たとえ、それでも守るもの
人間は、ときには間違いを犯しながらも、足をのばしてつまずきながらも前進する。
ジョン・スタインベック(1902-1968)
「そこ、照準調整は終わりましたか?あと、そこ。弾薬の数を確認取っておいてください。あとは各班長の指示に従ってください」
雪が積もり、厳しい寒さの中、ラインハルトは忙しない。ロシア軍を迎え撃つための準備が着々と行われていた。
「中尉殿、こちら大丈夫です」 「同じく!」
「うん、ありがとう。警戒よろしく」
アグネスがラインハルトの近くに寄ってきて尋ねる。
「中尉殿。我々は今回、守りに徹するのでしょう?焦らずとも良いのでは?」
ラインハルトは優しく答える。
「アグネス、別に焦ってはいないよ。でも、まだ見ぬ敵に対しても常に警戒は怠らない。それが戦場で生き抜くためのコツだと僕は思っているよ」
「な、なるほど!肝に銘じておきます!」
アグネスは敬礼をビシッとした。
ラインハルトは雪原の大地を遠く見つめている。
ラインハルトは現場の指揮を部下に託して、一度作戦室に足を運んだ。攻撃の最終調整を行おうと思ってのことであった。
途中、ラインハルトは妙な違和感を覚えた。
(ガスボンベ?あれは何に使うんだ…?)
ラインハルトは気になって、運んでいる兵士に尋ねた。
「あの、そのガスボンベは何に使用するんでしょうか?」
「は!これは今回の作戦において使用するものと伝達されております!」
「今回の作戦で使用…?」
ラインハルトはひどい悪寒に襲われた。そして直後、つかつかと作戦室へと急いだ。
「失礼します!ラインハルト・シュライザーです!」
「入りたまえ」
中から声がするのと同時にラインハルトは勢いよく入室した。
「マッケンゼン司令官!外で運搬されているガスボンベ、あれはなんですか?!」
「ん?なんのことだね?」
マッケンゼンはとぼけた。だが、ラインハルトはさらに問い詰める。
「あれは攻撃作戦に必要な代物なんですか!?なぜ、あのようなものを!?」
「何をそんなに大きな声で叫んでいるのだ。落ち着きたまえ…」
マッケンゼンは焦った。明らかにラインハルトは、今回の作戦の「違和感」に気づき始めていた。
「すみません。わざわざ大きな声で言う必要がなかったのは認めます。ですが、私としてはあのガスボンベがどのような用途で使用されるのか、はっきりと知っておきたいのです」
「……」
「お答え願います。砲兵部隊の行動に支障が出ます」
マッケンゼンは潮時だと思った。彼は観念して教えることにした。
「『毒ガス』だ…」
「え…?」
ラインハルトは息を呑んだ。己が想定していた最悪の回答が今、返ってきたのだ。
「毒ガス…。毒ガスって、それは…」
「我が帝国の科学力によって、総力を上げて生産されたものを使用するそうだ…。私も気乗りはしない。華々しい騎兵戦によって勝利を得たい。だが、仕方がないのだ。きっと『カイゼル』もお喜びになる」
「陸戦条約を一方的に破棄するというのですか!?毒ガスは条約で禁止されていることぐらい、僕だって知っていますよ!」
マッケンゼンは黙った。ラインハルトは続けて言う。
「ドイツの誉れある科学力を、このような非人道的な用途で使うなどあってはならない。後世できっと激しく非難されます。帝国が勝利しても、人々は喜ばない、いや喜んではいけない…」
「わかっている!!」
マッケンゼンは思わず叫んだ。少し震えている。
「わかっているのだ…。こんな非人道的な手段など許されないと。この戦争は何かおかしい。短期決戦が予想されていたのに、今や各国は早期終結の糸口を失い、泥沼の戦いが続いている。貴官は聞いているか、西部のことを?あっちはひどいものだ。塹壕を掘っては地道に突撃と防衛の繰り返し。機関銃のせいで、騎兵は歯が立たないそうだ。こんな戦争を私は聞いたことがない…。時代は変わりつつあるのだ……」
マッケンゼンは俯いている。かつて、フランスと激戦を繰り広げ勝利を掴んだ「普仏戦争」を体験した彼には、今回の戦争の形態に違和感を覚えざるを得ないのだろう。
ラインハルトは真剣な眼差しで告げる。
「だとしても、新時代に毒ガスはいりません。今回の作戦で毒ガスを使用するのであれば、私は断固抗議します」
ラインハルトは俯いたままのマッケンゼンに敬礼をすると部屋を出た。外は寒い。
(参謀長に話をつけよう)
ラインハルトは電報でルーデンドルフに、毒ガス使用の断固反対の意志を表明しようとした。
「中尉殿、すみません」
ラインハルトが振り向くと、そこにはアグネスがいた。
「なんだ、アグネス。僕に何か用かい?」
ラインハルトは少し苛立っていた。
「あのガスボンベはなんでしょうか?」
「毒ガスだ。やっぱり今回の作戦、僕らは攻撃に出ず、あれで敵を倒すらしい」
アグネスは呆気に取られた。
「毒ガス…、詳しく知りませんがそんな恐ろしそうなものを…」
「国際条約違反だ。世界で非難されかねない」
「中尉殿はこれからどうするのですか?」
「参謀長に断固、抗議する。あれは使ってはならない代物だ。もし、却下されたならその時は…」
ラインハルトは止まった。
「その時は…?」
ラインハルトは口をつぐんで空を眺める。そして、大きく深呼吸をすると告げた。
「もう、この国のために戦うのをやめる」
アグネスは仰天した。ラインハルトは軍人をやめるつもりなのだ。
「そもそも、僕が戦争に来た理由は、他の新兵と同じで興味があったからだ。弾道学の知識を補強する機会が欲しかっただけなんだ。今となってはそれもほとんど達成されたと思っている。もう、僕がここにいる必要は…」
「違う!!!」
アグネスの一言でラインハルトの口が止まる。アグネスは両手を強く握りしめている。
「あなたはそんなことを思っていない!あなたは国のことを本気で守ろうとしている、ドイツ人のみんなを守ろうとしている!私にはわかるの!どうか、お願い…、そんなことを言わないで…。私の中のあなたの像を壊さないで…。あなたは勇敢で知的で優しい戦士なのだから…」
ラインハルトは言葉を失った。アグネスがここまで自分を思っているとは思ってもいなかった。アグネスの頬に雪解け水が流れる。
「でも、じゃあ僕はどうすればいいんだい?この作戦は受け入れられない…」
「あなたはあなたの仕事を全うすればいい、あなたが毒ガスを使うわけではない。あなたは守りに徹するのよ。あなたが『ドイツの守り神』になればいいの」
「僕が守り神に…」
ラインハルトは考えた。ここで軍を捨てて国内にこもれば、自分の周りで死んでいった幾千の仲間たちに合わせる顔がない。ラインハルトは決めた。
「わかったよ、アグネス。僕がドイツを守る…」
運ばれるガスボンベには目もくれず、ラインハルトはただただ、アグネスだけを見つめて、言った。
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