第121話 失敗しない街
アース・ネオジェネシスの地上は、驚くほど静かだった。
降下艇の窓から見える都市は、どこまでも整っている。
道路は滑らかな曲線を描き、建物の高さは周囲の景観を乱さないよう調整されていた。
広場には木々が植えられ、水路が細く流れている。
空には淡い青の案内ドローンが浮かび、地上の交通を見守っていた。
フォージのような煙突はない。
ヴェルデのように植物が街を覆い尽くしているわけでもない。
デッドエンドのような崩壊の痕跡もない。
ここには、壊れたものがほとんど見えなかった。
「本当に、平和そうだな」
カイトは小さく呟いた。
隣に座るユイは、窓の外を見たまま答える。
「はい。少なくとも、都市機能は非常に安定しています」
「戦闘の跡もない。汚染もない。住民も普通に暮らしている」
「そのように見えます」
ユイの言い方には、わずかな留保があった。
カイトはそれに気づいたが、すぐには聞かなかった。
降下艇には、カイト、ユイ、ミオ、セラ、レータ、そして三島が乗っている。
ジン艦長はルクス・ヴァルキュリアで待機し、クロウヴェイル・ノアのカイル達は軌道上で通信監視を担当していた。
ネオジェネシス側からは、外部接触区画への降下許可が出ている。
武装封印条件も厳しくはない。
ただし、降下中もこちらの状態は常に観測されていた。
レータが端末を確認する。
「こちらの心拍、声の揺れ、視線移動、筋緊張まで拾われていますね」
「そこまで分かるのか?」
「おそらく降下艇内部までは直接見ていません。ただ、機体外殻の振動と通信反応、座席センサーの反応を統合して推定しているようです」
「推定でそこまで?」
「精度は高そうです」
三島が困ったように息を吐く。
「歓迎されているというより、健康診断を受けながら入国している気分ですね」
「健康診断なら、まだいいんですけどね」
カイトがそう言うと、ミオが苦笑した。
「悪意はなさそうなのが、難しいですね」
「うん。悪いことをしている感じがしない」
「だからこそ、反応に困ります」
降下艇は、外部接触用の空港都市へ着陸した。
地上に降りた瞬間、カイトはまず空気の軽さに驚いた。
臭いがない。
油の臭いも、焦げた金属の臭いも、汚染された土の臭いもない。
空気はよく管理され、温度も湿度も不快にならない範囲に保たれている。
遠くには街路樹が並び、建物の白い外壁が柔らかく光を反射していた。
空港都市の職員らしき人々が、穏やかな表情で彼らを出迎える。
その中に、セイン・オルティスの姿もあった。
彼は通信の時と同じように、白を基調とした服を着ている。
実際に会っても、その印象は変わらなかった。
穏やかで、礼儀正しく、敵意がない。
ただ、あまりにも隙が少ない。
「ようこそ、アース・ネオジェネシスへ」
セインは丁寧に頭を下げた。
「皆様の到着を歓迎します。移動による身体負荷がありましたら、すぐに医療支援を手配できます」
「ありがとうございます。現時点では不要です」
三島が代表して答える。
セインは一瞬だけ間を置き、微笑む。
「承知しました。必要になりましたら、いつでもお申し出ください」
「今の間も、補助AIですか?」
カイトが聞く。
セインは頷いた。
「はい。来訪者に対して、医療支援を何度も勧めることが心理的圧迫になる可能性があるため、次の提案を控えるべきか確認しました」
「……丁寧だな」
「不快ですか?」
「いや。不快ってほどじゃないけど、なんか先回りされてる感じがする」
「自然な反応です」
セインは責める様子もなく答えた。
「こちらの社会に慣れていない方は、初期段階で同じ違和感を抱きます」
「それも記録済みか」
「はい」
「正直だな」
「不信を減らすには、隠さない方が有効です」
その言葉にも、また少しだけ間があった。
