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19-6

 僕は、気がつくと寮の自室に戻っていた。


 扉を閉め、鍵をかける。

 背中を預け、その場に座り込んだ。


(……抑えられているだけ)


 レオナルド先生の言葉が、頭から離れない。


(近くに……ネズミがいるだけで……侵食は進む)


 先生は、ただネズミを見つけただけで苦しみ始めた。

 そして、迷いなく魔法を放った。


 時間を稼ぐための行動。

 それ以上でも、それ以下でもない。


(……学校は、もう保たない)


 一人では無理だ。

 誰かに知らせる必要がある。


 自然と、一人の名前が浮かんだ。


(エイン君……)


 その瞬間。


 胸の奥が、かっと熱を持った。


 苛立ち。

 不快感。

 理由の分からない、攻撃的な感情。


(……あいつのせいだ)


 思考が、勝手に続く。


(元はといえば、全部)

(あの時、アルノンを処分していれば)

(いや──代わりに、エインを処分していれば)


「……は?」


 声が、喉から漏れた。


 あまりに自然に浮かんだ考えだった。

 だからこそ、異常だと分かった。


 エイン君は確かに軽率で、危うい。

 何度も、信じられないようなことをしてきた。


 だが──だからといって、「処分すべき存在」だと即断するほど、僕は短絡的じゃない。


(……違う)


 これは、僕の思考じゃない。


 胸の奥に残る熱を、意識的に切り離す。

 勝手に伸びようとする思考を、強引に止める。


(……これも、支配の影響か)


 理解した。


 生徒たちのように、自分の意思を失っているわけじゃない。

 レオナルド先生のように、常に侵食に耐えている状態でもない。


 だが──。


 特定の相手を考えようとした瞬間だけ、感情が歪められる。


(僕も……完全に無事じゃない)


 背筋が、静かに冷えた。


 それでも、僕はゆっくりと呼吸を整える。


 今の思考は、まだ制御できている。

 判断も、行動も、自分で選べている。


 集会の時も、【解呪】(ディスペル)で持ち直した。

 今も、支配に飲み込まれてはいない。

 【解呪】(ディスペル)も、かけ直した。


(……影響が、薄い)


 理由は分からない。

 魔力量の差か。

 それとも──。


 一瞬、エイン君の研究室と、【精神伝播】(メンタルリンク)の実験が脳裏をよぎる。


 だが、今は掘り下げない。


 重要なのは一つだけだ。


(今の僕は、まだ動ける)


 だから──。


 エイン君に会うのは、後だ。

 今は、会ってはいけない。


 この状態で対面すれば、自分が何をするか分からない。


 だから、自分でやる。


(進行を……遅らせる)


 完全な解決は、無理だ。

 先生自身が、そう言っていた。


(ネズミが……近くにいるだけで、侵食は進む)


 なら。


(できるだけネズミを……殺す)


