19-5
「……う」
床に倒れていたレオナルド先生が、小さく身じろぎした。
「先生!」
僕は駆け寄り、膝をついて顔を覗き込む。
呼吸はある。
外傷も見当たらない。
「フレッド、君か……」
焦点の合っていなかった視線が、少しずつ定まっていく。
そこには、さきほどまでの虚ろさはなかった。
「よかった、気がついたんですね!」
だが、レオナルド先生は安堵の表情を見せなかった。
ゆっくりと、自分の胸元に手を当てる。
そして、かすかに首を振った。
「……戻った、わけではない」
「え……?」
「今は……抑えられているだけじゃ」
言葉を選ぶように、先生は続ける。
「支配は……儂の内側に刻まれておる。【解呪】でも、完全には消えん」
嫌な予感が、背筋を走った。
「【精神防壁】でも……防ぎきれん。近くに……ネズミがいるだけで……侵食は進む」
その時だった。
廊下の隅を、黒い影が走った。
小さな、素早い動き。
ネズミだ。
レオナルド先生の表情が、一瞬だけ強張る。
「……くっ」
歯を食いしばり、先生は手を伸ばした。
「【火球】」
小さな炎が放たれ、ネズミを直撃した。
焦げた匂いが立ち上る。
次の瞬間。
先生の肩から、わずかに力が抜けた。
ほんの一瞬。
だが、確かに──呼吸が、楽になっている。
「今の……」
僕が呟くと、レオナルド先生は短く答えた。
「進行が……遅れた」
それ以上の説明はなかった。
先生は荒い息を整えながら、言葉を続ける。
「だが……一時的なものじゃ。すぐに……また……」
言葉の途中で、視線が揺れた。
再び、虚ろさが戻りかけている。
「君は……捕まるな……」
先生は、僕を見た。
必死に、焦点を合わせようとしている。
「儂は……もう……長くは……」
そして、決意したように続けた。
「今から……自分に【忘却】を使う」
「そんな……!」
「また君を襲うわけにはいかん……記憶を、消さねば……」
先生は、かすかに笑った。
「……行け、フレッド」
声に、最後の力を振り絞る。
「捕まるな……それだけじゃ……」
僕は、唇を噛みしめた。
ここに留まれば、先生の覚悟を無駄にする。
助けたいと思うことと、助けられることは違う。
今は、走るしかない。
立ち上がり、背を向ける。
その背中に、弱々しい詠唱が届いた。
「……【忘却】」
振り返らなかった。
振り返れなかった。
ただ、走った。
◆
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基本設計は固まった。
王都全域に張り巡らせたネズミの群体ネットワーク。
そこから影響範囲を広げていくための手順。
段階的な拡大の流れ。
時間はかかる。
だが、確実な計画だった。
だが、実行前夜。
私は落ち着かなかった。
論理的思考は「今すぐ実行せよ」と命じている。
それなのに、胸の奥の違和感が消えない。
あのチーズの違和感が、まだ解消されていなかった。
気づくと、私は王都中の端末を動員して、エインの行方を捜索していた。
なぜ。
私は自分の行動を検証する。
エインは魔法に長けている。
感染魔法の開発者であり、精神系魔法にも精通している。
理論構築の速度も、応用力も高い。
計画をより確実なものにするなら、一度、意見を聞いておく価値はある。
そう結論づけた。
論理的には、筋が通っている。
計画段階で第三者の視点を取り入れるのは、合理的な判断だ。
特に魔法理論において、エインは有用だ。
私は、その理由で自分を納得させた。
だが。
その理由を採用した瞬間、胸の奥に残っていた違和感が、さらに鮮明になった。
本当に、それだけだろうか。
私はエインを、計画の補助要員として扱おうとしている。
それなのに、探索の優先順位が高すぎる。
情報収集としては、明らかに過剰だ。
だが、これ以上掘り下げるのは非効率だった。
理由はどうあれ、今の私は、エインを必要としている。
そう結論づけ、思考を切り替えた。
発見したのは、翌日のことだった。
彼は王都を離れ、エクス村へ向かう街道を進む馬車の中にいた。
私は最寄りの端末を通じて、馬車を追跡した。
そして、盗賊の襲撃を目撃した。
戦闘はあっという間に終わった。
フレッドと御者が盗賊たちを無力化し、縛り上げる。
そして──。
フレッドが手を掲げた。
「【精神支配】」
魔法陣が展開される。
盗賊の目が虚ろになっていく。
「僕たちと一緒に護衛をしてもらいます」
合理的な判断だ。
殺す必要がある盗賊を、戦力として再利用する。
誰も死なず、護衛も増える。
完璧な解決だ。
フレッドが魔力切れで膝をついた時、エインが残りの盗賊たちに手を振った。
「【精神支配】」
あっさりと。
何の躊躇もなく。
滑らかで、完璧な魔法だった。
盗賊たちは静かに支配され、護衛として配置についた。
