16-y ネズミたちに花束を
「来たな、フレッド。今日も新しい研究を始めるぞ」
研究室を再び訪れた僕は、エイン君のそんな第一声で出迎えられた。
「……今度は何を?」
早くも、胸の奥に嫌な予感がよぎる。
助手になってまだ数日だというのに、僕はすでに学びつつあった。彼が日替わりで始める研究は、どれもこれも、こちらの常識が通用するものではない。
エイン君は椅子をくるりと回転させ、悪戯っぽく笑った。その顔には、子供が新しいおもちゃを見つけた時のような、純粋な興奮が浮かんでいる。
「ふっふっふ、今日の研究はすごいぞ。なんと──“感染する”精神魔法だ!」
「感染……!?」
その不穏すぎる響きに、ぞくりと背筋が凍った。
冗談じゃない。エイン君が精神魔法を扱うだけでもろくでもないことになるのに、それが“感染”なんて、どんな事態を引き起こすか想像もつかない。
何とかして止めなければ。僕は慌てて口を開いた。
「そ、その研究って……何の意味があるの?」
怯えながらも質問する僕に、彼は心底不思議そうな顔をした。
「いいか、フレッド。研究ってのはな、役に立つためにやるもんじゃないんだよ」
エイン君の声は、やけに真剣だった。
「未知なるものへの純粋な探究心。それこそが学問の本質なんだ。解けない謎を解き明かし、可能性の境界線を押し広げる。そうやって“知らなかったこと”を一つずつ明らかにしていくのが、研究者の使命だ。その結果をどう活かすかなんてのは、他の連中に任せておけばいいんだよ」
……言っていること自体は、たぶん正しい。
彼の探求者としての姿勢は、立派と言えるのかもしれない。
研究している中身が“感染する精神魔法”でさえなければ、の話だけど。
「でも……その“感染”って、どうやって実験するつもり?」
エイン君は、部屋の隅に置かれたケージを指差した。中では、白くてふわふわした小さな生き物たちが、ちょこまかと動き回っている。
「……えっ、これって……ネズミ?」
思わず声が漏れた。
丸い目、ちんまりした足、もふもふの毛並み。
「そうだ。校長に手配してもらった実験用のマウスだ。思考の単純な小動物なら、魔力の消費も抑えられるからな」
エイン君はケージを軽く叩きながら続ける。
「今までは実験する環境がなくて、ずっとお蔵入りしてた魔法だったんだが、ようやく日の目を見るときが来たってわけだ」
そう言いながら、どこか惜しむような顔になる。
「できることなら、人間で実験したかったんだがなぁ……。でも、俺の魔力量じゃ足りないからなぁ……」
その瞬間、僕はエイン君の魔力量が少なくて本当によかったと、心の底から思った。
◆
「よし、さっそく実験を始めるか」
エイン君はケージに近づくと、中から一匹の白ネズミをそっと取り出した。
掌の上でじっとしている小さな姿を見つめながら、彼は真剣な顔でうーんと唸る。
「最初の個体だから……ファースト? いや、安直すぎるな……」
何やらぶつぶつと呟きながら考え込む様子は、まるで大事な命名儀式でもしているかのようだった。やがて小さく頷くと、満足げに宣言する。
「よし、今日から君の名前は──アルノンだ」
なぜか少しだけ得意げな声だった。
そしてそのまま、他のネズミたちも次々に取り出していく。
「さて、アルノンの次は……うーん、同じくらいかっこいい名前を……」
意気込みだけはあるのに、どうにも決め手が浮かばないらしい。しばらく唸っていたが、やがて小さくため息をついた。
「……まあ、いいか。セカンド、サード、ショート」
語感も意味もあったものじゃない命名に、僕は思わず苦笑した。
エイン君は再びアルノンを手に取ると、少し集中した様子で魔法を唱える。
「いくぞ、アルノン。【精神伝播】」
詠唱と同時に、エイン君の手が淡く光り、空気がぴりりと張り詰めた。
その魔法の流れは、僕がこれまで見てきた精神魔法とはどこか違っていた。
複雑で、不規則で、不気味で……まるで生き物がのたうっているような気配がある。
直後、魔法をかけられたアルノンは、一瞬だけ動きを止めた。そして、ぱちくりと瞬きをする。
けれど、特に変化らしい変化はない。ただきょとんとした顔をしたまま、ケージの隅で毛づくろいを始めるだけだった。
エイン君はそれを確認すると、今度は別のネズミ──セカンドを手に取り、アルノンと短時間だけ接触させる。
その瞬間、アルノンの体から微かに光る糸のようなものが立ち上り、セカンドへと流れ込んでいくのが見えた。ほんの一瞬の出来事だった。けれど、確かに何かが“移った”のだと、直感的に理解できた。
僕がその光景に見入っている間に、エイン君は手際よくケージを並べていた。中央で仕切られた箱型の構造で、それぞれ別の空間に分けて収容できるようになっている。
「簡単に説明するぞ」
エイン君が僕を振り返る。
「これがボタンだ。アルノンが踏んだら、俺がチーズを投下する。セカンド側にも同じものを設置してある」
「フレッド、お前はセカンド側のケージを見ててくれ。感染が成功したか確認したい」
