ヴェルダンの血液ポンプ
「なぜだぁ!!」
ファルケンハインは怒りのあまり机を思い切り叩いた。周辺の将校たちは驚いて目を見開く。
「なぜ、我が軍の被害が増えていくんだ……。こんなはずでは……」
「お気持ちはわかります、司令官。ですが、一度冷静に……」
「そんなことはわかっている!!わかっているんだ……」
宥めた将校は、落ち込むファルケンハインを見て言葉に詰まった。作戦室は暗い。
ファルケンハインが焦るのも無理はなかった。ドイツ軍は二月から始まったヴェルダンの戦いでフランス軍をじりじりと攻撃し続け、弱体化させるつもりでいた。しかし、企図された作戦とは裏腹にフランス軍の抵抗は凄まじく、ドイツ軍も多大な損害を負っていた。
「このままではいかんのだ……。もう、この作戦は無理だ……」
ーーそれでも、「ヴェルダンの血液ポンプ」が止まることはなかった。
「アグネスは、見つかったか?!」
「いえ、それが一向に見つかりません……」
「くっ……」
焦っていたのはファルケンハインだけではなかった。フランス軍要塞の攻撃に失敗して以降、アグネスは行方不明になっていた。アグネスの部隊に所属していた者は少しずつ帰還したが、アグネスは未だ帰っていない。
「僕のせいだ……!!!」
「中尉殿、落ち着いてください。貴方のせいでは……」
「違う!僕が、彼女の作戦に頼りすぎたからだ!!なんて情けないんだ……」
ラインハルトの周りの兵士たちは気を落とした。
ラインハルトは落ち着くことができず、その場をぐるぐると歩く。
ちょうどその時であった。
「中隊長!フォーゲル殿が帰還しました!」
ラインハルトは返事もせずに飛び出した。
兵士たちに介抱されているアグネスは、思いのほか小綺麗な様子であった。
ラインハルトは半分泣きそうな状態でアグネスに近寄った。
「シュライザー中尉。ただいま生還しました」
アグネスは屈託のない笑顔を見せた。
ラインハルトは涙を流して抱きついた。
医務室で検査を受け終えたアグネスは、ラインハルトと共に休憩した。
「中尉殿、この戦いはもう終わらせるべきではないでしょうか?」
アグネスはラインハルトに告げた。ラインハルトはアグネスを見て首を縦に振った。
「うん、僕もそう思っていたところだ。この消耗戦は、とても無理が……」
「そうではないのです」
アグネスはラインハルトの言葉を遮った。ラインハルトは首を傾げた。
「どういうこと?」
「この戦争そのものが、もうやめにすべきだと思うのです」
アグネスはきっぱりと答えた。彼女の目は真っ直ぐとラインハルトを見ている。
ラインハルトは、口が少しだけ開いた。意外な発言だったのだ。
「なぜそう思う?」
ラインハルトはアグネスに問う。
「どうして隣に暮らす人たち同士で殺し合わなければならないのか、私には理解できないのです。この戦争はそもそも上の人が勝手に始めた。なのに、死んでいくのは一般人だった私たち……」
アグネスは目線を落とした。そして弱々しく言う。
「私は、早く戦争が終わってほしい……」
「短期決戦」と見積もられていたこの大戦争も、もうじき二年となる。しかしながら、終戦の見込みは一切無い。
嫌気が差していたのはアグネスだけではなかった。戦争に冒険的な好奇心を抱いて志願した若者たちも、今では血と硝煙の臭いが漂う塹壕で悲痛な叫びをあげている。
もはや、泥沼の戦いに煌めきなどありはしない。あるとすれば、それは互いの国の面子をかけて殺し合う残虐性と、後戻りの出来なくなった現状に対する後悔だけであったーー。
「ファルケンハイン司令官、よろしいでしょうか?」
ラインハルトはファルケンハインのもとを訪れた。
ファルケンハインは、作戦地図が張り巡らされた一室で一人唸っていた。
「なんだね、シュライザー中尉。手短に頼む」
ラインハルトは言われた通りにした。
「では手短にお尋ねします。この戦争はいつ終わりますか?」
ファルケンハインは落としていた視線をゆっくりと上げた。
険しい表情をしてラインハルトを睨みつける。
「貴様、なにが言いたい?」
「そのまんまの意味です」
ラインハルトは臆することもなく返した。ファルケンハインの眉間には皺が寄っている。
「我が軍が、パリを陥落させ、奴等を屈服させるまでだ」
「パリを陥落……?」
ラインハルトは言った。
ファルケンハインは聞き逃さなかった。
「なにを不思議そうな顔をしている。開戦以来、目標はパリであろう」
ラインハルトは強く言い返した。
「矛盾しています。パリを落とすのであれば、ヴェルダン攻撃作戦は中止してください!」
「なに?」
「あなたはパリへ攻め込むことへの執着をやめて、この消耗戦に切り替えられました。なのに、パリを落とすまでは戦争が終わらないなど……、一体僕らはなのんのために戦っているのですか!!」
ラインハルトは想いをぶつけた。
そう、ヴェルダンの戦いはフランスを疲弊させるための消耗戦のはずであった。だが、現実はドイツ軍も損害を被る血みどろの攻防戦であった。
兵士の命は、消耗品の如く消費され、そこに倫理的な観念など存在しなかった。
ーーラインハルトは、覚悟した。司令官に対して怒鳴りつけるなど、あってはならないことであった。
ファルケンハインは静かに告げた。
「君たちは……。そうか……」
ラインハルトは黙ってファルケンハインを見つめていた。
彼は言った。
「下がりたまえ」
ラインハルトはファルケンハインに再度強く迫ろうとしたが、すぐにやめた。彼は敬礼をすると、静かに退室した。
机に広げられた地図に、大きなシミが出来たーーー。
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