19-7
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『【防壁】』
薄い膜が、空間に立ち上がった。
直後、火球が衝突する。衝撃と熱が弾け、廊下の空気が焼けた。防壁は辛うじて形を保ったが、もう一撃受ければ、間違いなく持たない。
彼と目が合う。
フレッド。エインの友人であり、今この学園で、ショートの支配に抗い続けている唯一の存在。
その手が、止まっていた。
私は無意識に、白い体を前へ出していた。同胞を庇う位置だった。考えたわけではない。ただ、体が勝手に動いていた。
「……アルノン」
低い声だった。
その響きに、友好的なものは欠片もない。
私は、直接、彼の思考に繋いだ。
『お願いします。攻撃をやめてください』
伝えるしかなかった。
言葉ではない。命令でもない。焦り、恐怖、切実さ。胸の内にあるものを、そのまま流し込む。
「支配しておいて……今さら何を……」
当然の反応だった。
彼の魔力は、まだ張り詰めている。次の一撃は、いつでも放てる状態だ。
『私は敵ではありません』
間を置かず、続ける。
『それに、これ以上殺しても、意味がありません』
フレッドの魔力が、わずかに緩んだ。
出力が落ちる。だが、構えは解かれていない。信用されたわけではない。ただ、即座に焼き払う対象ではなくなっただけだ。
「……話だけは聞く」
短い返答。
けれど、今はそれで十分だった。
私は動かなかった。逃げも、隠れもしなかった。
『……ありがとうございます』
焼けた空気が、廊下に滞留している。魔力の残滓が、重く場に沈んでいた。
このままここに留まれば、ショートに気づかれる。
『……場所を変えましょう』
彼は、即座に頷いた。
「……わかった」
判断が早い。迷いがない。
「移動しよう。僕の部屋だ」
必要なことだけを、短く告げる。
『……分かりました』
私は向きを変えた。
ここからが、本番だった。
◆
小さな机の上で、白い体は動かない。
けれど、部屋の中にはアルノンの思念だけが静かに満ちていた。
アルノンは少し間を置いてから、順を追って語り始めた。
かつて四匹の仲間とともに、エインに飼われていたこと。
実験によって知能を得たこと。
自分が群知能の起点であったこと。
人間社会へ同じ仕組みを適用する計画が、かつて存在したこと。
けれど、それはエインとの対話によって自ら破棄したこと。
そして今、その制御権の大半を、別の個体であるショートに奪われていること。
感情を煽る言い方は、どこにもなかった。
事実だけが、一つずつ、机の上に置かれていく。
『……これが、真実です』
沈黙が落ちる。
『今の貴方には、信じてもらえないかもしれませんが』
「信じるよ」
フレッドの声は低かった。けれど、さっきまでのような硬さは少しだけ薄れている。
「君の言っていることが、全部本当かどうかは……正直、まだ分からない」
一拍置いて、フレッドは続けた。
「でも、少なくとも、今の君の気持ちは本物だと思う」
視線を落とす。
「あの時、感染したから……いや、君と繋がっているからこそ、分かるんだ」
それから、静かに言った。
「だから、協力する」
『……ありがとうございます』
短い返答だった。
それでも、そこに混じった安堵は、はっきりと伝わってきた。
フレッドは小さく息を吐き、現実的な話へ戻る。
「で、どうすればいい?」
机の上の白いマウスを見据えた。
「ショートから制御権を取り戻せば、止められるんだよね」
『……理論上は、そうです』
「分かった」
フレッドは頷き、頭の中で状況を整理していく。起点はアルノン。制御権は奪われている。現在、群知能を動かしているのはショート。つまり、ショートを止めればいい。
「……ショートを、無力化すれば」
そこで、言葉が一度止まる。
続けるべき言葉は、分かっていた。けれど、それを口にしていいのか、ほんの一瞬だけ迷った。
「……そのショートを」
言葉を選びながら、フレッドは続ける。
「殺せば、君が制御を取り戻せるんじゃないのか」
その瞬間、アルノンの思念が鋭く乱れた。
『その言葉は、言わないでください』
強い拒絶だった。
「……でも、この状況で他にどうすればいいんだ」
フレッドの声に、焦りが滲む。
「学校中が支配されてる。時間もない」
『それでも』
アルノンの思念が、震えていた。
『殺す以外の方法が、必ずあるはずです』
「……本当に?」
フレッドの声が、小さくなる。
「殺したネズミのことは、悪いと思ってる。でも……」
『盗賊を、あなたは殺さなかった』
言葉を遮られ、フレッドは息を呑んだ。
『殺さずに済むなら、その方法を探す。あなたは、そう考えたはずです』
