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第99話 残存区画

 アース・デッドエンドの軌道上。

 ルクス・ヴァルキュリアとクロウヴェイル・ノアは、汚染された惑星を見下ろす位置で静かに待機していた。

 眼下には、黒緑に濁った海と、毒黄色の雲が渦を巻く大気がある。

 その奥に、救難信号の発信源があった。

 地表ではない。

 汚染された大地の下。

 旧都市地下構造物、第七地下残存区画。

 そこから、まだ声が届いている。

 だが、その声は一つではなかった。

 ルクスの解析室では、複数の端末が並び、信号解析が続いていた。

 イリスは中央の観測席に座り、受信データを分解している。

 レータはその隣で、旧帝国戦域コードと現地の地形データを照合していた。

 ミオはルナ・スケイル・リフレクトを経由した通信中継の補正を担当し、クロエはクロウヴェイル・ノア側から裏市場で集めた旧航路情報や廃棄記録を照らし合わせている。

 そして三島は、監査官補佐としてそのすべてを記録していた。

 ただし、いつものように機械的には書けなかった。

 画面に映っているのは、ただの通信ログではない。

 誰かが助けを求めているかもしれない声だった。

 同時に、近づくなと警告している声でもあった。

「信号を二層に分離します」

 イリスが淡々と言った。

 スクリーンに波形が表示される。

 一つの信号に見えていたものが、解析により二つの層へ分かれていく。

 外側の周期信号。

 内側に埋め込まれた警告コード。

 レータが目を細めた。

「外側は、広域救難信号です。おそらく避難施設が外部へ向けて自動送信していたもの」

 ミオが補足する。

「受信しやすいように単純化されています。かなり古い形式ですが、意味は分かります」

 スクリーンに、復元された文字列が表示される。

《救援を……地球を名乗る者へ……》

《生存区画……残り……》

《子供……医療……水……》

《外部支援……要請……》

 カイトは、解析室の後方でその文字を見つめていた。

 子供。

 医療。

 水。

 それらの単語が、異様に生々しかった。

 戦闘記録ではない。

 兵器の仕様でもない。

 そこには、誰かが生きるために必要だったものが並んでいた。

「これだけ見れば、救難信号ですね」

 三島が小さく言った。

 レータは頷く。

「はい。ですが、問題は内側です」

 イリスが次の層を開いた。

 今度は文字列の色が赤に変わる。

《接近禁止……》

《NB-15封鎖失敗……》

《感染拡大……》

《外部開放禁止……》

《封鎖維持……》

《救援隊……感染媒介リスク……》

 解析室の空気が重くなる。

 三島は息を呑んだ。

 救援を求めている。

 だが、開けるなとも言っている。

 助けてほしいのか。

 近づかないでほしいのか。

 どちらなのか。

 答えは、画面の中で割れていた。

「矛盾していますね」

 三島が言う。

 レータは静かに首を振った。

「矛盾ではなく、両立している可能性があります」

「両立?」

「内部に救助対象が存在する。しかし、外部開放すれば感染が広がる。だから救援を求めながら、接近を禁止している」

 三島は言葉を失った。

 あまりにも残酷な状況だった。

 助けてほしい。

 だが、助けに来れば危険が広がる。

 その二つを、同じ信号が繰り返している。

 クロエの声が通信越しに入る。

《こっちでも旧記録を照合した。第七地下残存区画は、たぶん戦前の地下避難都市を改造した施設だね》

 ジン艦長が問う。

「避難都市?」

《元は災害用の大型シェルター。戦争後半に、地上都市の住民を収容するために拡張されたらしい。帝国軍が制圧後、汚染対策施設としても使った記録がある》

 レータが続ける。

「ただし、その後にエキドナ汚染とヒュドラ感染が確認されています。封鎖命令は、おそらく帝国軍撤退前に出されたものです」

 カイトが顔を上げる。

「帝国が封鎖したのか?」

 アルベルトが静かに答えた。

「可能性は高い。制御できなくなったから封鎖したのだろう」

「中に人がいたかもしれないのに?」

 アルベルトは答えなかった。

 その沈黙が、答えに近かった。