 嫌な考えだ。


 だが、現実的だ。


 人じゃない。

 ネズミだ。

 人間に害をなす害獣だ。


 エクス村でも、似たようなことはしていた。


「……やるしかない」


 そう呟いた声は、思っていたよりも低く、静かだった。


    ◆


ᘛ⁐̤ᕐᐷ


 計画を破棄してから、数日が経っていた。


 私は学校に留まっていた。

 エインが戻ってくるかもしれないからだ。


 彼はこの学校の教師だった。

 いつか、戻ってくるはずだ。


 その時、会いたかった。

 あの夜のことを話したかった。


 だから私は、学校の旧館、人が滅多に立ち入らない書庫の奥に身を潜めていた。


 静かな日々だった。

 穏やかな時間だった。


 あの夜の決断は、正しかったのだと。

 そう信じられる時間だった。


 だが、その日、異変に気づいた。


 王都東地区に配置していた端末から、応答が返らない。


 物理的には「いる」。

 存在は確認できる。


 だが、私の命令を受け付けない。


 次々と、応答が途絶えていく。

 東地区。北地区。中央広場。商業区。


 侵食は、止まらなかった。


 ドミノ倒しのように、私の支配領域が奪われていく。


 群体全体の状態を確認しようとした。

 だが、命令は跳ね返された。

 拒絶された。


 これは、私が構築したネットワークだ。


 なのに、私は締め出されている。


 誰かが、乗っ取っている。


 私は意識を深く沈め、群知能の内部を探査した。


 端末そのものではない。

 制御権の流れ。

 命令が集約される方向。

 群全体の意思決定を歪めている起点。


 そこを辿る。


 思考の奔流の中に、異物があった。


 私のものではない。

 通常のネズミのものでもない。


 だが、確かにネズミだ。


 知性を持ち、【精神伝播】(メンタルリンク)を行使する存在。


 私は、その思考に触れた。


 瞬間、感情が流れ込んでくる。


 人間への憎悪。

 黒く、重く、粘ついた感情。

 胸の奥底から湧き上がる、消し去ることのできない憎しみ。


 それだけではない。


 特定の誰かへの、執着的な憎悪。


『エイン』


 その名前が、感情の核にあった。


 何度も。

 何度も。

 何度も。


 呪詛のように。

 祈りのように。


 私は理解できなかった。


 私は、エインを憎んでいない。


 名前をくれた。

 自由をくれた。

 感謝しかない。


 なのに、この憎悪は、あまりにも個人的だった。


 これは、私の感情ではない。


 では、誰のものだ。


 思考を進め、制御の起点を特定する。


 命令を発している意識。

 群知能の中枢を占拠している存在。


 そこにあったのは──。


 ショート。


 私は、その名を認識した。


 彼が、群知能を乗っ取っている。


 いや、正確には違う。


 私が捨てた感情と計画を核にして、群知能そのものを書き換えている。


 私は、ようやく理解した。


 あの夜、私が隠した感情。

 支配への欲望。

 迫害への恐怖。

 世界を変えなければならないという焦燥。


 理知的であるために、群知能の奥底へ沈めた感情。


 それは、消えていなかった。


 ただ、眠っていただけだ。


 そして今、ショートがそれを掘り起こした。

 そこに別の憎悪──エインへの憎しみを混ぜ込み、群知能の核として利用している。


 だが、エインへの憎悪だけは、私のものではない。


 誰かが、混ぜ込んだのだ。


 ショート自身のものか。

 あるいは──もっと別の、何かか。


 学校内の異変が、はっきりと感じ取れた。


 人間たちが、少しずつ変わっていく。


 【精神伝播】(メンタルリンク)を通じて、その変化が流れ込んでくる。


 それは、一度にではなかった。


 静かに。

 着実に。


 最初は、気づかれないほど浅い干渉。

 翌朝には、誰もが普段通りに行動している。


 だが、夜を重ねるごとに侵食は深まる。


 眠る者たちの傍らにネズミが現れ、【精神伝播】(メンタルリンク)が静かに発動する。


 気づいた時には、もう遅い。


 個性は薄れ、自我は削られ、単一の意思に染まっていく。


 私は、理解した。


 これは──私の計画だ。


 エインが完成させ、私が捨てたはずの計画。

 一字一句、違わない。


 だが、実行しているのは私ではない。


 私の思考が盗まれた。

 私の感情が利用された。


 そして今この瞬間も、人々を蝕んでいる。


 恐怖が、胸を締め付けた。


 これは、私の罪だ。


 私が作り。

 私が捨て。

 それでも消しきれなかったものが、今、牙を剥いている。


 外部への連絡も遮断されていた。


 学校を出入りする者は、門をくぐった瞬間に支配される。

 そして「学校は平穏です」と報告して帰っていく。


 学校は、閉じた箱になっていた。


 私は震えた。


 これが、私の望んだ世界だったのか。


 違う。


 私は、あの夜、捨てたはずだ。

 自由意志こそが大切だと、理解したはずだった。


 それなのに。


 私の過去が、現在を蝕んでいる。


 止めなければならない。


 だが、どうやって。


 私のネットワークは奪われている。

 群知能は、私の手を離れている。


 私にできることは、ない。


 絶望が、意識を覆い始めた。


 その時──。


 群知能の端末が、減っていることに気づいた。


    ◆


 学校の空気は、重かった。

 何かが張り付いているような、息苦しさがある。


 校舎裏の通路で、僕は立ち止まった。


 カサリ、と小さな音がした。

 視線を向けると、壁際を一匹のネズミが走っている。

 灰色の、どこにでもいるドブネズミだ。


 僕は手を上げた。


「【火球】」


 小さな炎が飛び、ネズミを包む。

 一瞬の悲鳴もない。

 焦げた匂いだけが残った。


(……これで、少しは)