机の上の小さな体は、動かない。それでも、その思念だけは、まっすぐに届いてくる。
『私は……友人に、人殺しをしてほしくありません』
その言葉が、胸に刺さった。
フレッドの中で、帰郷の道中の光景が蘇る。縛られた盗賊たち。怒りに駆られた御者。彼らを処分しようとしたエイン。そして、それを思わず止めた自分。
「……あれは」
フレッドは、言い返そうとした。
「あれは、もう無力化されてた。今の状況とは、違う」
『同じです』
アルノンが、静かに遮る。
『ショートも、他のネズミも、一匹のネズミです』
その思念に、責める響きはなかった。だからこそ、逃げ道を塞がれる。
『殺さずに済む方法があるなら、その方法を探すべきではないのですか』
フレッドは、返す言葉を失った。
あの時と同じだ。盗賊を殺そうとしたエイン。それを止めた自分。そして今、自分がエインと同じ場所に立っている。
人間だった。ネズミだ。そんな言い訳は、通らなかった。
机の上のアルノンを見る。小さな白マウス。けれどそこには、確かに知性がある。意志がある。友を思う心がある。
フレッドは、人を殺すわけではない。だが、問われているのは、種族の区別ではなかった。
沈黙が落ちる。
フレッドは、答えを探した。殺さずに止める方法を。
「……研究室に行こう」
やがて、ゆっくりと口を開く。
「エイン君の実験記録を見れば……ショートや、君のことが何か分かるかもしれない」
『……はい』
フレッドは、机の上のアルノンを見つめた。
「絶対に殺さない、という約束はできない」
正直に言う。
「でも……試してみる」
アルノンの思念が、わずかに温かくなった。
『ありがとうございます』
殺す以外の道。それを、探す。
◆
旧校舎の研究室。扉を開けた瞬間、空気が変わった。
埃の匂い。紙とインクが混じった、懐かしい匂い。
室内を見回す。棚、机、床に積まれた書類の山。エイン君の助手をやっていた時に、何度も見た光景だった。
「……相変わらずだな」
思わず、独り言が漏れる。
僕は棚の前に立ち、背表紙を上から順に追っていった。
『ネズミでもわかる! 精神魔法の使い方!』
「分かるわけないだろ」
タイトル通り、中身も過剰に丁寧だった。精神魔法の基礎から応用まで、無駄に網羅してある。今回の事態の遠因ではあるが、対処法は書いていない。
『……私は、分かりますよ』
横から、アルノンの思念が差し込んできた。
「分かるネズミは、君だけだよ」
即座に返す。
次。
『高級食材食べ放題! インスタントクローンの作り方!』
「……クローンって、なんだ?」
『姿形がまったく同じ生き物のことらしいです』
アルノンの思念には、わずかに感心が混じっていた。
『まだ研究中の技術だと聞いていましたが……エインは、もう完成させていたんですね』
「ろくでもない技術の予感しかしない」
直感的にそう判断し、僕はその本を棚に戻した。
次。
『対消滅には気を付けよう! 反物質を生成する魔法!』
「……読むの、やめとこう」
言葉の意味はよく分からないが、とにかく物騒だ。
次。
『フラクタルと立体トラスで最強の【防壁】を作ろう!』
「……これは、ちょっと読んでみたいな」
【防壁】は、僕がよく使う魔術だ。最強、という言葉には、正直ロマンを感じる。
「時間があるときに、ね」
そして、最後。
『これが俺の生得術式だ! 己の内側に生体魔法を刻み込め!』
「……刻む、か」
レオナルド先生の言葉が、頭をよぎる。
内側に、刻まれている。
ページをめくる。
『生物の肉体に常時発動する魔法を刻み込む技術、それが生体魔法です。永続する呪いのような性質で、【解呪】で打ち消されないという利点があります。刻み込むと言っても概念的なお話なので、銭湯や温泉にも安心して通えます』
「……やっぱり、これか」
生物の肉体そのものに魔法を刻み込む技術。【解呪】では消えない。永続する、呪いに近い性質。
読み進める。
次のページに、補足の一文があった。
『なお、出力自体は弱い魔法ですので、同系統の魔法をぶつけることで、一時的に無効化されます』
僕は、そこでページを押さえた。
「……消せない。でも、止められる」
重要なのは、そこだった。
さらに読み進める。
『生体魔法は保持者が任意でも発動できますが、条件付けをして自動で発動させるのが基本的な使い方です。これを利用することで自己増殖魔法、つまり感染する魔法が使えるようになります』
条件付け。自動発動。感染。
嫌な単語が、淡々と並んでいる。
そして、具体例。
『以下に例を示します。実験用マウスに使用した【精神伝播】の術式です。この術式は、思考をトリガーに、周りの生物への思考と術式を転送します』
