった。
セインは数字も出した。
住民の生活満足度。
重大事件の発生率。
長期うつ状態からの回復率。
自殺未遂の早期介入成功率。
孤立世帯への支援到達率。
その数字は、嘘には見えなかった。
むしろ、見事だった。
カイトは何度も反論しようとした。
だが、全てを否定することはできなかった。
この世界は、本当に人を助けている。
多くの人が救われている。
それは、たぶん事実だ。
だからこそ、難しい。
休憩のため、会談室に飲み物が運ばれてきた。
カイトの前には、刺激の少ない温かい飲み物が置かれる。
ミオには香りの柔らかいもの。
セラには苦味を抑えたもの。
ユイには体温変動を抑えやすいもの。
レータには集中疲労を軽くするもの。
誰も注文していない。
だが、それぞれに合っている。
カイトはカップを見て苦笑した。
「便利すぎるな」
「不快ですか」
セインが問う。
「いや。合ってるのが、逆に不気味」
「それも自然な反応です」
「何でも自然な反応って言われると、怒りづらいな」
「怒りたいのですか」
「いや、そういうわけじゃないけど」
セインは少し考えた。
「では、私は時々、あえて不完全な返答をした方がよいのでしょうか」
「いや、それはそれで違う気がする」
「難しいですね」
「そうだな。難しいんだよ」
そのやり取りに、ミオが小さく笑った。
セインも、ほんの少しだけ表情を和らげる。
その笑みは、補助AIが選んだものなのか。
それとも、彼自身のものなのか。
カイトには分からなかった。
やがて、話題は本題へ移った。
ジン艦長から許可を受け、三島がフォージで回収したデータの一部を提示する。
レータが補足し、ユイが画面上に侵食核の構造図を表示した。
「ここからが、我々の本来の確認事項です」
三島が言う。
「アース・フォージで回収した侵食核製造ログには、ネオジェネシス系演算網と一致する設計最適化の痕跡がありました」
「承知しています」
セインは静かに答える。
だが、これまでよりもわずかに表情が硬い。
レータが端末を操作する。
「フォージは部品を作っただけです。設計全体、特にヴェルデの生体都市へ侵入するための適応補正は、外部演算網を経由しています」
「はい」
「その経由先が、ネオジェネシス系の補正演算網です」
「可能性は高いと、こちらでも認識しています」
カイトはセインを見る。
「それは、ネオジェネシスが侵食核を作ったってことなのか?」
「現時点では、断定できません」
セインは答えた。
ただ、その声はほんの少しだけ遅れた。
「公式な記録上、アース・ヴェルデ侵食核の設計支援に、ネオジェネシス政府が関与した事実は確認されていません」
「政府が、って言い方だな」
カイトが指摘すると、セインは一瞬だけ沈黙した。
今までより長い間だった。
半秒。
一秒。
それだけの時間が、妙に長く感じられた。
セインの瞳が、わずかに動く。
まるで、彼の中で複数の返答候補が提示され、その中からどれを選ぶか迷っているようだった。
ユイが静かに言う。
「今、補助AIが返答を選び直しましたね」
「……はい」
セインは認めた。
「なぜですか」
「回答が、不完全な情報を含むためです」
「では、完全な情報をください」
ユイの声は淡々としていた。
だが、鋭かった。
セインは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、彼が初めて見せる明確な迷いだった。
やがて、セインはゆっくりと口を開く。
「政府としての関与記録は、ありません」
そこでもう一度、短い間。
「ですが、ネオジェネシス系演算網の一部が、外部要求に応答した可能性はあります」
会議室の空気が変わった。
カイトは身を乗り出す。
「外部要求って、誰からだ」
「現在、確認中です」
「帝国か?」
「その可能性があります」
セインは否定しなかった。
「ただし、それだけではありません。要求が、通常の兵器設計としてではなく、異常生体都市の安定化補正として処理された可能性があります」
「異常生体都市……ヴェルデのことか」
「はい」
セインは、画面に映る侵食核の構造図を見つめた。
「もし演算網がそれを、侵略兵器ではなく、過剰成長した生体ネットワークを沈静化する補正装置として認識したなら」
「設計を手伝った可能性がある」
ユイが言う。
セインは、わずかに頷いた。
「可能性は、あります」
その声は、今までで一番硬かった。
カイトは拳を握る。
「それでヴェルデが苦しんだんだぞ」
「はい」
「最適化のつもりで、侵食核を作ったかもしれないってことか」
「まだ断定はできません」
「でも、可能性はある」
「あります」
セインは逃げなかった。
その態度が、かえって重かった。
「調査を行います。必要であれば、演算ログの開示も検討します」
「検討じゃなくて、開示してほしい」
カイトが言う。
「すぐにはできません」
「なぜ」
「演算網には、市民の医療、教育、心理支援、治安補正に関わる個人情報が含まれます。不用意な開示は、市民の安全を損なう可能性があります」
「また安全か」
「はい」
セインは静かに言った。
「私達は、それを軽視できません」
カイトは言い返せなかった。
まただ。
正論だ。
たぶん、本当に市民を守るためなのだろう。
だが、その正しさの奥に、何かが隠れている。
ユイがセインを見る。
「では、次の会談では、開示可能な範囲の演算ログを提示してください」
「承知しました」
セインは頷いた。
「可能な限り、準備します」
また、一瞬だけ間があった。
「補助AIではなく、私自身の判断として」
その言葉に、カイトはセインを見た。
初めて、彼が少しだけ揺れているように見えた。
穏やかで、理性的で、敵意のない補正管理官。
人の苦しみを減らすことを、本気で善だと信じている男。
その彼が、侵食核のログを前にして、初めて返答を選び直した。
ネオジェネシスの優しさの奥に、まだ見えていないものがある。
カイトは、そのことをはっきりと感じていた。




