ヘイワナセカイ
掛替えの無い人生、それが人間の持つ全てだ。それを信じて、私は生きていき、私は死んでいく。
ジャンヌ・ダルク(1412-1431)
「……」
アグネスはゆっくりと瞼を開いた。自身が眠っていたことを自覚する。
「うぅ……」
アグネスの体はひどく冷えていた。自分が覚えている最後の記憶を探る。
(そうか、川で溺れたんだ。私……)
アグネスはだんだん意識がはっきりしてきた。それと同時に、囮作戦の失敗にともなる数々の悲惨な光景が頭に蘇ってきた。
アグネスは数多の同胞が無惨に死んでいったことに激しく怯えた。自分の責任であることを痛感し、嗚咽する。
「ーー?」
アグネスは声をかけられてビクッとする。
部屋の入り口には暖かいスープをお盆にのせて運ぶ女性がいる。
アグネスは改めて部屋の様子を窺う。暖炉にはぼうっと火が灯っている。その手前には自分が来ていた服が乾かされている。木造の部屋は、満身創痍のアグネスを癒すのにちょうどよかった。
スープをアグネスのもとに運んできた女性は、薄い金色の髪の毛を右目の上あたりで分け、右耳にかけて三つ編みにしている。頬は薄紅色に染まっていた。
(可愛い……)
アグネスは自身のボサボサのボブヘアを手で撫でで、少し恥ずかしく思った。
「あの……、ここは一体どこなんですか?」
女性は困惑したような表情を見せた。言葉に詰まっている様子である。
「あ、もしかして……、フランス人?」
女性は首を傾げた。
アグネスは確信した。この女性はフランス人であることを。同時に、今自分がドイツ語を話してしまったことを後悔した。
(どうしよう……。通報される……)
アグネスは慌てた。女性は慌てるアグネスを見て立ち上がった。
「あ、待って!」
アグネスは止めようとしたが、女性は部屋を出るわけでもなく、部屋の中の本棚に近寄ると一冊取り出した。
「……Das ist Deutsch.」
アグネスは驚いた。彼女が手に持つのはドイツ語の辞書である。
アグネスはすぐに言った。
「そう!それはドイツ語よ!」
女性にはどうやらそれが通じたようだ。彼女は胸を撫で下ろした。
彼女はゆっくりとドイツ語を話し始めた。
「ーーワタシハ『カリーヌ・ダヴィッド』」
「私は、アグネス・フォーゲル。アグネスでいいよ。どうしてドイツ語の辞書を?」
カリーヌは辞書を参考にしながら必死で説明する。
彼女は、ドイツ語が好きで趣味で勉強をしていたらしい。まださほど話せないが、アグネスが理解するには十分であった。
「偶然ってあるのね。あなたに助けられてよかった」
「アナタハ、ムラノカワニナガサレテイタ。オドロイタ」
「そうだったのね」
アグネスはこの村がどこで、自分がどれほど寝ていたかを聞いた。
「フランス側の陣地……。戻れるかな……」
「アナタ、グンジン?」
「えっと……」
アグネスは素直に答えるべきか悩んだ。ここは、知らない土地に迷い込んだ哀れなドイツ人女性という体の方がマシだと彼女は思った。
しかし、乾かされている服からしてもう相手には勘付かれていると思い、答えた。
「そう。私は軍人。ドイツ軍のね」
二人の間にしばしの沈黙が訪れた。アグネスは緊張で心臓の鼓動が普段よりも明らかに速くなっているのを感じとった。
沈黙を先に破ったのはカリーヌだった。
「ワタシモ、アナタノヨウニタタカイタイ」
「え……?」
アグネスは目を見開いた。予想とはまるで違う言葉だったからだ。
「コイビト、タタカッテル。ワタシ、ナニモシテイナイ……」
カリーヌの恋人は兵士として戦場で戦っており、それに対してカリーヌは恋人の生還を待つだけであった。彼女は何もできない自分に嫌気が差していた。
「……」
アグネスは、カリーヌとは違った。アグネスはラインハルトに付いていくことを過去に決め、現にそうしている。
アグネスはカリーヌを励まそうとした。
「大丈夫よ、カリーヌ。貴方だってその人のために戦えるわ。私がそうだもん」
「アグネス、スキナヒト、イル?」
アグネスは顔が真っ赤になった。下を俯き、ゴニョゴニョしている。
「ふふ」
カリーヌはそれを見ただけで十分把握できた。アグネスは上目遣いで言う。
「恥ずかしい……」
カリーヌは少しだけ声を上げて笑った。アグネスも釣られて笑った。
二人は敵国同士という垣根を越えてよく話し合った。お互いの好きなものや国の話、他愛ないことも色々話した。