誰も死ななかった。
だが──。
フレッドの様子がおかしい。
魔力切れで膝をついた彼は、顔色が悪い。
手が震えている。
呼吸が荒い。
まるで、何か重大な罪を犯してしまったかのように。
私は、彼の心を読み取ることにした。
彼は、エインと同じく変質前の【精神伝播】に感染している。
その影響で、対象の思考を読み取ることができる。
彼の思考にあるのは、深い罪悪感。
後悔。
苦悩。
『人格を踏みにじった』
『これで良かったのか』
理解できなかった。
盗賊を殺さずに済んだ。
誰も傷つかなかった。
完璧な解決だ。
なぜ、苦しむのか。
エインは躊躇なく、淀みなく使った。
同じ魔法。
同じ結果。
なのに、片方は苦しみ、片方は平静だ。
私は、膨大な数のネズミに対して同じことをした。
個を捨て、統合し、群体として機能させた。
彼らは幸福だ。
少なくとも、統合される前よりは。
では、人間も同じではないのか。
憎悪と暴力に満ちた人格を消去し、善良で従順な人格に置き換える。
それは「悪」ではなく、「善」ではないのか。
フレッドの苦悩は不合理だ。
その時の私には──エインの方が、正しいと思えた。
◇
その夜、野営地で焚き火が燃えていた。
フレッドと御者は焚き火の前で話し込んでいる。
エインは、一人で離れた場所にいた。
彼は空を見上げている。
表情は穏やかだ。
苦悩の色はない。
後悔の気配もない。
まるで、何事もなかったかのように。
エインが一人になっている時を見計らい、私は呼びかけた。
『こんばんは』
脳内に直接響く、【精神伝播】による思念。
「こいつ直接脳内に……!?」
彼は驚いた様子で周囲を見回した。
声の主を探している。
『驚かせてしまい、申し訳ございません』
私は姿を現した。
「……何だ、ネズミだったのか」
エインは私をじっと見つめた。
その視線は好奇心に満ちていて、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだった。
「ネズミ君、はじめまして。俺になんか用かな?」
はじめまして。
その言葉が、私の思考回路を震わせた。
私を知らない。
アルノンだと気づいていない。
当然だ。
私は今、本体の白マウスではなく、灰色のドブネズミの端末で現れている。
これなら気づかれなくて当然だ。
そうだ。
当然のことだ。
なのに──なぜか、胸の奥が痛んだ。
『あの……実は、あなたが魔法に詳しいとお聞きしまして』
建前だ。
本当は、何かを確かめたかった。
だが、何を確かめたいのか、自分でも分からない。
『私には……ある計画があります』
エインは興味深そうに首を傾げた。
私は、慎重に言葉を選びながら説明した。
自分がアルノンだと気づかれないように。
感染魔法のことも伏せて。
『精神魔法を使えるネズミたちを、王都中に配置して……』
そこから先は、概要だけを伝えた。
王都全域、そして最終的には王国全体を支配する構想。
具体的な方法論は、あえて詳しく語らない。
エインの実験で得た【精神伝播】の能力についても、伏せておいた。
エインは黙って聞いている。
遮らない。
驚いた様子もない。
私は、その反応を注意深く観察していた。
やがて、エインは少し考え込むように視線を伏せ、あっさりと口を開いた。
「それだと、魔力の問題で時間がかかるから、そのうちバレちゃうんじゃない?」
『……え?』
「もっと、早くて確実なやり方を考えないとさ」
予想していなかった。
否定されるか。
危険だと切り捨てられるか。
あるいは、妄言として扱われるものだと思っていた。
だが、エインは違った。
迷いなく、問題点を指摘してきた。
しかも、私の計画を前提として。
本当に、助言が返ってきている。
一瞬、思考が止まった。
私は、自分の判断を疑った。
計画の完成度ではない。
なぜ、私はここへ来たのか。
助言を求めに来た。
そう定義したのは、私自身だ。
だが、本当にそれだけなら、この反応に、ここまで引っかかる理由がない。
思考が、わずかに揺れる。
その違和感を掘り下げる前に、エインは何でもないことのように続けた。
「最初は、閉じたコミュニティを一気にやったほうがいい。王立魔法学校とか、どう?」
私は、言葉を飲み込んだ。
「生徒も教師も大勢いるし、外部との接触も限られてる。一度支配しちゃえば、気づかれにくい」
『魔法学校……』
「しかも、魔力不足も解決できる」
エインは、軽い調子で言った。
「学校にいた頃、助手のマーカス君で実験してて気づいたんだよ。【精神支配】とか【精神感応】みたいに、相手と魔力パスを繋ぐ魔法って、魔力のやり取りができるんだ」
『……魔力を、借りる?』
「そう。支配系の魔法なら、強制的に魔力を引き出せる。だから、生徒や教師を支配すれば、その魔力をまとめて使えるんだ」
