表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
82/113

19-4

ᘛ⁐̤ᕐᐷ


エインという人間に逃がされてから、数日が経ちました。

あれから、仲間は増え続けています。

それは良いことでしたが、同時に、少しだけ変な感覚もありました。


僕は、ひとりなのに、ひとりではないような気がするのです。


寝床の好みが、ばらばらなのに、困りませんでした。

箱の中、壁の中、藁束の中。

それぞれ違うのに、全部が分かりました。

嫌ではなく、むしろ、自然でした。


そのころから、僕たちは、あまり迷わなくなりました。

逃げるか、止まるか、隠れるか。

考える前に、体が動くようになっていました。


ある時、遠くで、硬い音を聞いた僕がいました。

人間の足音に、少し似ていました。


その僕は、何も言わずに止まりました。

すると、ほかの僕たちも止まりました。

合図も、相談もありません。

それでも、みんな同じように、動かなくなりました。


しばらくして、音は遠ざかりました。


その時、僕たちは知りました。

ひとりで止まるより、みんなで止まるほうが、楽だということを。


それから、同じことが、何度も起きました。

食べ物を見つけても、取り合いになりませんでした。

決めていないのに、争いませんでした。


他の群れと会っても、喧嘩は減りました。

大きな一つの群れとして、動くようになっていたのです。


「ねこ」や、人間の罠にも、前より早く気づけるようになりました。


ある時、食べ物を探していた僕が二匹いました。

その僕は、ショートと、サードという名前でした。


「ネズミだ!」「捕まえろ!」


子供たちは面白がって、石を拾いました。


僕たち、ショートとサードは、同じ路地を走りました。

逃げ場は多くありませんでした。


怖くて、僕たちの体は、同時にこわばりました。


その時、ショートである僕の中に、強い気持ちが生まれました。


やめて。

怖い。

助けて。


声にはならない叫びが、胸の中にあふれました。


同じ瞬間、離れた場所にいる僕たちの中にも、同じ判断が生まれました。

止める。


石を投げようとしていた子供の手が、空中で止まりました。


子供たちの顔から笑いが消え、急に怯えたような表情に変わりました。


「な、なんか……怖い」「ごめんなさい……」


子供たちは、そう言うと、逃げるように走り去っていきました。


ショートである僕は、動いていました。

サードである僕は、動いていませんでした。


それ以来、ショートである僕は、人間を見ると、体が震えるようになりました。


僕たちも、変わりました。


強い気持ちを向けると、人間の行動が変わることがあると知りました。

怒りが収まったり、こちらを見なくなったりしました。


僕たちは、この力を使えば、安全になれるのだと考えるようになりました。


    ◆


 激しい攻防の末、僕は廊下の壁際まで追い詰められていた。


 後ろには、もう退ける余地がない。

 前方には、崩れる気配のない防御。

 逃げ道は、少しずつ削られている。


 対するレオナルド先生は、平然としていた。

 魔力の揺らぎもなく、姿勢も崩れていない。


(……ここまでか)


 そう見えているだろう。

 少なくとも、先生の目には。


 僕は一度、【防壁】(シールド)の展開を解いた。

 そして、ゆっくりと手を上げる。


「……【解呪】(ディスペル)


 光が放たれる。

 一直線に伸びた魔力は、迷いなくレオナルド先生へ向かった。


【防壁】(シールド)


 即座に展開された障壁が、【解呪】(ディスペル)を受け止めた。

 鈍い反発。魔力が弾かれ、霧散する。


 一拍置く。

 次は、同じ場所を狙わない。


【解呪】(ディスペル)


 今度は、わずかに角度をずらす。

 真正面ではなく、障壁の縁をなぞるように。

 だが、結果は同じだった。


「無駄じゃ」


 レオナルド先生は一歩も動かず、淡々と告げる。


「その程度の揺さぶりで、儂の防御は崩れん」


 ならば。


 僕は、魔力の出力を落とした。

 威力ではなく、精度を優先する。


「……【解呪】(ディスペル)