 クロウヴェイル・ノア側の通信画面には、アイナの姿が映っていた。

 彼女はカイルの隣に座り、信号の復元文字列を見ていた。

 ナユが少し離れて、心配そうに見ている。

 リンも壁際に立ったまま、口を閉ざしていた。

 カイルが低く言う。

《アイナ、無理に見るな》

 アイナは小さく首を振った。

「大丈夫です」

 その声は、やはり大丈夫ではない者の声だった。

 イリスが新しい復元情報を表示する。

《第七地下残存区画》

《旧都市圏北西避難網》

《医療冷却区画》

《児童保護ブロック》

 その文字が出た瞬間、アイナの肩が小さく震えた。

 カイルが気づく。

《アイナ》

 アイナは画面を見つめたまま、ぽつりと言った。

「そこ……知っています」

 解析室にいた全員が、通信画面を見る。

 カイルはすぐに言った。

《無理に話さなくていい》

「でも……」

《今すぐ全部思い出す必要はない》

 カイルの声は、いつもよりずっと静かだった。

 アイナは唇を噛んだ。

 しばらくして、小さく言う。

「名前だけです。全部は、覚えてないです」

 レータが慎重に尋ねた。

「第七地下残存区画という名称に覚えがある、ということで間違いありませんか」

 アイナは少し考えてから頷いた。

「たぶん。避難した場所の名前だったと思います。大人の人が、そう言っていました」

「医療冷却区画は?」

 その問いに、アイナの顔がわずかに強張る。

 カイルがすぐに遮った。

《そこまででいい》

 レータはすぐに頭を下げた。

「失礼しました。質問を停止します」

 アイナは何も言わなかった。

 ただ、画面に表示された「児童保護ブロック」という文字を見つめていた。

 三島は端末に記録を入力しようとして、指を止めた。

 アース・デッドエンド生存者アイナ、信号内の区画名に反応。

 それは記録として正しい。

 だが、あの表情をそれだけで残していいのか分からなかった。

 記録しなければならない。

 しかし、文字にした瞬間、何かを削り落としてしまうような気がした。

 三島は迷った末、こう入力した。

《対象アイナ、第七地下残存区画および関連施設名に反応》

《詳細な聞き取りは心理負荷を考慮し中断》

《当該区画は、対象者の過去と関連する可能性あり》

 事実。

 必要な配慮。

 それ以上は、まだ書けなかった。


 信号解析はさらに進んだ。

 イリスは受信データを細かく切り分け、レータがそれを時系列に並べ替える。

 クロエはクロウヴェイル側から旧帝国軍の撤退ログと照合し、ミオはノイズを除去して音声断片を復元していく。

 復元された音声は、ひどく聞き取りづらかった。

 子供の声のようなもの。

 大人の声。

 合成音声。

 警報。

 ノイズ。

 それらが、折り重なるように流れる。

《――救援を――》

《――水が――》

《――児童区画、優先――》

《――封鎖を維持してください――》

《――開けないで――》

《――まだ、ここに――》

 カイトは、拳を握りしめた。

「助けを求めてる」

 その言葉に、誰もすぐには答えなかった。

 三島が画面から目を離せずに言う。

「でも、開けるなとも言っています」

「分かってる」

 カイトの声は低い。

「分かってるけど……」

 助けたい。

 その気持ちはある。

 だが、それだけでは動けない。

 ここで不用意に動けば、救助するはずの自分達が感染を広げるかもしれない。

 危険を地上へ、艦へ、あるいは別の地球へ持ち帰るかもしれない。

 それも分かっている。

 だから、カイトは動けなかった。

 レータが静かに言った。

「救助するには、まず開けてもよい区画と、開けてはいけない区画を区別する必要があります」

「そんなこと、できるのか?」

「やるしかありません」

 レータの返答は淡々としていた。

 だが、冷たくはなかった。

「救助対象が存在する可能性を捨てないためにも、感染拡大の危険を無視してはいけません」

 三島は、その言葉を聞きながら黒瀬のことを思い出していた。

 黒瀬なら、どう判断するだろう。

 救難信号があるから行け、とは言わない。

 警告信号があるから行くな、とも言わない。

 おそらく、こう言う。

