第98話 アース・デッドエンド
航行開始から数時間後。
ルクス・ヴァルキュリアの艦内には、普段よりも重い静けさが漂っていた。
警報が鳴っているわけではない。
戦闘態勢でもない。
だが、誰もが分かっていた。
これから向かう場所は、ただの調査宙域ではない。
アース・デッドエンド。
かつて地球と呼ばれ、今は終わりを意味する名で記録されている星。
その名が艦内通信で読み上げられるたび、空気が少しずつ冷たくなっていくようだった。
ブリッジの大型スクリーンには、航路図が表示されている。
旧帝国航路の断片。
破損した戦域コード。
汚染宙域を避けるための迂回経路。
そして、アース・デッドエンドの推定座標。
ジン艦長は指揮席に座り、静かに前方を見ていた。
カイトはその少し後ろに立ち、手元の端末に表示されたアルタイル・ノヴァの待機状態を確認している。
だが、視線は何度もスクリーンへ向いた。
そこには、まだ星は映っていない。
ただ、目的地を示す赤い点だけがある。
それだけなのに、胸の奥が重かった。
「緊張しているのか」
隣から声がした。
ユイだった。
「してる」
カイトは正直に答えた。
「戦闘前とは違う感じだけど」
「分かります」
ユイはスクリーンを見る。
「あの信号は、救難であり、警告でもあります。何が待っているか分かりません」
「それでも、行くしかない」
「はい」
ユイの声は静かだった。
だが、いつもの冷静さとは少し違っていた。
カイトはそれに気づいた。
「ユイも、怖いのか」
「はい」
ユイは否定しなかった。
「帝国の兵器が壊した地球を見ることになります。私は直接その作戦に関わっていません。でも、帝国がどういう兵器を作るのかは知っています」
彼女は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そして、レクイエムも同じ方向へ進む可能性があります」
カイトは何も言えなかった。
ネメシス・レクイエム。
ノクス・レクイエム計画。
あれは、まだ凍結されている。
だが、もし必要になれば、いつか使うかもしれない力だ。
そして今から見るのは、強すぎる兵器が制御できなくなった後の世界。
ユイにとって、それがどれほど重い意味を持つのか、カイトにも少し分かった。
クロウヴェイル・ノア側の展望区画。
アイナは窓の前に立っていた。
小さな手で、胸元の布を握っている。
横にはカイルがいた。
少し離れて、ナユとリンも立っている。
誰も急かさなかった。
誰も、無理に話しかけなかった。
展望窓の向こうには、まだ星は見えていない。
ただ、濃い宇宙の闇と、遠く流れる汚染粒子の淡い光だけが見えていた。
「アイナ」
カイルが静かに声をかける。
「無理に見る必要はない」
アイナは首を横に振った。
「見ます」
「怖くなったら、すぐ下がれ」
「はい」
返事は小さかった。
それでも、彼女は窓から離れなかった。
カイルはそれ以上言わなかった。
アイナが見ようとしているものを、止めることはできない。
それは、彼女が戻りたい場所ではない。
だが、見ずに済ませられる場所でもなかった。
《目的宙域、接近》
《旧帝国警戒ビーコンを検出》
《汚染粒子濃度、上昇》
イリスの声が、ブリッジに響いた。
大型スクリーンに、次々と観測情報が表示されていく。
まず映ったのは、星ではなかった。
破壊された人工衛星だった。
太陽光を受けて、割れた外殻が鈍く光っている。
アンテナは折れ、太陽電池パネルは半分以上が剥がれ落ちていた。
その近くを、機能停止した迎撃衛星の残骸が流れている。
さらに奥には、民間宇宙港らしき大型構造物があった。
かつては人や物資を運ぶ拠点だったのだろう。
だが今は、半壊したリング状の骨組みだけが残り、崩れたドックの中に朽ちた船体が引っかかっている。
「……宇宙港か」
カイトが呟く。
ジン艦長が低く言う。
「民間用だったようだな」
イリスが解析結果を読み上げる。
「識別信号は破損。登録国、確認不能。ただし、民間避難船と思われる小型船体の残骸を複数確認」
三島は監査席で端末を握りしめていた。
記録しなければならない。
そう思っているのに、指が少し止まった。
画面に映るのは、戦闘中の艦隊ではない。
今まさに攻撃してくる敵でもない。
ただ、置き去りにされた残骸だった。
避難しようとした船。
逃げられなかった港。
壊れた衛星。
止まった警告装置。
それらが、無音の宇宙に漂っている。
「監査官補佐」
黒瀬ではなく、ジン艦長の声だった。
三島ははっと顔を上げる。