アグネスにとって、女性との会話はなによりも効く治療法だった。軍隊の中に女性はあまりいない。いても看護婦だったりで忙しい。彼女は戦争で疲れ切った心身を癒した。
「ありがとう、カリーヌ。私、また戦える。負けない!」
カリーヌは元気になったアグネスを見て嬉しそうにする半分、複雑な気持ちがして目を逸らした。
アグネスは、一瞬不思議に思ったがすぐに理解し、絶句した。
ーーアグネスの復帰は、再び彼女がフランス人と戦うことを意味していた。
「……ごめんなさい」
アグネスは肩を落とし小さな声で謝った。
「イイノ。ソレハアナタニトッテタダシイコト」
カリーヌはアグネスを励ましたが、空気は重くなったまま彼女たちを圧迫した。
「どうして、私たちって戦っているんだろうね?」
「エ?」
「だってそうでしょ?こんなにも仲良く話せるのに、どうしてお互い殺し合っているの?変な話じゃない?」
カリーヌは反応に困った。一度もそんなことを考えたことはなかった。戦争は仕方がなく起きて銃後の自分達は大人しく我慢するだけ、そう思ってきたからだ。
「戦争がない世界、出来たらいいね」
カリーヌは大きく頷いた。
それと同時に、カリーヌの家の戸を叩く音がした。
「ダレカキタ!」
カリーヌは慌ててアグネスを隠そうとするが、戸を叩いた者は遠慮せずに中に入ってきた。
男は陽気な声を出しながら部屋の方へ来た。そしてアグネスの姿を見て止まった。
カリーヌは男に近付いて、何かを言っている。
アグネスは身構えた。男は間違いなくフランス兵だったからだ。
男は、最初はアグネスのことをカリーヌの友人だと思った。しかし暖炉の前の服を見て不審に思うと、近づいて手に取った。
「……この服、ドイツ軍だろう?」
「え?」
アグネスは呆気に取られた。男はドイツ語で話しかけてきたのだ。
「どうしてドイツ語を……」
「敵国の言葉ぐらい知らないとなぁ、不便だろう。さて、君をどうしようか」
カリーヌは男にしがみついて必死で懇願している。だが、男はカリーヌを無視してアグネスに近づいた。
「私を、捕虜にする?」
男は少し考えた後に言った。
「ドイツ軍は女も戦わせるのかい?」
「私は自分の意志で戦っている」
「大義は?」
「大義……」
アグネスは返答に窮する。
「理由だよ。なんでわざわざ武器を持つんだ?戦争は男に任せればいいだろう」
「私は嫌だ……」
「男ばっかりが偉そうにするのが気に食わないか?」
アグネスはカリーヌの方を見る。彼女は泣きじゃくっている。
「カリーヌはあなたの恋人?」
「ん、ああそうだよ」
「だったら、カリーヌに今度聞いてみなよ」
「……」
男は黙った。
張り詰めた空気が部屋の中を漂う。
しばらくして、男は口を開いた。
「行きな、可愛いドイツ兵。ここはそのうちフランス軍がやってくる。今ならバレずにドイツに戻れる」
「いいの?」
「ここで乱暴すれば、カリーヌに嫌われる」
男は笑いながら言った。
アグネスは残りわずかなスープを飲み干すと、暖炉の前の服を手に取る。
「あぁ、着替えるもんな。部屋を出るよ」
男は部屋を出た。
状況を理解できずにいるカリーヌはアグネスが横たわっていたベッドの前で膝をついたまま唖然としている。
アグネスは着替えながら話した。
「カリーヌ、貴方の彼氏は優しい人ね」
カリーヌは口をポカンと開けている。
「あの人と戦うのが、心苦しい……」
それを聞いてカリーヌはハッとした。立ち上がるとアグネスに突然抱きついた。
「コンナセンソウ、ハヤクオワッテ」
アグネスはカリーヌの手をしっかりと握ったーー。
アグネスとカリーヌが一緒に家を出ると、入り口に腕を組んだ男がいた。彼はアグネスを見ると言った。
「気をつけろよ」
「この恩は忘れない」
アグネスは敬礼をした。男も敬礼で返した。今ここに、敵国同士の敬意を示した瞬間があった。
「最後に一つだけ、言っておきたいことがある」
「なに?」
男はさっきまでの陽気な笑顔から真顔になった。アグネスは意図せず体が引き締まった。
「ジャンヌ・ダルクは二人もいらない。だから俺はカリーヌを戦わせないんだ」
アグネスはなんのことだかわからずにいた。
男は続ける。
「失わせたらいけないよ。それと君も失わないように」
カリーヌと男に見送られながらアグネスは東へ向かった。途中何度も、男が発した謎めいた言葉を反芻したーー。




