動かない英雄
1916年8月29日、モルトケの後任として参謀総長及び陸軍最高司令部長を務めていたエーリッヒ・フォン・ファルケンハインは、その職を辞任した。そして、パウル・フォン・ヒンデンブルクがその後任に、エーリヒ・ルーデンドルフが参謀次長に就任した。
「ルーデンドルフ参謀次長、これは一体……?」
ルーデンドルフが提示した資料に目を通した議員は困惑した。
「挙国一致を旨とした新たな国家体制の案です。ぜひとも、帝国議会の皆様方にも把握をお願いしたい」
資料にはルーデンドルフが構想していた総力戦体制の内容が事細かく記されていた。
「戦争に勝つためには避けては通れぬ道なのであります。ぜひとも我々にご協力願いたい」
今や、戦争指導を一手に握るルーデンドルフに、銃後の彼らが口答えできる余地は残っていなかった。
彼は、軍部のみならず政界においても自らの要求を通そうとしていたのだ。
「シュライザー大尉……、戻ってきませんね……」
「嘆くな。彼の方が戻ってくるまでは我らでこのソンムを守り抜くと申したではないか」
「そうですが……」
ラインハルトが抱える砲兵隊は、ベルリンに舞い戻ったラインハルト不在の中、西部戦線で戦い続けていた。戦況そのものに悪いことは起きていなかったが、変化はあった。
「シュライザー大尉の側近だったあの人……、大尉殿との格差が凄いです……」
「前にお会いした時は、あんな感じではなかったのだがな……」
アグネスがラインハルトと交代するようにソンム戦線にやってきた。彼女を知るドイツ兵は当初、彼女を歓迎した。だが、次第に彼女に恐怖感を抱く者も増えていった。
「フォーゲル殿、ここの守りですが」
「却下。それではすぐに敵に破られる」
「申し訳ありません……」
「ここの守りに兵員を割く」
「待ってください! それではここを守る兵士を死なせるようなもの……」
「それがなにか?」
戦線を維持するための作戦会議では、アグネスの気迫の前に男たちは萎縮した。そして、彼女が提示する作戦に異論を唱える者はいなかった。アグネスが来てからは、いつもそんな感じであった。
「彼の方、怖すぎないか……?」
「馬鹿か、お前? 言うてまだ、19歳とかそこらだろ? 可愛いもんじゃないか」
「お前、彼の方の目を見てそれが言えるか?」
アグネスは、外を出回るラインハルトと違って塹壕の作戦室に篭っていた。
「フォーゲル殿、それは何をなさっているのですか?」
「数学……」
「数学……? なんでまた、そのようなものをここで?」
「……」
アグネスはいちいち返事を返さなかった。そっけなかった。
彼女にとって、数学はラインハルトとの結びつきを自覚できるものであった。
(また新しい証明が得られた……。シュライザー大尉は喜んでくれるかな)
アグネスは、紙の上を華麗に滑っていたペンを止めた。
ーーー喜ぶわけがないだろう!!ーーー
彼女の脳裏にラインハルトの叫び声が反響する。ラインハルトの悲しげな表情が浮かぶ。
アグネスはペンをぎゅっと握りしめ、首を垂れた。
「どうして……?」
アグネスはその姿勢のまましばらく動かなかった。
下士官たちは、ぴくりともしないアグネスを不気味に思った。
「もっとだ。もっと成果を上げなきゃ……」
アグネスは再び作戦を考え始めたーー。
(戦争に赴いている間に、僕もすっかりガロアの年齢を超えてしまったな……)
ラインハルトは、群論に関する専門書を読みながら、フランスの若き天才数学者、エヴァリスト・ガロアに思いを巡らしていた。
(しばらく数学から離れていたせいで、ちょっと理解力が落ちているかも)
ラインハルトは一人で、ベルリンの大学時代の下宿部屋にいた。長らく空けていた分の埃が溜まっていた。
ラインハルトは机に面した窓から空を眺めた。
(必要以上の休暇を取っているんじゃ、いつまでもホテルにいられないしなぁ……)
本棚には、弾道学の本がある。
ラインハルトは首を横に向けて、本棚を見た。
(みんな、待ってるだろうな……)
ラインハルトは戦場の兵士たちのことを思い出した。彼らの、ラインハルトを頼る顔がたまらなく心に刺さった。
(早く戻らなきゃダメだよね……)
ラインハルトは激しい葛藤に襲われた。彼は、今の心境でルーデンドルフのもとで働く気にはなれなかった。アグネスに会うのが怖かった。
戦争という化け物が、少しずつ周りのものを変えていっている気がした。戦争が起きていなければ、彼はただ数学を学ぶ大学生に過ぎなかったはずだ。今はすでに国の英雄である。前線にいる兵士たちが、彼の導く勝利を待ち望んでいる。
ラインハルトはぐずぐずしていられない気がした。
(……でも、総力戦だけは……、それだけは許せない)
ラインハルトは、戸惑い続けたーー。
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