「はい」
「無理にすべてを即時記録しなくていい。必要なら映像ログを後で確認できる」
「……ありがとうございます」
三島は小さく答えた。
だが、すぐに端末を持ち直した。
「記録します」
声は震えていた。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
ルクス・ヴァルキュリアとクロウヴェイル・ノアは、慎重に宙域へ侵入した。
汚染粒子が多い。
古い機雷反応もある。
帝国軍が放棄した監視ブイのいくつかは、まだ微弱な信号を出していた。
そこには、旧帝国語で警告が繰り返されている。
《接近禁止》
《汚染宙域》
《封鎖戦域》
《帝国軍管理区域》
《管理権限、失効》
クロエの通信が入る。
《こちらクロウヴェイル・ノア。古い警告ビーコンを複数確認。ほとんどは壊れてるけど、まだ動いてるのもある》
カイルの声が続いた。
《触るな。古い帝国ブイは、死んでるように見えても噛みつくことがある》
タツヤが顔をしかめる。
「嫌な言い方だな」
グリッドが通信越しに笑う。
《実際、噛みつくんだよ。近づいたら迎撃衛星の残骸が起きることもある》
ジン艦長は即座に命じた。
「全艦、警戒レベルを一段上げる。こちらから攻撃はしない。だが、自動迎撃システムの再起動に備えろ」
《了解》
ブリッジに緊張が走る。
だが、攻撃は来なかった。
ただ、壊れた星の周りを、壊れた機械達が沈黙して漂っているだけだった。
それがかえって不気味だった。
やがて、スクリーン中央に惑星の輪郭が現れた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
そこにあったのは、地球だった。
だが、カイトの知る地球ではなかった。
青くない。
まず、そう思った。
海は黒緑色に濁っていた。
深い青のはずの部分が、腐食した金属のような色をしている。
大気には暗緑色と毒黄色の雲が渦巻き、場所によっては赤黒い帯のような汚染層が大陸を覆っていた。
大陸の一部は、焼け跡のように黒く変色している。
山脈なのか、都市の跡なのか、遠目には分からない。
夜側へ回り込んだ部分には、わずかに人工的な光が見えた。
だが、それは都市の灯りというには少なすぎた。
生きている街の光なのか。
無人施設の警告灯なのか。
それとも、壊れた自動システムが意味もなく光り続けているだけなのか。
誰にも分からなかった。
「これが……地球……?」
カイトの声は、ほとんど息のようだった。
ユイは何も言わなかった。
ただ、画面に映る汚染された大気を見つめていた。
その目は、いつもよりも冷たく、そして痛そうだった。
三島は、端末を握ったまま動けなかった。
これは資料ではない。
報告書でもない。
戦闘後の被害推定図でもない。
地球という名前の星が、壊された結果だった。
彼女は今まで、ルクスを危険視してきた。
ユイ達PTを監査対象として見てきた。
レクイエム残骸を、地球を壊しかねない災厄候補として記録した。
その判断は間違っていない。
今でもそう思う。
だが、目の前の星は、それとは別の答えを突きつけていた。
危険な力を使った後に、何が残るのか。
それが、そこにあった。
クロウヴェイル・ノアの展望区画。
アイナは、その星を見ていた。
誰も何も言わなかった。
ナユは不安そうにアイナを見ている。
リンは黙って壁際に立っている。
カイルは、アイナの横顔を見ていた。
やがて、アイナが小さく口を開いた。
「……空の色、まだ戻ってない」
その一言で、カイルの表情がわずかに歪んだ。
泣き叫ぶわけではない。
取り乱すわけでもない。
ただ、見たままを言っただけだった。
それが、かえって重かった。
彼女はこの空を知っている。
壊れていく空を見たことがある。
そして今、何年も経った後でも、その空は戻っていない。
「アイナ」
カイルが静かに呼ぶ。
アイナは首を横に振った。
「大丈夫、です」
その言葉は、大丈夫ではない者の言葉だった。
カイルはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、通信を開く。
《こちらクロウヴェイル・ノア。アイナが星を確認した》
ジン艦長が答える。
「状態は」
《今は保っている。だが、無理はさせない》
「了解した」
その通信を聞きながら、三島は映像越しにアイナを見ていた。
記録するべきだった。
アース・デッドエンド生存者、現地確認時に強い心理反応。
そう書けば、監査記録としては正しい。
