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一七〇二年六月十九日十時 老中御用部屋

 「昨晩、江戸急進派の間で会合が持たれ、ひとつの結論を得ました」

 天井裏から若い女性の鬼気迫る声が降り注ぐ。老中首座土屋相模守の召集に応じた四人の老中を前に、軽が報告を続ける。

 「堀部殿、奥田殿、原殿三名の旧士は六月中に江戸を出立し、七月にも上方の大石様と会合を持つ意向」

 「ほぅ、文書だけでは飽き足らず、またまた上方に上ると申すか。されどそれだけでは、軽殿が慌てて報告し、我ら老中全員が召集されるほどのことでもあるまい?」

 最年長の稲葉丹後守が先を促す。全老中に召集がかかるほど緊急な事態が発生していることを軽は報告しようとしているのであろう。

 「恐れながら江戸急進派の者どもは大石様に吉良邸討ち入りを進言し、これを容れられなくば大石様を斬るとの存念にあり」

 軽の報告に新蔭流皆伝の小笠原佐渡守が呟く。

 「大石とて剣の心得はあろうが多勢に無勢……いやそもそも、一人で会合に参加することはあるまい。いずれ上方の旧士どももみな同席しよう。さらば……」

 「血の雨が降ることとなろう。されど、それだけ大きな騒ぎを起こさば、公儀としてはこれを取り締まらざるを得ぬであろうな」

 法家の阿部が常識論を口にする。江戸急進派が大石を斬ろうとすれば、当然大石恭順派はこれを守るべく抜刀する。赤穂旧士が内部分裂の挙句多くの死傷を出したとなれば、これを取り締まるのは公儀の役目。

 「そうして残った藩士だけでは、もはや神君の遺言は果たせまい」

 秋元が結論づける。抗争の結果どちらの派閥が勝ち、誰が生き残ろうとも、最早事を成就するには藩士の質にも量にも不足することであろう。

 「つまりは……そろそろ潮時ということであろうか」

 土屋が結語する。これまで公儀は時間をかけて赤穂旧士による吉良上野介討ち入りの下準備を整えてきた。ひとつには、吉良を警戒に厭きさせ隙をつくること。更にひとつは、旧士の内、真に討ち入りの用に足る者を選抜すること。中途でその秘を漏らし、あるいは裏切る恐れのある者を排除すること……しかし、これ以上時を稼ぐことは、最早許されない状況になったというのが軽の報告である。

 「浅野大学長広は、閉門蟄居を解き、改めて広島藩浅野家にお預けとする。各々方、よろしいか」

 まだ時期尚早かもしれぬ。吉良は警戒を充分弱めるであろうか。浅野家臣の選抜は?今少し時間の欲しいところではある。みなが思索の泉の畔を巡る中、稲葉が敢えて明朗な笑声を挙げた。

 「参った参った、各々方のご心配ご疑念は尤もなれど、当の大石に死なれてしまっては、我らも他に打つ手があるまい。ここは一つ江戸急進派の力攻めに乗ってみようではないか。のう、軽殿」

 何故か、稲葉の笑声には聞いた者に気を分け与える力が秘められているようである。大石を斬奸するなどという、公務に於いても私情に措いても歌留を惑わせずにはいられない謀略の闇を、稲葉の呪力が払ってくれたようであった。無言の内に殺気が天井裏から引いていくのを感じた土屋が、改めて軽に命じる。

 「軽よ、まずは大石の身を守れ。これが第一。次に市井の噂を制御すべし。曰く、大石に吉良を討つの意なし」

 「承知」

 軽やかな声が天井裏から返ってくる。大石にとっては不名誉な噂であろうが、他日の本願を期しての策である。一時の恥は一生の仕事がこれを晴らしてくれることであろう。大石の安全と名誉のため、全能を賭ける意の軽である。

 「更に、公儀隠密の結果、赤穂旧士に仇討ちの意なしと結論す。かような老中評定の意を幕閣に流布すべし。無論これは擬装であるが、この任は秋元殿に請け負って頂きたい」

 「委細承知」

 秋元但馬守が明瞭に返辞する。こうして時に老中評定の内容をわざと漏洩することで幕閣世論を形成していくことも、統治の裏面においては重要な要素となる。社交家の秋元であればこれに適任であろう。あるいは情報漏洩に適任などと思われることは秋元にとっては不名誉なことかもしれないのだが。後にこの擬装情報は常憲院殿御実紀、すなわち将軍綱吉の治世を納めた幕府の公式記録にも記載されることとなる。曰く、日夜娼家に出入りし酒に沈酔し、ひたすら無類の淫行をあらはし、報讐の志などあるべくもなく、云々……

 「されど、大石がその実仇討ちの意なき折には、如何にしてこれを仕向けるか」

 阿部の冷静な発言である。大石はこれまでのところ、お家再興と仇討ちの二段構えの様子を見せており、公儀の基本方針もその前提の上に構築されている。しかし大石の構えが実は擬態であり、大石自身は仇討ちなど考えてもいないということであればどうであろう。改めて大石を仇討ち路線に使嗾せねばならぬ。必要によってはくノ一の毒を大石に使うか。

 「その時はやはり、軽殿の出番であろうな。まこと、大石の羨ましきことよ」

 稲葉のそのような言いようにさえ胸逸るなど、くノ一としては失格であろう。既に幾度か肌を許しているからこそ感じる羞恥を改めて自覚する歌留である。

 「さらば大石の操縦は軽に任せる。恐らく、浅野大学取立て否決の報により、大石の元を離れる旧士が大勢出てこよう。それを以って藩士の最終選抜とせん。各々方、ご異存は」


 こうして浅野大学長広は正式に広島藩浅野本家にお預けの身となり、これを以って大石のお家再興歎願運動は、その願いの叶わぬまま終焉を迎える。これらの事実は即座に各方面に流された。江戸を発って上方に向かった江戸急進派の面々がその報に接したのは、京の宿についた時であった。無論三人は狂気乱舞する。これで大石殿は仇討ち路線を決意せざるを得ぬであろう、さもなくば……

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