おそらく補助AIが表現を整えたのだろう。
カイトはそれを見て、逆に言葉を失った。
空港都市を出ると、専用の小型輸送車が待っていた。
完全自動運転の車両だ。
運転席はあるが、誰も座っていない。
車内は清潔で、座席の高さや角度が自動で調整される。
カイトが座ると、車内の音声が流れた。
《霧島カイト様。現在の身体緊張がやや高めです。座席角度を二度下げることで、負荷軽減が見込まれます。調整しますか》
「いや、いい」
《承知しました》
音声はすぐに引いた。
強制ではない。
ただ提案してくるだけだ。
それが、妙に落ち着かなかった。
都市の中へ入ると、その違和感はさらに強くなった。
道を歩く人々は、誰も急いでいない。
それでいて、流れは滞らない。
歩行者と自動車両は互いの進路を自然に譲り合い、信号待ちでいら立つ者もいない。
子供が走り出そうとすると、近くの案内ドローンが柔らかく光り、別の遊歩道を示す。
子供は文句を言わず、そちらへ向かった。
カイトはその光景を見て、眉を寄せる。
「事故が起きそうな感じが全然しないな」
「実際、交通事故率は極めて低いようです」
レータが端末を見ながら答えた。
「道路側、車両側、歩行者端末、案内ドローンが常に移動予測を共有しています。危険な進路は、本人が踏み出す前に誘導される」
「踏み出す前に、か」
カイトはその言葉を繰り返した。
街の広場では、老人がベンチに座って本を読んでいた。
隣では若い母親が子供と話している。
別の場所では、学生らしき集団が笑いながら端末を覗いていた。
どこにも緊張はない。
誰も怯えていない。
怒鳴り声も、争う声も、泣き叫ぶ声もない。
平和だ。
それは間違いなかった。
ミオが小さく言う。
「ここに住んでいる人達は、本当に落ち着いていますね」
「はい」
ユイが答える。
「恐怖で黙らされている様子はありません。強制労働や監視統制とも違います」
「帝国とは違う?」
「違います」
ユイは少しだけ間を置いた。
「ですが、似ている部分もあります」
「どこが?」
「迷いが少なすぎます」
カイトは街を見た。
住民達は穏やかに歩いている。
店先で商品を選ぶ人も、端末に表示されたおすすめを見て、すぐに頷く。
カフェの店員は客が迷う前に好みの飲み物を提案し、客は自然にそれを受け取る。
親子連れが道を選ぼうとすると、案内表示が最短で混雑の少ない経路を示し、二人は何も言わずにそちらへ向かった。
確かに、迷っていない。
だが、それは悪いことなのか。
道に迷わない。
買い物で悩まない。
事故に遭わない。
不快な選択を避けられる。
それは、便利で優しいことでもある。
カイトは、その判断に迷った。
「何か食べてみますか?」
セインが提案した。
「外部来訪者用に、消化負荷が低く、文化的抵抗が少ない軽食を用意できます」
「そこまで分かるんですか」
三島が問う。
「過去接触データと、皆様の生体反応からの推定です。もちろん、好みに合わない場合は変更できます」
「では、軽くお願いします」
三島が答える。
セインは頷き、一行を近くのカフェへ案内した。
カフェの店内も、やはり整っていた。
席と席の距離は適度に保たれ、話し声が他の客に届きにくいよう音響が調整されている。
照明は柔らかく、壁には落ち着いた色の絵が飾られていた。
店員は穏やかな笑顔で迎え、カイト達が席に着く前に人数分の水を用意する。
「ご来訪ありがとうございます」
店員は丁寧に言った。
「皆様の現在の身体状態に合わせ、三種類の軽食をご提案できます。栄養補助重視、文化適応重視、嗜好探索重視。どちらになさいますか」
「嗜好探索って何だ?」
カイトが聞く。
「まだご自身の好みが分からない方向けに、負担の少ない範囲で味の傾向を試せるものです」
「それはちょっと面白そうだな」
「では、霧島様には嗜好探索重視の軽食をおすすめします」