だが、それだけでは足りなかった。
画面の向こうにいるのは、保護対象者という項目ではない。
壊された地球を、もう一度見ている少女だった。
ブリッジに、カイルの通信映像が大きく表示された。
彼はいつもの軽い調子を消していた。
目の前にある星を、もう一度見るようにしてから、低く言う。
《ここで帝国は勝った》
その言葉に、誰も返さなかった。
《敵勢力を沈黙させ、主要都市を制圧し、軌道上の防衛網を破壊した。軍事的には、勝利だった》
カイルは少しだけ目を伏せた。
《だが、勝った後に残ったのは、これだ》
スクリーンには、黒緑の海と毒黄色の雲が映っている。
《テュポーンが空を汚した。エキドナが封鎖区画を増殖巣に変えた。ヒュドラが生物にも機械にも感染を広げた。帝国軍は制御不能を確認して撤退した》
カイトは拳を握った。
「撤退……」
《ああ。勝った後に、捨てた》
カイルの声は低かった。
《この星も、生き残った奴らも、全部な》
その言葉は、ブリッジに重く落ちた。
ユイが静かに言う。
「帝国は、勝つための兵器を作りました」
誰も遮らなかった。
「でも、その兵器が勝った後の世界を壊し続けている」
ユイの視線は、惑星から離れない。
「止める方法を用意しないまま、使った」
カイトはユイを見た。
彼女の表情はいつも通りに見えた。
だが、その手はわずかに握られていた。
レクイエムも同じだ。
カイトは、その言葉がユイの中にあることを感じた。
強すぎる力。
制御できると信じた力。
必要だから使う力。
だが、使った後に止められなければ、世界を壊す。
アース・デッドエンドは、その結果だった。
イリスが観測データをまとめる。
「惑星大気、広範囲に化学汚染反応。高度上層に機械粒子混在。生物圏反応は大幅に低下」
レータが続ける。
「都市部の熱源は少数。規則的な点滅が多いため、居住区の生活灯ではなく、自動施設の警告灯、または無人制御装置の可能性が高いです」
ミオが通信解析を進めながら言う。
「救難信号はまだ微弱に続いています。ただ、地表からではありません」
「地表からではない?」
カイトが聞き返す。
ミオは画面を切り替えた。
惑星の表面図が表示される。
汚染層の下に、ひとつの信号源が示された。
大陸の内陸部。
黒く焼けた都市圏の外れ。
その地下深く。
「地表の汚染層に遮られて、発信源がかなり歪んで見えています。でも、レータとイリスの解析を合わせると、おそらく地下です」
イリスが頷く。
「地下構造物。深度、推定四百から六百メートル。旧避難施設、または封鎖都市区画の可能性」
レータが追加する。
「信号は二重構造を持っています。外側は救難信号。内側は警告信号です」
スクリーンに、再び文字列が表示された。
《救援を……地球を名乗る者へ……》
《接近禁止……感染リスク最大……》
《生存区画……残存……》
《外部開放禁止……》
矛盾した言葉が並んでいた。
助けを求めている。
だが、近づくなとも言っている。
カイトは、その不気味さに背筋が冷たくなるのを感じた。
「どっちなんだ……」
レータが静かに答える。
「どちらも、です」
「どちらも?」
「助けを求める何かが存在する。同時に、開けてはならない危険も存在する。そう考えるのが自然です」
三島が端末に記録しながら、顔を上げた。
「それでも、調査は必要なんですね」
黒瀬はここにはいない。
だが、彼女は黒瀬ならどう言うかを考えていた。
危険だから行くな。
そう言うだろうか。
いや、違う。
黒瀬なら、おそらくこう言う。
危険だからこそ、確認しろ。
三島は息を整え、記録を続けた。
クロウヴェイル・ノアの展望区画では、アイナが通信画面に表示された地表図を見ていた。
信号源の位置が赤く点滅している。
彼女の表情が、わずかに変わった。
カイルが気づく。
「知っている場所か」
アイナはすぐには答えなかった。
目を細め、画面に映る地形を見つめる。
地形は大きく変わっている。
都市は焼け、雲は汚染で覆われ、昔の道も境界線も分からない。
それでも、何かを思い出したようだった。
「……たぶん」
「無理に言うな」
カイルが止める。
アイナは首を横に振った。
「地下の避難区画が、あったと思います」
その声は震えていた。
「名前は……全部は覚えていません。でも、数字がありました。第七、だったかもしれません」
カイルの目が鋭くなる。
《ルクス、聞こえたか》
ジン艦長が応じる。
「聞こえている」
レータがすぐに解析を走らせた。
「旧都市区画データと照合。第七地下残存区画という名称が、破損記録に存在します」
