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 震えそうになる手を、握り締めて無理矢理封じ込める。太腿間で一つの塊になった自分の手を見て、人は指先すら重ねられる様に出来ているんだと思った。それが救いだと思った日は確かにあった。ヴィオレットが一人蹲らずにいられる、彼女を救う人と共に、手を取り合って生きる事が出来る。それだけがマリンにとっての救いで、人が二つに別たれた意味だった。


「わた、し……私は、あなたが、好き……すき、です、でも」

 

 神の言葉を借りた人は、隣人を愛せと言った。愛す事が無条件で幸福だとでもいう様に。母が愛された事により捨てられた自分、保たれた夫婦。父が愛されたが故に、幼い心を引き裂かれたヴィオレット。ヴィオレットだけを愛するが故に、その他全てを一瞥もしないユラン。そしてその愛によって幸せを手にしたヴィオレット。

 愛によって負を背負う事、無上の幸福を得る事。それは決して定められた事ではなく、ただ、気紛れに天秤が傾いた方でしかない。この世は愛で満ちている、だから同じだけ、涙でも満ちている。


「私は、あなたの為にはしねない」


 それが、マリンの抱く全てだった。恋をした、夢にまで見た想いだった。同じ気持ちが返ってきた。それがどれほどの奇跡かなんて、誰に言われずとも分かっている。でもその奇跡より、マリンはヴィオレットの傍を選ぶ。例え四肢を捥がれ、ミミズの様にのた打ち回っても、この命が目指すのはリツではなくヴィオレットだ。彼女を看取りたいのと同じだけ、最期に目に映るのは彼女が良いと思う。


「私はあの家で生きて死にます。ヴィオレット様の傍で、あの方の幸福を護る駒として生きる事が生まれて来た意味なんです。それが幸せで、それが無ければ、幸せになれない。どうしたって、わたしは、あの人を世界で一番愛している」


 私の天使、私の女神。あの人の傍で生きる事が出来なければ、生まれてきた意味がない。恋ではない事なんて些細な違いだ。結局私は、ヴィオレット様が何よりも大切なのだ。自分の命よりも、この世界よりも、初めて恋した彼よりも。


「貴方の手を、取れたとして。私は容易く離してしまうでしょう。彼女が泣くなら、私は貴方を敵にだって出来る。結婚も出来ませんし、……子を、産む事もしません」


 恋を成就させたとして、遠からず別れは来るだろう。ヴィオレットを優先し、その為なら他の全てを容易く放り出せる様な人間と、誰が共に生きられる。約束なんて意味をなさない。恋が愛を超える日は来ない。ヴィオレットという存在がマリンの中心から消える事は、絶対に、無い。

 その時が訪れたら、マリンは、己が父と同じ選択をする。愛した人の為に、道徳を捨てる事を選ぶ。愛した人の為に子を捨てた様に、マリンも愛する人を選び恋した男を捨てるだろう。

 終わりに向かうと分かっていて、傷になると知っていて、寄り添える強さがマリンにはない。ある種の強欲と言ってもいい。どちらも欲しいけれど、どちらかしか選べないと知っていて、選ぶ方も決まっているなら、痛みが深くなる前に離れたい。ユランの様に、一つ以外を捨てられる強さが欲しい。シスイの様に、その他を諦める潔さが欲しい。それがあれば、こんな無様を晒す事も無かったのに。

 

 握り締めた手が、痛みを訴えるより先に。髪を攫い、耳を縁取る様に、硬い指先が撫でる。不意を突かれて、肩が震える。驚いて顔を上げた時初めて、自分はずっと俯いていたのだと気が付いた。

 幼さを残していると思っていた面立ちは、思っていたよりもずっと硬質だ。それは筋張った手が、首が、そうさせる。子猫の様だと思っていた目は、そんな可愛らしい物では無くて。擬態していたのか、ただマリンが、見ないふりをしていただけなのか。


「──俺もです」


 射抜く様な強さの中に戸惑うマリンが映っていた。その同意が何処への物なのか分からなくて、ただ視線を震わせる事しか出来ない。マリンの動揺は簡単に伝わって、それをどう感じたのか、リツは微かな吐息と共に目を伏せた。それは呆れの笑みなのか、それとも、許容なのか。今のマリンには区別がつかない。


「あー…………そりゃ、好きになるよなぁ」


 声が遠い。独り言の様なそれは、きっと事実マリンへのものではなかった。ただあまりに晴やかで、清々しいという響きが、じんわりとマリンにも沁み込んだだけで。


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