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一七〇二年七月二十九日二十一時 山科大石邸

 「お可留、もそっと近うよれ」

 夜月を見上げながら、傍らに侍る可留に声をかける。

 「歌留の手配してくれたこの邸であるが、もうじきこれを手放さなければならぬのう」

 「歌留の羨むような邸を見繕って参りますと約しましたが……」

 はにかみ俯くお可留に、大石が微笑を向ける。はじめて大石に触れられたのは三月前、今宵のような月明かりの美しい夜であった。

 「結局、そなたがここに住み着いてしまったのう……お可留」


 昨日、京円山の地で江戸急進派と上方穏健派の会合が持たれた。当初この会合は江戸急進派が仇討ちを大石に上申すべく設定されたもので、江戸急進派はその腹の内では、事と次第によっては大石を斬ってでも一同を仇討ち路線に旋回させるつもりであった。しかし江戸急進派が京に着く頃には、大学長広の広島藩お預けが正式に決まったとの報を得る。そはすなわち、大石らが主導してきたお家再興路線が潰えることを意味した。後世に円山会議と称されるこの会合は、従って双方の当初の目論見とは大きく異なり、結果的には大過なく事が運んだと言える。

 「昨年三月以来、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、様々に心をくだきて大学長広様お取立ての一念を貫いて参ったが、此度安芸広島藩左遷となり、お家再興の望みが絶えた今、例の一件早速取り掛かり仕るべきかと存ずるが、各々方のご存念は如何」

 大石が例の一件という表現を用いて仇討ちへの賛否を問う。尤も、つい先日まで仇討ち論を抑えてきた当の本人の提言である。果たして大石の真意はどこにあるのか。それを計りかねる一同は、みな互いの顔を見合わせ沈黙を貫く。江戸急進派の面々にしても、先に言を挙げるの不利を覚りまずは控えている。先に発した意は多くの場合衆の反論の的になり易く、最初の言とは反対の結論に落ち着く結果に陥りやすい。会合を己に都合よく決着せしめる為には、お互いの様子を探りつつ時宜を見極めるのが肝要。それが多数による評定における定石であり、みなそれを、それぞれの体験から知り得ている。

 暫しの静寂が場を支配した後、大石恭順派の間瀬久太夫が意を決したように口火を切る。

 「これまで大石殿が江戸詰めのみなの血気に逸るのを抑えてきしは、まこと大学様の御身が定まらぬがゆえ。されど今日こうして決着せば、もはや一日も早くことを決すべし」

 間瀬の発言が呼び水となり仇討ち決行の意が様々に述べられる。殿様への報恩、武士の一分、様々に理由や事情は違えど、この際は先言の不利は存在せず、みな等しく仇討ちを志向していたかのように見えた。

 「実は某、まことに申し訳なき儀にあれど大石殿の真意を図りかね、此度の会合にてお指図なくば内々に討ち入りの準備を企てんと秘してござった。されどただいまは安心してご一同と大事をともに致すこと叶い、大慶至極に存ずる」

 堀部安兵衛のこの発言は言外に、賛同せねば斬るぞという脅しを含んでおり、それが分かるがゆえに穏健派の意見は暗黙のうちに封じ込まれたとも言える。結果的にはこの円山会議の後、これらの穏健派は大石の元を離反していくことになる。

 「各々方の無双の忠勇、某まこと感服仕った」

 一通りみなの意が出た後、大石がこれをまとめる。

 「これまでしばしば勇ある人の言を抑えてきたは、大学様安否によってまさに諸氏の隠れた心を知るためなり。されどただ今にあっては一刻たりとも引き伸ばすべき時には非ず」

 はじめて聞く大石の本心に、みな固唾を呑んで耳を傾ける。大学様お取立ての件は単に忠義の節からのみではなく、同士の心を試すためであった。なるほど、高田郡兵衛のような、声大にして誠小なる者を除くには良い手法であった。尤も、萱野三平のような悲劇を生んだ事実も否定できないが……いずれにせよ、ここでついに討ち入り路線に同士の意を統一しようというのである。