イリスが続ける。
「信号源候補と一致します」
カイトは息を呑んだ。
「そこに……誰かいるのか?」
答えは返らなかった。
いるかもしれない。
いないかもしれない。
いるとしても、人とは限らない。
それでも、信号はそこから届いている。
ジン艦長はしばらく画面を見つめていた。
そして、静かに命じる。
「軌道上での観測を継続。無人探査機の準備を進めろ。有人降下はまだ行わない」
カイトは少しだけ口を開きかけた。
だが、すぐに閉じた。
ここで焦って降りるべきではない。
それは分かる。
救難信号があるからこそ、慎重に動かなければならない。
救助隊が感染を広げたり、封鎖を破って災害を再拡大させたりすれば、何の意味もない。
ジン艦長は続ける。
「イリス、レータ、ミオ。信号解析を継続。三島監査官補佐は記録を地球側へ送る準備を」
「了解」
「了解しました」
「了解です」
三島は端末を握り直した。
彼女の手は、まだ少し震えていた。
だが、今度は止まらなかった。
記録しなければならない。
この星がどう壊れたのか。
まだ何が残っているのか。
ルクスが何を見て、何を判断するのか。
それを、地球側へ伝えなければならない。
ユイはブリッジのスクリーンを見つめていた。
黒緑の海。
毒黄色の雲。
焼けた大陸。
わずかに残る人工光。
そのすべてが、胸の奥に沈んでいく。
「ユイ」
カイトが声をかける。
「大丈夫か」
ユイは少しだけ間を置いてから答えた。
「大丈夫ではありません」
カイトは黙った。
ユイは続ける。
「でも、見ておく必要があります」
「どうして」
「これは、帝国の過去です」
ユイの声は静かだった。
「そして、私達の未来になり得るものです」
カイトは息を呑んだ。
「ルクスも、レクイエムも、強い力を持っています。必要だから使う。守るために使う。そう言うことは簡単です」
ユイは、ゆっくりと拳を握った。
「でも、使った後に止められなければ。制御できなければ。責任を取れなければ」
彼女は画面の星を見た。
「こうなります」
カイトは、何も言えなかった。
否定したかった。
ルクスは違う。
ユイは違う。
自分達は、こんなことにはしない。
そう言いたかった。
だが、その言葉は出なかった。
違うと証明するには、ただ信じるだけでは足りない。
確認し、記録し、止める仕組みを作る。
それでも間違えないように、何度でも確かめる。
そうするしかない。
黒瀬が言っていたことの意味が、少しだけ分かった気がした。
数時間後。
無人探査機の発進準備が整った。
クロウヴェイル・ノア側からも、小型偵察ドローンが射出される予定だった。
ルクス側の観測室では、信号源の解析が続いている。
イリスが淡々と報告する。
「旧救難信号、継続受信。発信周期、一定。ただし、一部の音声断片に変化があります」
ジン艦長が尋ねる。
「変化?」
「はい」
イリスは音声ログを再生した。
雑音が走る。
それから、途切れ途切れの声が聞こえた。
《――こちら、第七――》
《――生存区画――》
《――救援を――》
《――外部開放、禁止――》
《――まだ――》
音声が途切れる。
再びノイズ。
そして最後に、別の声が混じった。
《――ここは、まだ――地球――》
ブリッジが静まり返った。
カイトは、その声を聞いて胸が詰まった。
ここはまだ地球。
壊れても。
捨てられても。
汚染されても。
終わったと記録されても。
そこにいた誰かは、そう言い残していた。
ジン艦長は目を閉じ、短く息を吐いた。
「発信源を再確認しろ」
イリスが頷く。
「はい」
レータが解析結果を重ねる。
「発信源、確定に近づいています。地表ではありません」
スクリーンに、立体地形図が表示された。
汚染された大地。
崩れた都市。
その地下に広がる、古い構造物。
赤い点が、深部で微かに明滅している。
ミオが静かに言った。
「救難信号の発信源は、地表ではありません」
イリスが続ける。
「汚染された大地の下。旧都市地下構造物、第七地下残存区画」
レータが最後に言う。
「封鎖された地下残存区画から、まだ声が届いています」
カイトは画面を見つめた。
その奥に何があるのかは、まだ分からない。
生存者か。
警告装置か。
罠か。
それとも、終わった世界が残した最後の記録か。
ただ一つだけ分かることがある。
この星は、まだ完全には沈黙していなかった。
救難信号の発信源は、地表ではなかった。
汚染された大地の下。
封鎖された地下残存区画から、まだ声が届いていた。