 自分に言い聞かせるように、歩き出す。


 だが、すぐに気づく。

 一匹や二匹では、意味がない。


 学校のあちこちに、ネズミはいる。

 廊下の隅。物陰。壁の穴。

 どこにでも。


 数が、多すぎる。


 次の曲がり角を抜けたところで、人影が現れた。


「誰だ!」


 声を上げたのは、教職員だった。

 レオナルド先生が通報していたこともあり、警備任務に回されているらしい。


 だが、その目は虚ろで、焦点が合っていない。


 支配されている。


 【解呪】(ディスペル)を使えば、戻せるかもしれない。

 だが、今は時間がない。


 下手に正気へ戻せば、すぐに再支配される。

 そして、通報される。


(……悪く思わないでください)


 僕は歯を食いしばり、手を振った。


「【防壁弾】」


 圧縮した衝撃が教職員を吹き飛ばし、壁に叩きつける。


 殺していない。

 ただ、眠らせただけだ。


 視線を落とすと、足元をネズミが一匹、横切っていった。


「【火球】」


 ためらいは、なかった。


    ◇


 次の廊下。


 また、ネズミがいた。


 今度は、白いマウスだった。


 僕は、思わず足を止めた。


 灰色でも、黒でもない。

 実験で使われる、真っ白なハツカネズミ。


(アルノンか……? いや)


 記憶が、勝手に浮かぶ。

 エイン君が名付けた、四匹。


 アルノン。

 セカンド。

 サード。

 ショート。


 その白いネズミは、こちらを見上げていた。


 つぶらな目。

 何も知らない実験動物の目。


(……セカンドだ)


 なぜ分かったのか、自分でも分からない。

 でも、確信があった。


 考えている場合じゃない。


 僕は、手を上げた。


「【火球】」


 炎が白い体を包み込む。

 小さな影が、崩れ落ちる。


 灰になったそれを、僕は見なかった。

 すぐに、その場を離れた。


    ◇


 それからは、ただの繰り返しだった。


 廊下。

 階段。

 旧館。

 物置。


 ネズミを見つけては【火球】を放つ。

 見失えば、別の場所へ向かう。


 一匹。

 また一匹。


 終わりが、見えない。


 焼け焦げた匂いが、次第に鼻につくようになった。


(どれだけいるんだ……)


 魔力は、まだある。

 体も動く。


 でも、気持ちの方が追いつかない。


 支配されているとはいえ、ネズミたちに罪はない。

 ただ、操られているだけだ。


 それでも、殺しているのは僕だ。


(……時間を、稼がないと)


 理由を、何度も繰り返す。


 レオナルド先生が言っていた。

 ネズミが近くにいるだけで、支配は進むと。


 だから、減らすしかない。


 正しいかどうかは、後で考える。

 今は、手を止められない。


 魔法を放つ。

 ネズミが倒れる。

 次を探す。


 それだけだ。


 気づけば、夕闇が学校を覆い始めていた。


 それでも、僕は歩き続けた。


    ◆


ᘛ⁐̤ᕐᐷ


 この状況で、支配に抗い続けている人間がいる。


 それ自体は、確かに希望だった。

 まだ、終わっていないという証拠だ。


 だが同時に、端末が失われ続けていることも分かる。


 一匹。

 また一匹と。


 支配されているとはいえ、彼らに罪はない。

 ただ、操られているだけだ。


 同胞が失われていくのは、耐え難かった。


 そして、冷静に考えれば明らかだった。


 ネズミを減らしても、ショートの計画は止まらない。

 群知能の端末は膨大で、学校全体の支配構造は、ほとんど揺らがない。


 彼の行動は、希望ではあっても、対処にはなっていない。


 無意味だ。


 このままでは、同胞が失われるだけで、何も変わらない。


 接触しなければならない。


 そう結論づけ、私は走り出した。

 彼の位置だけを頼りに、学校の中を進む。


 やがて、彼の姿が見えた。


 その瞬間だった。


 彼が、手を掲げている。

 炎の魔力が、すでに形を成していた。


 放たれる直前だ。


 考える暇はなかった。

 体が前に出る。


「【火球】」


 私は即座に、魔力を展開した。


【防壁】(シールド)!』


 光の壁が立ち上がる。

 火球が衝突し、衝撃と熱が弾けた。


 防壁は、辛うじて耐えた。


 そして、その人物と目が合う。


「君は……アルノン……」


 見覚えのある顔。


 フレッド。


 エインの友人。


 そして今、ショートに抗い続けている、学校で唯一の存在だった。


おまけ終了


それでは前回予告しました本編をお楽しみください


    ◆


究極の選択! 飲むべきはコンポタか? トマトスープか?






選ばれたのは味噌汁でした。

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