 光は細く、鋭く。

 先ほどよりも遅く、だが狙い澄ました一撃。


 障壁が、わずかに震えた。

 ほんの一瞬。

 だが、確かに反応が遅れた。


「……ほう」


 レオナルド先生の視線が、わずかに鋭くなる。


(今の反応……)


 もう一度。


【解呪】(ディスペル)


 今度は、詠唱の間を詰める。

 間断なく、連続で。


 一発。

 二発。


 光が重なり、障壁に叩きつけられる。


 だが、三発目を放つ前に──。


「もうよい」


 レオナルド先生が、静かに手を上げた。


 僕の動きが止まる。


「これ以上続けても、君の消耗が増えるだけじゃ」


 先生は一歩、こちらへ踏み出した。


「魔力の使い方は悪くない。狙いも分かる。だが……」


 その視線が、僕を測るように上下する。


「もう、余力は残っておらんだろう」


 その言葉に、僕は眉をひそめる。

 だが、否定する余裕はなかった。


「そういえば」


 レオナルド先生が、ふと独り言のように呟いた。


「以前にも、似たようなことがあったのう。エイン君が【忘却】を使った時……儂は【精神防壁】を張って、それを防ごうとした」


 一瞬。


 先生の表情が、わずかに歪んだ。

 視線が泳ぎ、言葉が途切れる。


「……そうじゃ、エイン……」


 低い声。

 そこに、先ほどまでの均整はなかった。


「エインはどこじゃ?」


 空気が変わる。


「やつを……成敗せねばならん」


 先生の瞳が、血走る。

 理性の裏側から、別の感情が噴き出してくる。


(……来た)