店員は迷わず答えた。
「ミオ様には栄養補助重視。セラ様には刺激の少ない文化適応重視。ユイ様には体調変動が少ない標準型。レータ様には集中疲労軽減を含むものをご提案します」
「早いですね」
レータが言う。
「はい。来訪者支援プロトコルに基づく提案です」
「あなた自身のおすすめはありますか?」
レータの問いに、店員は一瞬だけ止まった。
ほんの短い間。
それから笑顔で答える。
「私自身のおすすめは、嗜好探索重視の軽食です。来訪者の方が初めてこの街を知るには、よい選択だと思います」
「今、考えましたか?」
「はい。補助AIの提案と、私自身の経験を照合しました」
店員は自然に言った。
嘘をついているようには見えなかった。
カイト達は、それぞれ軽食を受け取った。
味は良かった。
強すぎず、薄すぎず、食べやすい。
カイトの皿には、少しずつ違う味付けの小さな料理が並んでいる。
確かに、自分の好みを探すにはちょうどいい。
「うまい」
「ありがとうございます」
店員は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、作り物には見えない。
だからこそ、カイトは困った。
ここは本当に良い街なのかもしれない。
住民は親切で、サービスは行き届いていて、事故も争いも少ない。
誰も苦しんでいるようには見えない。
だが、何かが引っかかる。
セラは手元の料理を見つめていた。
カイトが声をかける。
「セラ、どうした?」
「いえ」
「食べにくい?」
「そうではありません」
セラは少しだけ迷ってから言った。
「迷わなくて済むのは、楽だと思いました」
「……」
「何を食べるか。どこへ行くか。どう答えるか。全部、最初から提案される。間違えにくい。誰かを困らせにくい」
「それが、良いことに見える?」
「少しだけ」
セラは目を伏せる。
「帝国の命令とは違います。これは強制ではありません。でも、迷わなくていい感覚は、少し似ています」
「セラさん」
ミオの声が柔らかくなる。
セラは首を横に振った。
「大丈夫です。今の私は、そうなりたいとは思っていません。ただ、楽なのは分かります」
「……そっか」
カイトは何も言えなかった。
楽なことと、正しいことは違う。
少し前にセラが言った言葉が、ここでも重なる。
カフェを出た後、セインは教育区画の近くを案内した。
そこには学校のような建物が並んでいた。
ただし、カイトの知る学校とはかなり違う。
教室は固定されておらず、子供達は少人数で分かれて、それぞれ違う課題に取り組んでいる。
教師はいるが、全員に同じことを教えているわけではない。
AIが個々の適性や理解度を分析し、教師はその補助をしているようだった。
「教育も、適性に合わせているのか」
「はい」
セインが答える。
「ネオジェネシスでは、子供の認知傾向、興味、身体特性、感情反応、社会適応傾向を総合し、最も負担が少なく能力を伸ばせる進路を提案します」
「進路まで?」
「はい。早い段階で複数の候補を提示し、本人と保護者、教育支援AI、担当教員が相談します」
「それで、本人がやりたいことと違ったら?」
「本人の希望は重要な判断材料です」
セインは一瞬だけ間を置いた。
「ただし、希望が本人の長期的幸福を損なう可能性が高い場合、再検討を提案します」
「再検討」
「はい。無理に選ばせることはありません」
「でも、強くおすすめされ続けたら、断りにくくないか」
「その可能性はあります」
セインは否定しなかった。
「そのため、現在も支援提案の圧力値は調整を続けています」
「圧力値って言い方がもう怖いんだけど」
「ご指摘ありがとうございます。表現を改めます」
「いや、そういう意味じゃ……」
カイトは言いかけて止まった。
言葉が難しい。
セインは悪くない。