エインは、さらりと結論を口にした。
「一気に王都全域に魔法を展開できる。バレる前に、全部終わらせられるよ」
私は理解した。
魔法学校という閉じたコミュニティ。
上質な魔力源。
そして、支配した人間から魔力を借りることができる。
エインの助言は、私の計画を根本から改善するものだった。
中枢から少しずつ広げていく、時間のかかる計画が、一気に王都全域への展開に変わる。
発覚リスクも、劇的に減少する。
いや、それどころか──計画が完成した。
私は言葉を失った。
『あの……ありがとうございます』
私は引き気味に礼を言った。
「うん、どういたしまして」
エインは何でもないことのように続けた。
「あ、そうだ。そしたらさぁ、王都中の人間を支配した後は、そいつらの魔力も使えばいいじゃん。段階的に規模を拡大していけば、世界征服だってできるんじゃない?」
『……え』
「王都から周辺都市、そこから地方都市、最終的には王国全体。いや、隣国にも広げていけば──」
エインは楽しそうに語る。
私の思考回路が混乱した。
計画が完成しただけでなく、さらに発展している。
しかも、それを止める気配がまったくない。
『……あの』
私は間を置いて、ようやく口を開いた。
『なぜ、止めようとしないんですか?』
私の声には、戸惑いが滲んでいたはずだ。
エインはきょとんとした顔をした。
「止める? なんで?」
本当に不思議そうだった。
『だって……世界征服、ですよ? 支配されたら、困るのでは?』
「困らないけど?」
エインはあっさりと答えた。
「だって、君の計画は、【精神支配】で“悪人を善人にする”って計画だろ? 俺や俺の身内はみんな善人だから、まったく困らないよ」
『……え』
「悪いことをしなければ、支配されてても別に問題ないじゃん。むしろ、悪人がいなくなるなら、君の言う通り世の中平和になるんじゃない?」
私は言葉を失った。
論理的には正しい。
私が人間を支配しても、善良な人間には害を与えない。
むしろ、犯罪者や悪人を取り締まることができる。
だが──。
『だとしても……魔法で無理やり支配されるなんて、おかしいと思わないんですか?』
私の声には、必死さが滲んでいた。
エインは少し考え込むような表情を見せた。
そして──。
「考えてみろよ。人間だって、王や貴族みたいな人間、しかも法律なんて意味不明なものにまで縛られてる。君ら野生動物だって、自然の掟に支配されてる。完全に自由な存在なんて、この世にいないんだよ」
『……』
「支配者が入れ替わるだけだよ。王様がネズミになっても、校長がネズミになっても、別に問題ないんじゃない?」
その言葉は、論理的には正しい。
人間は既に支配されている。
法に。
道徳に。
社会規範に。
私が行おうとしているのは、ただその支配者を「私」に置き換えるだけだ。
沈黙が落ちた。
私は身を翻そうとした。
その時──。
エインが懐から何かを取り出した。
小さな、チーズの欠片。
彼はそれを、私の前にそっと置いた。
「はい、これあげる」
私の思考回路が、一瞬停止した。
『……なぜ』
「好きでしょ? チーズ」
なぜ、知っている。
ネズミだから、チーズを好むと思っているのか。
いや、それは違う。
私はもう、ただのネズミではない。
知性を持った存在だ。
「ネズミだからチーズが好き」などという単純な理由でこれを差し出しているのだとしたら、それは、私の知性を認めていないということになる。
失礼な行為だ。
だが。
そうでないとすれば──。
私は、チーズに視線を落とした。
小さな欠片。
芳醇な香り。
手を伸ばし、口にする。
濃厚な味わいが、舌の上で広がった。
その瞬間──。
あの違和感の正体が、分かった。
ガレスがくれるチーズと、エインがくれるチーズの違い。
それは──。
自由意志だ。
支配されていない人間が、自分の意思で差し出すチーズ。
その温かさこそが、私が本当に求めていたものだった。
◇
『……ありがとうございました』
私はそう言い残し、エインの前から姿を消した。
感謝の意味を、彼は理解しないだろう。
答えをくれなかったことへの感謝。
突き放してくれたことへの感謝。
自分で考えさせてくれたことへの感謝。
エイン。
あなたは私に、二度、自由をくれた。
一度目は、実験の後に。
二度目は、今夜。
森の中を駆ける。
端末から端末へと意識を移しながら、王都へと戻る。
思考回路は、既に結論を出していた。
私は、王都支配計画を破棄する。
エイン。
あなたが私に知性を与え、名前を呼んでくれた時のあの感情こそが、私が守るべきものだったのだ。
支配ではなく。
恐怖ではなく。
自由意志による、温かい関係。
それこそが、私が本当に求めていたものだ。
私は、少しだけ安心した。
これで、もう終わったのだと。