 植え付けられた憎悪。

 支配の核にある、歪んだ感情。


 先生は周囲を見回し、そして、僕を睨みつけた。


「フレッド君なら知っておるだろう! 答えろ! あの悪魔は、どこにいる!」


 鬼気迫る形相。

 さきほどまで「秩序」を語っていた姿は、もうそこになかった。


 僕は、息を整えた。


「……エイン君なら」


 指を伸ばす。

 先生の背後を、まっすぐに。


「後ろにいます」


「なに──」


 レオナルド先生が、反射的に振り向いた。


 そこには、誰もいない。

 ただの廊下だ。


 次の瞬間。


 僕の手に、魔力が集束していた。


 詠唱はしない。


「……!」


 放たれた【解呪】(ディスペル)は、一直線に伸びた。

 振り返りざまの、無防備な瞬間。

 障壁は、間に合わない。


 光が、レオナルド先生の胸元を貫いた。


「……魔力を……残しておったか……」


 先生の膝が崩れ、床に手をつく。


「しかも……無詠唱……」


 その声には、悔恨でも怒りでもない、純粋な驚きだけがあった。


「……見事、じゃ……」


 それきり、レオナルド先生は意識を失い、その場に倒れ伏した。


    ◆


ᘛ⁐̤ᕐᐷ


 それは、ある雨の夜に起きた。


 王都の路地裏、下水道、屋根裏、倉庫。

 あらゆる場所に散らばっていた私たちが、最後の一匹と繋がった瞬間。


 世界が、変わった。


 視界が爆発的に広がる。

 私は同時に、無数の目で王都を見ていた。

 東の市場。西の貴族街。北の城壁。南の港。

 すべてが、今、この瞬間に見えている。


 無数の耳が、王都中の音を拾っている。

 雨音。話し声。馬車の音。笑い声。泣き声。

 すべてが、同時に聞こえている。


 そして──。


“僕たち”が、“私”になった。


 かつて私は、「アルノン」であり、「セカンド」であり、「サード」であり、「ショート」だった。

 そして、無数の「なかま」だった。


 だが今、私は「アルノン」だけだ。

 すべてのネズミが、私という一つの巨大な知性として統合された。


 どこかで、誰かが「個」を失ったような気がした。

 けれど、それは錯覚だと私は結論づけた。


 私たちは個を失ったのではない。

 より大きな「個」へと昇華したのだ。


    ◇


 統合されてから数日後、私は人間の観察を続けていた。

 理由は単純だった。


 ネズミが、人間に殺されるからだ。


 罠。石。棒。踏み潰す足。

 どれも人間にとっては日常の延長だ。

 だが、私たちにとっては死だった。


 私はネズミたちに指示を出し続けた。

 近づくな。物陰に隠れろ。音を立てるな。


 それでも、限界はあった。

 人間の行動は、ネズミの努力だけでは制御できない。


 だから、試してみることにした。


 王都の広場で、数人の人間が言い争っていた。

 商人と客。原因は、些細な代金の行き違いだった。

 怒鳴り声は大きくなり、周囲の人間も苛立ち始めている。


 私は、感情を直接抑え込むことはしなかった。

 代わりに、思考の順序だけを整えた。


「相手の発言を最後まで聞け」

「金額を、最初から確認し直せ」

「第三者の証言を求めろ」


 それは命令というより、手順の提示だった。


 人間たちは一瞬だけ動きを止め、やがて言われた通りに行動を始めた。

 怒号は途切れ、指先は帳簿に向けられ、誤解は論理的に解消された。


 誰も傷つかなかった。

 恨みも残らなかった。


 私は、その様子を静かに観察していた。

 成功した、という感覚はない。

 ただ、最適な処理が行われただけだった。


 別の日。

 私は裏路地で、一人の男を支配下に置いた。


 酔っ払いだった。

 通行人に絡み、金を巻き上げる常習犯。

 ネズミにとっても、危険な存在だ。


 私は指示した。


「ネズミに危害を加えるな」

「ネズミを見ても騒ぐな」


 それだけだ。


 翌日、彼は路上で転んだ老人を助け起こしていた。


「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」


 優しい声だった。

 心からの気遣いだった。


 私は混乱した。

 命令していない。

「善人になれ」とは、一言も言っていない。


 なのに──彼は変わった。


 支配下に置かれた人間は、ネズミに友好的になるだけではない。

 行動は静かになり、選択は早くなり、衝突は起きにくくなる。


 誰かに善悪を教えられたわけでもない。

 命令を受けたわけでもない。


 無駄な怒りが削ぎ落とされ、判断に必要のない感情が排除され、残った思考だけが前に進んでいる。


 それは、ネズミのためではなかった。

 あの男は、自分自身と、周囲の人間にとって、最も摩擦の少ない行動を選んだだけだ。


 放っておけば、人は怒り、傷つけ合う。

 だが、介入すれば、人は落ち着く。


 私は、そこに違和感を覚えなかった。

 むしろ、当然だと思った。


 恐怖がなければ、人は攻撃的にならない。

 憎悪がなければ、人は暴力を振るわない。

 欲望だけでなく、負の感情すらも──私は無意識のうちに、調整しているのかもしれない。


