22-3
「どうか、私と婚約していただきたい」
ユリウスの声は揺れなかった。
それが、かえって重かった。準備してきた言葉ではなく、ずっと胸の内にあった言葉が、ようやく出てきたような──そういう静けさだった。
ユリウスの告白を受けたセレナは、純粋に困惑していた。
知り合って間もない相手に、婚約を申し込まれている。
それだけの好意を、向けられているということだった。
「なぜ……なぜ、わたしなのですか……?」
どうして。
彼とは、ちょっとしたことで知り合い、少しだけ会話をして、困っていたから助けただけ。それだけのことで、人を好きになるものなのか。
いや、そういうことではない。
彼は立派な貴族だ。自分を選ぶのだとしたら、それはきっと、私個人というより──
「……わたくしの【回復】の能力が必要なのですね」
口が、先に動いていた。
「ですが、あれは特別な魔法では──」
「知っています」
ユリウスが、穏やかに遮った。
「あの夜の後、実家から呼び出しを受けました。“病を治す目処がついた”と。そこには、医療術師のリーフが来ていました。一つの論文を携えて」
「その論文には、革新的な回復魔法が記されていました。術式の詳細も、応用の可能性も、すべて」
「既に論文の複製が進んでいます。遠からず、王国中の医療術師が扱えるようになるでしょう。他国にも広まるはずです」
ユリウスは続けた。
静かに、はっきりと。
「つまり、あの夜。貴方が何もしなかったとしても、私の命は助かっていました」
「私は、貴方の力を独占したいわけではありません。能力が欲しいわけでもない」
「……では、なぜ私に婚約を?」
ユリウスは一瞬も迷わなかった。
「“貴方が”、私を助けてくれたからです」
「あの夜、私を清めてくれた。気にかけてくれた。それは、貴方だった」
セレナは、ハンカチのことを思い出した。
白い、刺繍のないハンカチ。特別なものでも何でもない。ただ、濡れたまま外へ出るのは体に悪いと思っただけだった。
「その時の貴方を見て、私は──」
ユリウスは、ほんの少しだけ言葉を止めた。
「美しい。そう思いました」
「気づけば、心を奪われていたのです」
窓の外で、風が木の葉を鳴らした。
「殿下、どうか、私と婚約してください」
「今度は、私が貴方を救いたい」
◆
告白を受けて、セレナの胸に最初に浮かんだのは──安堵だった。
少なくとも、胸が高鳴るような喜びではなかった。そのうえで、これが正しいことだと、頭は理解していた。
この人と一緒になれば、救われる。
曖昧だった立場は、きっと制度の中で正しく扱われる。もう、自分の居場所を測りながら息をする必要もない。
指先が、少し冷えた。
断る理由を探した。
どこを探しても、見つからなかった。ユリウスは正しく、誠実で、その上で自分を選んでいる。この先、傷つかずに済むのだろうと思った。
けれど、同時に。
喉の奥が、詰まるように感じた。
はい、と言えばよかった。
言葉はもう、喉のすぐそこにあった。あとは声にするだけだった。
セレナは口を開いた。
ある男の顔が浮かんだ。
◆
気づくと、白い空間にいた。
床がない。壁もない。上も下も、境界がどこにもなかった。ただ白く、果てなく、静かだった。
直前まで何をしていたのか、思い出せない。
ユリウスの声。婚約。守りたいという言葉。応えようとした自分の口。浮かんできたはずの、誰かの顔。
全てが霧の向こうにあった。
夢だ、とどこかで思った。そう思いながら、妙に落ち着いていた。夢ならば、何が起きても仕方がない。
「やっと気がついたか」
声がした。
それも、低い声だった。小さな体から出るには、あまりに低い。
足元を見ると、一匹の白いネズミがいた。
丸い目が、こちらを見上げている。
「……ネズミが、喋るなんて」
「そうだ、最近のネズミは喋るんだ。何か問題でも?」
「いいえ、特には」
夢だから、と思った。
夢の中ではそういうこともある。この間はネコが喋っていた。
「おい、余計なことを考えるな。いいから俺の話を聞け。お前に聞きたいことがある」
「……はい。何でしょうか」
彼は少し間を置いた。
それから、どこか苛立たしそうに言った。
「お前、何でエインを憎まない?」
エイン。
胸の奥に、いちばん先に浮かぶ名前だった。
だが、彼の声には確かな怒りがあった。
「どういうことでしょうか」
「俺の支配は完璧なはずだ」
「俺の支配を受けた人間は、ネズミを仲間と認識し、そして俺のようにエインを憎むようになる」
「だが、お前だけだ。お前だけが、いつまで経っても、支配をいくら強めても、エインを憎もうとしない」
「もうすぐ計画は完遂する。イレギュラーがあっては困る」
彼が何の話をしているのか、ほとんど理解できなかった。
だが、はっきりしていることはある。
「それはもちろん」
夢の中だからか、妙に言葉が出やすかった。
「わたくしがエイン様をお慕い申し上げているからですわ」
「慕っている」
彼は繰り返した。
信じられないような口調だった。
「何があったら、あんなやつを好きになる」
「お茶会に来てくれました」
セレナは答えた。
「菓子を美味しそうに食べてくださいました。私が困っていたときに、その身を呈して助けてくれました。わたくしのことを、王女ではなく、一人の人間として扱ってくださいました」
「それだけか?」
「たったそれだけのことで、お前はエインを好きになったのか?」
「ええ、そうですわ」
人を好きになる理由なんて、それだけあれば十分だ。
「なら聞くが」
「あいつが普段、何を考えているか、知っているのか」
答えようとした。
言葉が出なかった。
「何のために行動しているか、知っているのか」
それも。
「あいつが何のために俺の身体を切り刻んだか、知っているのか」
それも、知らなかった。
白い空間が、少し静かになった。
「お前はエインを慕っていると言う」
「だが、あいつが何者なのかを知らない。見ようともしていない」
「知らないままでいられるからこそ、お前はあいつを好きでいられたんだ」
違う、と思った。
違うはずだった。
でも、何が違うのかを言葉にしようとすると、霧の中を掴むようで、何も出てこなかった。
エインの顔を思い浮かべた。
何を考えているのか分からない顔だった。いつも。何のために動いているのか分からない人だった。いつも。
それでも、エインの自由奔放なところに憧れていた。
それでも、エインの隣にいると妙に心が楽だった。
その気持ちは、何だったのか。
「お前の本当の気持ちを当ててやろうか? いや、もう既に理解しているようだな」
「お前は、エインに憧れていただけだ」
「お前は、エインを見てはいなかった」
「わたしは、エインに理想の自分を重ねていただけだ」
「わたしが好きだったのは、わたしの理想の自分自身だ」
「お前はエインを知っているのに、知らなかった。見ているようで、見ていなかった。だから、俺のエインへの感情も、お前には届かない」
彼は言った。
どこか疲れたような声だった。
「全く、時間の無駄だった。お前にエインを殺させるのも一興だと思っていたんだが……興が削がれたな」
「お前はそのままユリウスと番になるといい。あいつは人間の割にはまともな思考をしている。俺とユリウスの支配の元で、安寧を受け入れろ。それが一番の“正解”だ」
「目が覚めれば全ては終わっている。いや、もう覚めることはないのか」
空間が、少し揺れた。
「結局、お前はエインのことなんか──」
白が砕けた。
境界が崩れ、光が滲み、何かが遠くなり──