むしろ、こちらの違和感まで真面目に受け取っている。
だからこそ、やりづらい。
教育区画の広場では、子供達が小型端末を持って話していた。
そのうちの一人が、カイト達に気づいて手を振る。
十代前半くらいの少女だった。
黒髪に近い短い髪をしており、表情は明るい。
「外から来た人ですか?」
「ああ。そうだよ」
カイトが答えると、少女は目を輝かせた。
「宇宙船に乗ってきたんですか?」
「うん。ルクス・ヴァルキュリアっていう艦で来た」
「すごい。私、宇宙航路の仕事に興味があるんです」
その言葉に、カイトは少し嬉しくなった。
「そうなのか。じゃあ、将来は航宙士とか?」
「はい。できれば、外の星を見てみたいです」
少女はそう言って、すぐに笑みを少し弱めた。
「でも、適性外なんです」
「適性外?」
カイトが聞き返す。
少女は手元の端末を見せた。
そこには進路支援AIの表示があった。
候補進路。
第一推奨:都市環境調整士。
第二推奨:地域医療補助員。
第三推奨:教育支援分析員。
非推奨:外宇宙航路職。
理由:閉鎖空間長期滞在への適応値不足。未知環境下における不安反応高。帰還不能リスクへの耐性低。
「外宇宙航路は、私には向いていないそうです」
「でも、興味はあるんだろ?」
「あります」
少女は頷いた。
だが、その声は穏やかだった。
「でも、AIが何度も説明してくれました。私は、知らない場所へ行くことに憧れているだけで、実際の負荷には耐えにくいって」
「それで、諦めたのか?」
「諦めたというか……納得しました」
少女は笑った。
その笑顔は、本当に穏やかだった。
「都市環境調整士も大事な仕事です。私の感受性は、人が過ごしやすい空間を作るのに向いているそうです」
「それは……悪い仕事じゃないと思う」
「はい。良い仕事です」
少女はそう言った。
何も強制されているようには見えない。
涙もない。
怒りもない。
自分の未来を受け入れているように見える。
だが、カイトは彼女が最初に見せた目の輝きを覚えていた。
外の星を見てみたい。
そう言った時の声。
その一瞬だけ、彼女は迷わず笑っていた。
セインが静かに言う。
「彼女の進路提案は、過去のデータから見ても妥当です。外宇宙航路職は、強いストレスと長期的な孤独を伴います。憧れだけで選べば、本人が深く傷つく可能性があります」
「それは分かる」
カイトは答えた。
「でも、傷つくかもしれないからって、最初から行かない方がいいって言われたら……」
「本人の幸福を守るためです」
「本人の希望は?」
「希望も考慮されています」
「でも、最後に勝ったのは適性なんだろ」
セインは、少しだけ間を置いた。
「長期的幸福の予測値が、適性進路の方が高かったためです」
その答えは理性的だった。
たぶん正しい。
少女が外宇宙航路を選べば、本当に苦しむのかもしれない。
都市環境調整士になれば、人に感謝され、安定した生活を送れるのかもしれない。
それでも、カイトは納得しきれなかった。
少女は端末を胸に抱え、穏やかに笑っている。
「大丈夫です。私は、ちゃんと納得しています」
「……そっか」
カイトはそれ以上、何も言えなかった。
ユイは少女を見ていた。
セラも、同じように黙っていた。
レータは端末の表示を見つめ、わずかに眉を寄せる。
誰も怒鳴っていない。
誰も泣いていない。
誰も傷ついているようには見えない。
だからこそ、難しかった。
この街は、人を苦しめない。
間違える前に手を差し伸べる。
失敗しないように、最適な道を示す。
けれど、その道の脇に、小さな願いが置き去りにされている。
カイトは、初めてこの街の怖さをはっきりと感じた。
失敗しない街。
それは、間違いを減らす街だ。
同時に、間違えるかもしれない自由を、静かに削っていく街でもあった。