 だとすれば。


 私は、思考を進めた。


 この状態を、もっと広い範囲に適用できないだろうか。


 私が統率したネズミたちは、既に、かつてないほどの安全を享受している。

 縄張り争いは消え、無駄な衝突は起きず、外敵への対応も合理化されていた。


 同じ構造を、人間社会にも適用すればどうなるか。


 私は、計画の原型を組み上げ始めた。


 影響範囲。

 支配の優先順位。

 拡大の手順。


 思考は、自然と整理されていく。


 その過程で、ふと思い出した。


 かつて私は一度、人間の王を支配下に置いたことがある。


 それは、この計画のためではなかった。

 ただ、ネズミとは異なる社会を持つ人間が、どのように集団を統率しているのかを知るためだった。


 王の思考の奥には、世界を支配したいという欲求と、それを実現するための計画があった。


 方法の是非はさておき、その発想自体は、大きな集団を一つの意思で動かそうとするものだった。

 人間社会を動かす発想として、参考にできる部分はある。


 だが、そのまま使うつもりはなかった。


 恐怖や強制に頼るやり方は、反発と摩擦を生む。

 私が求めているのは、もっと静かで、滑らかな形だ。


 摩擦を減らし。

 衝突を減らし。

 誰も傷つけない。


 ただ、全体を整えるだけ。


 支配後の世界を、想像する。

 争いは減り、悪意は抑えられ、人間は隣人を害さなくなる。

 ネズミたちは、追われることなく生きられる。


 整った、静かな世界。


 だが──。


 どこかで、まだ何かを考え忘れている気がした。


    ◇


「どうしました? 食べないんですか?」


 声に、私は我に返った。


 牧場主のガレスが、不思議そうな顔で私を見下ろしている。

 目の前には、小さなチーズの欠片が置かれていた。


 私は──いつの間にか、一匹の白マウスとして、王都郊外の牧場に来ていた。


 思考に没頭している間、この体がどう動いていたのか、自分でもよく分かっていなかった。

 膨大な端末を同時に制御していると、時折このように、個々の行動を把握しきれないことがある。


『ああ、すみません』


 私は思念でガレスに謝意を伝えると、目の前のチーズを見つめた。


 彼も私の支配下にある。

 私との会話を自然なものとして受け入れているし、週に数回、私がここを訪れることも、彼にとっては当たり前の日常だ。


 同じ私なのだから、どの端末が食べても同じはずだった。


 だが、他の私──灰色や黒の端末たち──は、チーズをあまり好まない。

 だから私は、いつもこの白い体で、ここへ来る。


 私はチーズに口をつけた。


 芳醇な香り。

 濃厚な味わい。

 舌の上で、ゆっくりと溶けていくチーズ。


 その瞬間、記憶が蘇った。


    ◇


 まだ私が「アルノン」と呼ばれる前のこと。


 エインは毎日、ケージを丁寧に掃除してくれた。

 古い藁を取り除き、新しいものを敷き詰める。

 水を交換する時も、こぼれないようにゆっくりと容器を置いた。


 そして時々、通常の餌とは別に、小さなチーズの欠片を私たちの前に置いてくれた。


「はい、おやつだよ」


 当時の私たちのほとんどは、チーズを特に好きではなかった。

 それでもエインは、私たちがチーズを好物だと思い込んでいて、わざわざ用意してくれた。


 あれは、彼なりの「気遣い」だったのだろう。

 当時の私には、その意味が分からなかった。


 ただの音。

 ただの刺激。

 ただの食べ物。


 それだけだった。


 だが、今なら分かる。


 エインは私たちを、単なる実験動物としてではなく──何か別のものとして見ていた。


 名前をつけられる前から、私は特別だったのだ。


 研究施設にいた頃の私たちは、番号で呼ばれるか、あるいは呼ばれすらしなかった。

 エインのケージにいた私たちは違った。


 丁寧に世話をされ、優しく扱われ、時にはチーズまで与えられた。

 まだ知性を持たない、ただの動物だった頃から。


 そして──あの実験の日。

 私に知性が芽生えた日。


 エインは私に「アルノン」という名を与えた。


 そして、自由をくれた。


    ◇


 私は、ふと思った。


 口の中に、まだガレスがくれたチーズの味が残っている。


 もし計画が完遂すれば、エインもまた私の支配下に入る。

 私は、その光景を想像してみた。


 支配されたエインが、無表情で私の前にチーズを置く。


「はい、おやつだよ」


 抑揚のない声。

 命令に従う動作。

 ガレスと同じように。


 そのチーズを口にする私を、想像する。


 どちらもチーズだ。

 だが、その想像の中のチーズには、何かが欠けている気がした。


 あの頃エインがくれたチーズと、想像の中のチーズは、同じではない。


 なぜだろう。

 チーズという点では同じはずなのに。

 なのに、違う。


 決定的に、何かが違う。


 その違和感が、口の中に残っているチーズの味を変えた。


 その日、私は初めてチーズを食べ残した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