 確認しろ。

 危険を確認し、救助対象を確認し、開けるべき扉と閉ざすべき扉を確認しろ。

 その上で判断しろ。

 三島は、自分の端末に一文を追加した。

《現時点で、救助可否の即断は不可能》

《ただし、未確認の生存可能性が存在する以上、調査継続は必要》

 それは、彼女自身の判断だった。


 ミオが音声ログを一つ選択した。

「これ、少し違います」

 スクリーンに音声波形が表示される。

 他の自動音声とは違う、不安定な揺らぎがあった。

 ミオはノイズ除去をかけ、再生した。

《――名簿……更新不能――》

《――避難者……照合――》

《――児童保護ブロック……登録者――》

《――状態……破損――》

 イリスが即座に反応する。

「避難者名簿の断片です」

 レータが解析を走らせる。

「データ容量は小さい。完全な名簿ではなく、救難信号に付随した要約情報のようです」

 クロエの声が入る。

《こっちでも受けた。圧縮形式が古すぎるけど、復元できるかもしれない》

 ジン艦長が言う。

「復元を優先しろ。ただし、汚染コードの混入に注意」

「了解」

 イリス、レータ、ミオ、クロエの作業が同時に進む。

 スクリーンに、断片的な名簿データが表示された。

 文字は欠けている。

 記号は崩れている。

 状態欄の多くは破損していた。

 それでも、名前らしきものが並んでいるのが分かる。

《登録者名簿:児童保護ブロック》

《――ナ……》

《――リオ……》

《――ミナ……》

《――アイ……》

 アイナの表情が変わった。

 カイルが画面へ視線を向ける。

「止めろ」

 だが、アイナが小さく言った。

「止めないで」

 カイルは息を呑んだ。

 アイナは画面から目を離さなかった。

「見ます」

 その声は震えていた。

 それでも、彼女は逃げなかった。

 イリスが確認するように尋ねた。

「復元を続けますか」

 ジン艦長は一瞬迷った。

 だが、アイナ本人の意思を見て、静かに頷いた。

「続けろ。ただし、無理はさせるな」

「了解」

 復元が進む。

 破損していた文字列が少しずつ補完されていく。

《アイナ・――》

 名字部分は欠けている。

 だが、名前ははっきり出た。

 アイナ。

 解析室の空気が止まった。

 三島は息を呑んだ。

 カイトは通信画面を見る。

 アイナは、ただ画面を見ていた。

 泣いてはいない。

 叫んでもいない。

 ただ、そこに自分の名前があることを、受け止めようとしていた。

 イリスは静かに言った。

「名簿内に、アイナの登録名と思われる項目を確認」

 レータが続ける。

「状態欄は破損しています。生存、死亡、搬送、いずれも判別できません」

 クロエが追加する。

《他にも複数の児童登録名がある。けど、状態欄は全部壊れてる》

 スクリーンに、さらに名簿が表示された。

《アイナ・―― 状態:■■■》

《リオ・―― 状態:■■■》

《ミナ・―― 状態:■■■》

《セト・―― 状態:■■■》

《ハル・―― 状態:■■■》

 名前が並ぶ。

 だが、その横にあるはずの情報は、すべて破損していた。

 生きているのか。

 死んだのか。

 救出されたのか。

 置き去りにされたのか。

 何も分からない。

 アイナの唇が、小さく震えた。

「……知ってる名前が、ある気がします」

 カイルは目を伏せた。

「今は、それ以上言わなくていい」

 アイナは頷いた。

 それでも、画面から目を離さなかった。


 解析室に沈黙が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、三島だった。

「ジン艦長」

「何だ」

「この情報は、地球側へ送ります。ただし、アイナさんの個人情報と心理的負荷に関わる部分は、監査局内部でも閲覧制限をかけたいです」

 カイトは少し驚いて三島を見た。

 三島は端末を握りしめている。

 声はまだ少し震えていた。

 だが、その判断ははっきりしていた。

「監査記録として必要な範囲は残します。でも、彼女の名前をただの資料として広げる必要はありません」

 ジン艦長は静かに頷いた。

「認める。黒瀬監査官への報告にも、その方針を明記しておけ」

「はい」