 「某も必ずや江戸に罷り下り、各々方と同道の上吉良邸に討ち入り、殿様が仇上野介の首をきっと取らん」

 江戸急進派のみならず、多くの同士の顔に喜色が浮かぶ。これまで艱難辛苦に耐え待ち望んできた仇討ちを、ついに決行せん。みなの晴れ晴れしい笑顔を眺め回した後、大石は彼らの気を引き締めるように付け加えた。

 「されど孫子に曰く、その算多き者は勝ち、算少なき者は勝たず、いわんや算無きにおいておや、と。まずは敵の様子を窺うにとどめ、決して功名に逸り抜け駆けなどするべからず。折角敵の邸に討ち入りながら上野介が首を取れず犬死とならば、単に残念至極と悔いるに留まらず、そは赤穂浅野家の名折れ、亡き殿様に対し奉り却って不忠とならん」

 吉良邸討ち入りと方針が統一され大石殿も江戸に下るの意向なれば、拙速にことを進めてこれを仕損じるべきではなかろう。みな一様に首肯して大石の意に従うことを表明した。


 「あの後、進藤殿などは必死であったことよ」

 今朝方、大石の大叔父に当たり、かつてお可留を大石に紹介した進藤源四郎が大石邸を訪ねてきた。曰く、遊女屋通いも止まず不行跡極まりない大石の指示にはこれ以上従えぬ、と。恐らくこれまで大石に従ってきたのは再仕官が目的であり、端から討ち入りなどする気は毛頭なかったのであろう。昨日の円山会議でことが討ち入りと決すれば、これ以上大石に従うまでもなし。思えば、お可留を大石に勧めたのもその布石。いさという時には大石の遊蕩ぶりを殊更論い、自身の諫言を容れぬことを脱盟の理と為すためであろう。

 「お可留も体の良い捨石に使われたものよ」

 そういって大石はお可留の黒髪を弄ぶ。

 「されど大石様、まことによろしいので?」

 甘えた口調のお可留が問う。歌留としては大石の覚悟のほどを見極める要があるが、同時にお可留としてはもう少し……大石はそんなお可留を優しく撫でてやる。

 「三月ほどの短い期間ではあったが、そなたとここで過ごせたは我が生涯の宝。お可留、礼を申す」

 大石のやさしさに満足すると同時に多少の寂寥感をも感じる歌留は、しかしその想いとは異なることを口にする。その一言を口にすれば、もう二度と大石は自分のことをお可留とは呼んでくれなくなることを知りつつ。

 「大石様はいつ頃江戸へお下りになりますか」

 「うむ……まだ上方で処理せねばならぬことも多ければ……」

 大石には未だひとつ大仕事が残っている。上方穏健派の内には進藤のように、大石がお家再興を唱えるがゆえに付いて来た者も多かろう。それらの者はいずれ離反する。いや、離反どころか同士の秘を漏らすことによって、出世の糸口を得んとする裏切り者の出るやもしれぬ。これらの可能性は芽のうちに摘んでおく必要があろう。

 「恐らく、江戸に下るのは十月頃になろう。それまで、歌留には江戸の同士の面倒を見てもらいたい」

 褥を出た歌留が手早く身なりを整える背後で、大石がひとつひとつ指示を告げる。吉良邸の様子を探ること。吉良の在宅予定を掴むこと。吉良邸の絵図面を得ること。云々……そして最後に告げる。

 「さらば歌留、世話になった。達者でな」

 その一言に視界がぼやける歌留は、それでも平素を装って返辞する。

 「大石様にも……」

 お達者で、ご壮健で、ご健勝で……一瞬の戸惑いの後に、歌留はこう付け加えた。

 「ご武運を」

 深く頷く大石を視界の隅に追いやり、歌留は大石邸を辞去した。

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