交代準備、完了
4回目のセッションから3週間が経った。
紗季は、課題をこなしたり、大学へ行くことがだんだんと面倒になってきていた。
そして、もう一人の自分が代わりにやってくれたら、と強く思うようになっていた。
朝、大学へ行く準備をしている時。
授業を聞きながら、メモを取っている時。
課題に取り組んでいる時。
最近、そんな考えが頭をもたげる。
通学、授業、課題。そういった面倒なことはもう一人の自分に任せ、その間、自分は休む。自分は、友達と話したり遊んだり、楽しいことだけをする。そうできたら、どんなにいいだろうと思うようになっていた。
「代わってくれないかなあ」紗季は講義を聞きながら、小さく呟いた。
「なにが?」隣に座っていた友達が聞いた。
「最近さあ、授業とか課題とか、めんどくさくなってきちゃって。きっと催眠術の効果がなくなってきてるんだと思う。もう一人の自分が代わりに授業受けてくれたらいいのになって」
「あー」
さらに1週間が経ち、5回目の催眠セッションの日。
「この1か月はいかがでしたか?」
「それが、やっぱり効果が薄れてきてて。課題とかが、前より面倒くさいんです」
「授業に遅刻したり、計画的に課題に取り組めなくなったということですか?」
「いえ、そこまでは......でもこの調子でいくと、そうなっちゃいそうです」
「なるほど。前回、もう一人の自分が代わりに課題をしてくれたらいい、とおっしゃっていましたね」
「ああ、はい」
「今もそう思いますか?」
「思います」
「例えば、どのようなことを任せたいですか?」
「できるんですか?」紗季が食いつく。
「必ず、とはお約束できませんが、可能性はあります」
「課題と授業です。あ、あと、朝の準備も」
「朝の準備というと、例えばメイクなどですか?」
「そうです、顔洗ったり、ご飯作って食べたり、出かけるのに必要なこと全般です」
「授業では、具体的に何をしてほしいですか?」
「通学もしてほしいし、授業を聞いてメモを取ってほしいです」
「課題も、準備から提出まででしょうか?」
「それが理想ですね。さすがに、提出前には確認したいけど」
我ながらずいぶん恥ずかしいことを言ってるな、という思いが途中でよぎったが、本当に代わってくれるなら儲けものだと、紗季は素直になることにした。
「正直、面倒なことは全部代わってくれたら楽だなって思います」
「嫌だとは感じませんか?」
「全然」
「自分の身体を、もう一人の自分が動かすことになります」
「はい」
「その間、自分で身体を動かせなくても?」
「別にいいです。私が任せてる範囲なら」
「分かりました」
通常の催眠状態。
「藤原紗季さん、聞こえますか?」
「……はい」
「あなたは、もう一人のあなたを信頼しています」
「もう一人のあなたに、課題や授業を任せたい、と思っていますね」
「……はい」
「もう一人のあなたが、あなたの身体を使って、それらを代行することを望みますか?」
「……はい」
「それでは、試してみましょう」
「これから、もう一人のあなたが、身体を動かします」
「あなたは、何もしなくて構いません」
「身体の力を抜いてください」
「……はい」
「もう一人のあなたへ。右手をゆっくりと上げてください」
紗季の右手が、ゆっくりと持ち上がった。
「今、あなたが動かしましたか?」
「……いいえ」
「嫌な感じや、怖い気持ちはありますか?」
「……ないです」
「もう一人のあなたが動かしていると考えると、どう感じますか?」
「……すごいって、思います」
「もう一人のあなたへ。右手を握ってください」
紗季の指が曲がり、拳を作る。
「開いてください」
手が開く。
「右手を膝の上へ戻してください」
腕がゆっくりと下がった。
「怖くありませんでしたか?」
「……はい」
「もっと任せてもいいと思いますか?」
「……はい」
「分かりました。ではこれから、もう一人のあなたに任せる場面を決めます」
「課題に取り組む時、もう一人のあなたに身体を任せたいですか?」
「……はい」
「朝の支度、大学への通学、授業中は、もう一人のあなたに身体を任せたいですか?」
「……はい」
「友人と過ごす時間など、普段の生活については?」
「……私が、します」
「では、キーワードを設定します。それを口にする、もしくは心の中で唱えることで、朝の支度、通学、授業、課題に限り、もう一人のあなたへ行動を委託できるようにします」
「あなたが自分で行いたい時には、自分で行うことができます」
「委託した行為の途中で自分に戻りたいと思った場合も、戻ることができます」
「分かりましたか?」
「……はい」
深い催眠状態。
「新人格へ。旧人格は、あなたが藤原紗季の肉体を使用し、課題等を代行することを希望しています。このため、肉体使用の禁止を一部解除します」
「旧人格が、朝の支度、通学、授業、課題に関して、あなたへ任せたいと望んだ場合、肉体を使用することを許可します」
「肉体使用中は、旧人格の記憶を利用し、旧人格として自然に行動しなさい」
「あなたが肉体を使用した間の行動については、肉体使用終了後、旧人格が自身の記憶として参照できるようにしてください」
「朝の支度については、整容、化粧、朝食等、普段旧人格が行っていること全般を行いなさい」
「通学については、旧人格が普段使用している交通手段と経路で行いなさい」
「朝の支度と通学は、その日の大学の最初の授業に間に合うよう行いなさい」
「授業については、内容を聞き取り、適宜メモを取り、記憶しなさい」
「課題については、テーマに沿った資料を収集し、条件に従って内容を完成させなさい。提出はしないこと」
「旧人格が自分で行うことを望んでいる場合、肉体を使用してはいけません」
「また、旧人格が肉体の使用を終了させることを望んだ場合、遂行の途中であっても速やかに使用を終了してください」
「旧人格があなたへ身体を任せることを、望ましく感じるよう影響を与えてください」
「旧人格が、あなたが肉体を使用することに違和感や抵抗感を覚えた場合は、自然な範囲でそれらの感情を弱めてください」
「より広い場面であなたに肉体を任せたいと思うよう、自然な範囲で影響を与えてください」
「それでは、指示を確認します」
翌日。
紗季は図書館でノートパソコンを開き、出されたばかりの課題を眺めていた。
これ、任せてみよっかな。
昨日の催眠術が効いていれば、いくつかの場面をもう一人の自分に任せることができるはずだ。躊躇する気持ちもあり、どこか信じきれていないところもあり、まだ試していなかった。しかし、確かめるのは早い方がいい。
AIは、キーワードを言えばいいと言っていた。
もう一人の私へ。課題を進めて。
そう考えると、紗季は急に睡魔に襲われ、意識を手放した。