 三島は端末へ入力した。

《避難者名簿に対象アイナと一致する登録名を確認》

《詳細個人情報は心理的保護の観点から制限記録とする》

《状態欄は破損。生死および搬送履歴は不明》

 彼女は一度だけ画面の向こうのアイナを見た。

 記録は必要だ。

 だが、記録することは、傷を広げることではないはずだ。

 少なくとも、そうでなければならない。


 イリスが名簿データの残りを解析しながら言う。

「名簿データは不完全です。ただし、児童保護ブロックと医療冷却区画の接続記録があります」

 レータが画面を切り替えた。

「第七地下残存区画は、複数の区画に分かれています。外縁部は汚染。中層は封鎖。深部に、医療冷却区画と中央管理室が存在します」

 カイトが顔を上げる。

「中央管理室?」

「おそらく、救難信号を出している中枢です」

 ミオが続ける。

「そして医療冷却区画には、生命維持装置があった可能性があります」

 カイトの胸が高鳴る。

「じゃあ、そこに誰かがいるかもしれない」

「可能性はあります」

 レータは慎重に言った。

「ただし、同時に感染リスクも最も高い区域です」

 カイトは頷いた。

「分かってる」

 本当に分かっているのか、自分でも自信はなかった。

 でも、分かろうとはしていた。

 助けたいだけでは、助けられない。

 それを、この星は何度も突きつけてくる。


 だからこそ、彼らは急がなければならない。

 そして、急ぎすぎてはいけなかった。

 イリスが最後の信号断片を再生した。

《第七地下残存区画》

《中央管理室……応答不能》

《医療冷却区画……一部稼働》

《児童保護ブロック……登録者照合不能》

《救援を……》

《接近禁止……》

《救援を……》

《接近禁止……》

 救援と警告が、交互に繰り返される。

 助けを求める声。

 近づくなという声。

 そのどちらも、同じ場所から届いていた。

 ジン艦長はしばらく画面を見つめた後、静かに言った。

「次は、降下計画を立てる」

 カイルの通信映像が頷く。

《ああ。ただし、最初から有人で突っ込むな。無人機で外縁部を確認する》

 レータが言う。

「降下隊を出す場合、感染対策、封鎖維持手順、撤退基準を先に決める必要があります」

 三島が端末に記録する。

「黒瀬監査官なら、そう言うでしょうね」

 カイトが三島を見る。

 三島は少しだけ苦笑した。

「確認しろ、と。きっと」

 カイトも小さく頷いた。

「そうだな」


 クロウヴェイル・ノア側の通信画面で、アイナはまだ名簿を見ていた。

 カイルが隣に立つ。

「アイナ」

「はい」

「今日はここまでだ」

 アイナは少しだけ迷うように目を伏せた。

 だが、やがて頷いた。

「……はい」

「続きは、必要なら一緒に見る」

「一緒に?」

「ああ」

 カイルは画面の名簿を見た。

「一人で見るものじゃない」

 アイナは何も言わなかった。

 ただ、胸元の布を握りしめた。

 ナユがそっと近づき、小さな菓子袋を差し出した。

「共有」

 アイナは少しだけ驚いたようにナユを見る。

 ナユは真面目な顔で続けた。

「気持ちが軽くなる可能性あり」

 リンが横から言う。

「根拠は薄い」

「でも、可能性あり」

 アイナは、ほんの少しだけ表情を緩めた。

「ありがとう」

 菓子袋を受け取る手は、まだ震えていた。

 だが、受け取った。


 ルクスの解析室では、復元された避難者名簿が制限記録として保存された。

 イリスは記録を完了させ、端末を閉じる。

「本日の解析結果を保存しました」

 レータが言う。

「第七地下残存区画への接近には、段階的な調査が必要です。次回、降下隊編成と無人探査手順を提案します」

 ジン艦長は頷いた。

「各員、休息を取れ。判断を誤らないためにも、無理はするな」

 解散の指示が出る。

 だが、誰もすぐには動かなかった。

 スクリーンには、最後に復元された名簿の一部が残っている。

 そこには、アイナの名前があった。

 そして、その隣に、いくつかの知らない名前が並んでいた。

 状態欄は、すべて破損していた。

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