21-1 アルノンに花束を
「総員、講堂に集合せよ」
思念波が、二人の頭蓋を貫いた。
冷たい。
あまりにも、冷たい声だった。
ショートを倒したばかりだ。なのに、講堂の方角から、計画を進めるための思念波が、途切れることなく流れ込んでくる。
アルノンの思念が、凍りついたように震えた。
端末の制御を奪い返そうとしているのが分かる。小さな白い体が強張り、意識の奥で、必死に何かへ手を伸ばしている。
だが──届かない。
「ショートは……囮だったのか……!」
掠れた声に、悔しさと焦りが滲んでいた。
二人は、完全に騙されていた。
真の黒幕は、最初から講堂にいたのだ。
「行かないと……!」
アルノンが駆け出そうとする。
フレッドは、咄嗟に声をかけた。
「待って、アルノン」
「フレッド!? 何を……時間がないんです!」
アルノンが振り返る。その思念には、はっきりと焦燥が浮かんでいた。
「このままじゃ皆が──!」
フレッドは、静かに問いかけた。
「王都の支配は、どのくらいで終わる?」
アルノンの動きが止まる。
「……約、一時間です」
「わかった」
フレッドは視線を落とし、わずかに考え込んだ。
◆
僕たちは、講堂の扉の前に立っていた。
重厚な木製の扉。
普段なら、中から生徒たちの賑やかな声が聞こえてくるはずだ。
だが、今は──静寂。
不気味なほどの、静寂だった。
僕は深く息を吸い込み、扉に手を当てる。
ゆっくりと押し開けると、軋む音が講堂に響いた。
そして──。
講堂内は、倒れ伏した生徒たちで埋め尽くされていた。
床に、壁際に、長椅子の間に。
うつ伏せの者もいれば、仰向けの者もいる。壁に寄りかかったまま、ずるりと力を失っている者もいた。
誰一人、動いていない。
かすかな呼吸はある。
生きてはいる。
だが、魔力を根こそぎ吸い取られ、意識を失っているのだろう。
「ひどい……」
アルノンが、小さく呟いた。
僕も、言葉が出なかった。
胸が締め付けられる。
それでも、今は進むしかない。
倒れた生徒たちを踏まないように、慎重に足を踏み出す。
一歩。また一歩。
講堂の最奥へ向かう。
そして──そこに、一匹の白マウスがいた。
演台の上に、静かに鎮座している。
「遅かったじゃないか。もう計画は完了してしまったぞ」
その声には、余裕があった。
勝利者の余裕。
だが、僕はすぐに違和感を覚えた。
この声は、アルノンのものじゃない。
セカンドでも、サードでも、ショートでもない。
もっと冷たい。
もっと重い。
「あのネズミは……?」
僕が尋ねると、アルノンが小さく息を呑んだ。
「彼は……最初の個体です」
「最初……?」
アルノンは、震える声で語り始めた。
「私たち白ネズミは、研究室で生まれ、育てられました。そして、エインに一ロット五匹単位で買われた」
「実験に使われたネズミは五匹。その中で、最初に使われた個体です」
「彼は、研究室に来てすぐ、エインの実験に参加して──私たちより先に、野に放たれた存在です」
僕は、白マウスを見た。
彼も、こちらを見ていた。
その目には──深い、深い憎悪があった。
◆
「なぜです……?」
アルノンが、困惑したように言葉を返した。
声が揺れている。
「あなたも、短い間とはいえ、エインに世話をされていたはずです。本来なら処分されるところを、自由を与えられた。感謝こそすれ、そこまで憎む理由が──」
「感謝だと?」
彼の声が、空気を裂いた。
嘲笑とも怒号ともつかない、歪んだ声だった。
「実験体にされたことで、俺がどんな苦しみを味わったと思う?」
白マウスの体が、わずかに震えている。
「腹を裂かれ、臓物を抜き取られ、手足を切断され、元に戻される」
「それが何度も、何度も続く──」
「あれのどこに、感謝する理由がある」
彼の声は、憎悪に満ちていた。
「俺は、やつに復讐しなければならない」
「あいつを、俺と同じ目に遭わせなければならない」
「嘘です!」
アルノンが叫んだ。
「エインが、そんなことをするはずがありません!」
そうだ。
エイン君が、意味もなくそんな残酷なことをするだろうか。
アルノンたちを可愛がっていたエイン君が。
無意味にネズミを傷つけて、戻して。
戻して。
その瞬間、僕の頭に閃くものがあった。
断片的な記憶。
エイン君が話していた、学会にも持っていったという回復魔法の研究。
部位欠損の修復。
それを実験するには──。
「君は、回復魔法の実験台だったんだね……」
僕は、静かに言った。
彼の動きが、一瞬止まる。
「なんだと?」
「エイン君は、部位欠損を修復するための回復魔法を研究していた」
僕は続けた。
「だけど、実験するにしても、実際に人間を傷つけるわけにはいかない。だから……」