術式図。構造。転送条件。
一目で理解できた。今回の群知能は、これを土台にしている。
その先は、流し読みで十分だった。自己増殖、条件付け、感染。危険であることは、もう確認済みだ。
完全に消す方法はない。でも、止める余地はある。
「沈黙させることは、できる」
論文を閉じる。
「道筋は見えた」
その直後だった。
紙束の下から、薄い別紙が一枚、滑り落ちた。
拾い上げる。
『実験中、助手の友人に「なんの役に立つのか」と聞かれた。やはり実利的でないとすごさは理解されないのだろうか。せっかくなので実用方法を考えてみた。以下に【解毒】の感染術式を記す。従来の【解毒】は既にある毒のみに効果を発揮する対処療法的な使い方しかできないが、生体術式として刻むことで、体内に毒素の発生を検知してトリガーにできる。これにより、病原体の出す毒素を自動的に分解する。病院嫌いのお子様にどうぞ』
「……あれ?」
思わず、声が出た。
普通にいいじゃないか。医療向け。病気の予防。まっとうな使い道。
拍子抜けする。
さっきまで並んでいたのは、感染だの、刻み込みだの、物騒な話ばかりだったのに。
「……回復魔法、いつもこういう研究をしてればいいのに」
ぽつりと呟く。
助手の友人、って多分僕のことだよな。あの時、研究室で質問したやつだ。
エイン君は、それに答えるために、わざわざ実用例を考えてくれたのか。
僕は薄い別紙を、元の位置に戻した。そういえば、エイン君は部位欠損の回復魔法なんてものも研究していた気がする。彼もたまには、まともなことを考えるのかもしれない。
そう思った瞬間、アルノンが反応した。
『……動き出しました』
「何が?」
即座に聞き返す。
『ネズミたちが、一斉に』
アルノンの思念が、緊張を帯びる。
『学校全体から、外へ。王都へ向かって、等間隔に配置されていきます』
「……どういうこと?」
声が、自然と硬くなった。
『計画が、最終段階に入ったということです』
アルノンの思念が震える。
『魔法学校の人間たちの魔力を借りて、王都全体を一斉に支配する』
『それが……間もなく始まります』
「……!」
息を呑む。
今すぐ行動を起こさなければならない。学校だけじゃない。王都全体。街に住むすべての人間が、支配下に置かれる。
時間がない。
僕は扉に手をかけた。
「行こう」
向かう先は、一つしかなかった。
◆
ショートの位置は、既に分かっていた。
アルノンが探知した結果、校長室にずっと留まっているらしい。
校長室へ続く通路には、誰もいなかった。見張りも、配置もない。ネズミの気配すら薄い。不自然だった。
これまでの動きから考えれば、ここが最重要拠点のはずだ。にもかかわらず、守りがない。露骨なほどに、何もない。
罠だ、と即座に理解する。
それでも、進むしかなかった。立ち止まった瞬間、外で進行している計画は完成する。
時間は、こちらの味方ではない。
フレッドは歩調を落とさず、扉の前に立った。アルノンは、肩の上で沈黙している。
ノックはしない。
扉を開けた。
校長室。
室内は、異様なほど静かだった。人間の気配はない。教師も、生徒もいない。
机の上に、一匹。白いマウス。
小さな体。魔力の奔流は感じられない。見た目だけなら、ただのマウスだ。
だが、一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
説明できない圧迫感。思考が、わずかに歪む感覚。
怒りでも、憎悪でもない。言葉にするなら、嫌悪。
フレッドは歯を食いしばる。
(……集会のときと、同じだ)
理由のない感情が、内側に流れ込もうとする。思考を塗り替えるほど強くはないが、確実に削ってくる。
アルノンの気配も揺れていた。
『……話しかけてきません』
ショートは、何も語らない。命令もしない。視線すら向けてこない。
ただ、そこにいるだけだ。
沈黙そのものが、攻撃になっている。
フレッドは、即断した。
「【精神支配】!」
繊細な制御はしない。思考を書き換えるつもりもない。
ただ、押さえつける。
感情の奔流を、力で止める。
ショートの動きが止まった。
その瞬間を、アルノンは逃さなかった。
『今です!』
アルノンが、群知能ネットワークに深く介入する。ショートが握っていた制御権を、強引に引き剥がす。
流れが変わる。
ばらばらだった思念が、再び一つの方向へ揃えられていく。
ショートは小さく痙攣し、机の上から転げ落ちた。
沈黙。
重かった空気が、嘘のように薄れる。
フレッドは、【精神支配】を解除した。頭の奥に違和感は残っているが、先ほどまでの圧迫はない。
「……終わった、はずだよね」