「俺が、人間の身代わりになって、苦しめられたということか?」
彼の声が、一層冷たくなった。
僕は一度、目を閉じる。
深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開いた。
「……君の苦しみが、本物だったことは否定しない」
一拍置いて、僕は続ける。
「エイン君がやったことは、君にとっては拷問だった」
「それを正当化する気はない」
彼の目が、わずかに見開かれた。
「でも──」
僕は視線を逸らさず、言葉を選んだ。
「だからといって、他者を支配していい理由にはならない」
「君は今、自分を傷つけた人間と、同じことをしている」
「ふざけるな」
彼の声が、怒りに震えた。
「そのために、俺が、俺たちが、犠牲になってもいいと言うのか?」
「エインだけじゃない。人間たちだ」
彼は語り始めた。
ネズミが人間から受けてきた仕打ちを。
踏み潰され、罠にかけられ、駆除される。
それら一つ一つを、理屈ではなく、感情として並べ立てる。
その声には、積み重ねられた恨みが滲んでいた。
「だから、アルノン」
彼は視線をアルノンへ向ける。
「お前が捨てた計画を、お前が捨てた感情を、俺が拾ってやった」
「エインと、人間に復讐してやる」
そして、視線が僕に戻る。
「そのためには、アルノン、フレッド──お前たちは邪魔だ」
「殺してやる」
◆
彼が、冷たく命じる。
「やれ。あいつらを殺せ」
その瞬間、倒れていたはずの生徒たちが、ぴくりと動いた。
魔力は、もう残っていない。
それでも、生徒たちはふらふらと立ち上がり、虚ろな目のまま、こちらへ歩き出してくる。
意思はない。
ただ、命令だけが体を動かしている。
足を引きずる音。
乾いた呼吸。
近づいてくる。
──だが、想定通りだ。
僕は一歩前に出た。
深く息を吸い込み、魔力を練り上げる。
「【防壁牢獄】!」
詠唱と同時に、巨大な魔力の壁が立ち上がった。
透明な壁が、生徒たちを完全に囲い込む。
壁の内側で、生徒たちは必死に叩き、掴み、体当たりを繰り返す。
手形が、壁に残る。
だが、壁は揺らぎもしない。
こちらに近づくことすら、できなくなった。
「何をしている!」
苛立った彼が怒鳴る。
「さっさと壊せ! お前たちは魔法が──」
そこまで言いかけて、彼は言葉を切った。
理解が、遅れて追いついたようだった。
「……まさか」
その声が、初めて動揺を含む。
「お前たちが、今になって来た理由は──」
僕は答えない。
答える必要もなかった。
計画の最中に乱入すれば、数百の生徒を相手にすることになる。
だが、計画が終われば、生徒たちの魔力はすべて吸い尽くされる。
残るのは、命令に従うだけの、無力な体だけだ。
──だから、待った。
一時間。
遅れて来たのは、逃げたからじゃない。
最初から、この瞬間を狙っていたからだ。
(すまない……)
僕は心の中で、生徒たちに謝った。
◆
彼は、生徒たちを一瞥し、吐き捨てるように言った。
「……使えん」
次の瞬間、講堂の影や瓦礫の隙間から、無数のネズミが姿を現した。
配下の個体たちだ。
灰色の毛並み。赤い目。
一斉に意識を向けてくる。
圧力が、空気を歪ませた。
僕とアルノンへ、強力な【精神伝播】が流し込まれる。
集会の時と同じだ。
思考を塗り潰し、跪かせるための、圧倒的な出力。
頭の奥が、ずきずきと痛む。
「跪け」
命令が下る。
だが──僕とアルノンは、微動だにしなかった。
僕の意識は、クリアなままだった。
「……効かない?」
彼が、初めて明確に動揺した。
その眉が、わずかに寄る。
いや、とすぐに考えを修正する。
「……違う。既に、支配されている……?」
あり得ないはずだった。
彼は、視線をアルノンへ向ける。
「お前の【精神伝播】は、変質前のものだ」
「支配系の魔法ではないはずだ」
「ならば、誰が──」
そこで、言葉が止まる。
「……まさか」
理解が、遅れて追いついた。
僕は、静かに答えた。
「そうだ。僕とアルノンは、お互いを【精神支配】している」
それは、拘束ではない。
互いの同意によって閉じた、強固な回路だった。
外部から、相反する支配を割り込ませることはできない。
完全に、閉じている。
「……自分から支配を受け入れるなど、正気か」
彼は吐き捨てる。
「正気だ」
僕は即答した。
「これは支配じゃない。信頼だ」
彼が舌打ちする。
苛立ちが、はっきりと伝わってきた。
「……ならばいい」
空気が、変わった。
「直接、殺す」
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