僕は頷いて、セカンドのケージに注意を向けた。
セカンドは特に変わった様子もなく、ケージの隅で毛づくろいをしている。
その時、隣からカチッという音が響いた。アルノンがボタンを踏んだのだろう。
「いいぞアルノン、ご褒美だ」
エイン君が合図とともに、チーズの欠片を落とす。
アルノンはそれにかぶりつき、しばらく咀嚼したあと──今度は自分の意志で、ボタンの方へと戻っていった。
二度目の踏みつけ。
カチ、と音がして、ふたたびチーズが投下される。アルノンは迷いなくそれを口に運んだ。
──その直後だった。
目の前のケージで、セカンドが動いた。
ぴくりと頭を上げると、すぐさまボタンへと歩み寄り、ためらいもなく前足で押し込む。
カチリ。
……だが、何も起きない。
セカンドは再びボタンを押す。
もう一度。さらに、もう一度。
しばらく周囲をきょろきょろと見回したあと、こちらを見上げてくる。
その小さな瞳が「チーズは?」と訴えてくるようで、僕は思わず目を逸らした。
「よし、うまくいったぞ!」
エイン君が弾んだ声を上げる。
「見ただろフレッド。セカンドがボタンを押してる。【精神伝播】っていうのは、術をかけられた者同士で思考を共有できる魔法なんだ。つまり、アルノンが覚えた『ボタンを押すとチーズが出る』っていう知識が、セカンドにそのまま伝わったってことだ」
彼は満足そうにうなずくと、今度はセカンド経由で“感染”させたサードとショートでも同様の実験を行った。
案の定、両方とも同じ反応を見せる。思考の共有が、まさに感染するように次々と伝播していく様子が、手に取るように分かった。
「実験大成功だな! 感染型精神魔法の基礎術式、これで実証完了だ!」
そう言う彼の声は、興奮で少し上ずっていた。
「これは革命だぞ。いまのを応用すれば、|【忘却】でも【精神支配】でも、精神魔法なら何でも“感染”させられるってことだからな」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
革命どころの話じゃない。もしそんなものが人間に使われたら、世界そのものが静かに狂っていく。
「だけど……肝心の使い手が俺しかいないってのは、もったいないよなぁ。しかもネズミにしか使えないし」
エイン君はしばらく思案顔で天井を見上げていたが、やがて何かを思いついたように手を打った。
「そうだ、フレッド! かなり難しい魔法だけど、お前なら人間用の方も──」
「い、忙しいからやめとく!!」
即答した。即答せざるを得なかった。
勘弁してくれ。僕まで危険人物にはなりたくない。
◆
実験が完了すると、エイン君は満足そうにケージへと歩み寄った。
「さて、みんなご苦労だったな。もう帰っていいぞ」
そう言って、アルノンたちを窓の外へ逃がそうとする。
思わず、僕は彼の腕を掴んでいた。
「待ってよ、エイン君! そんなことしたら……野生のマウスにも感染しちゃうかもしれないだろ!」
必死に制止する僕に、彼は首を傾げる。
「いやいや、感染といっても“病気”になるわけじゃないぞ。さっきの実験を見てただろ? 【精神伝播】がマウスにかかっても、別に害はないし、問題ない」
「でも……そのまま外に出しちゃまずいような気がするんだ……」
僕にも、何が危険なのかはっきりとは分からない。ただ、胸の奥で何かが警鐘を鳴らしている。
エイン君はしばらく僕の顔を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……じゃあ、どうしろって言うんだ? まさか、処分しろって言うのか?」
言葉に詰まった。
エイン君は、ケージの中の白いマウスたちへ視線を落とす。
「何の罪もないマウスを、実験が終わったからって殺すなんて。可哀想じゃないか」
その瞳には、人間相手には決して見せない、純粋で静かな慈愛の光が宿っていた。
言い返そうとして、言葉が喉につかえる。
視線を落とすと、ケージの中の一匹──アルノンと名付けられた個体と目が合った。つぶらな瞳が、じっとこちらを見上げている。
さっきまでチーズに夢中だったその顔が、今はどこか、「これから、どうなるの?」とでも問いかけてくるようで、またしても言葉が出てこなかった。
確かに、彼らに罪はない。
むしろ、エイン君の研究に協力してくれた貢献者と言えるのかもしれない。
それは頭では分かっている。
けれど、なぜか、どうしても素直に頷くことができなかった。
だが、反論する理由も言葉も見つからない。
結局、僕は彼を止めきれなかった。
数匹のマウスが窓から夕暮れの野原へと旅立っていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
小さな白い影が、草むらに消えていく。
「ねえ、念のために聞くけど」
胸騒ぎが収まらず、僕は尋ねる。
「人間に感染したりは……しないよね?」
「ああ、大丈夫だよ。あれはネズミ用の精神魔法だから。人間には感染しない」
エイン君はあっさりと言ったあと、ふと思い出したように「あ」と声を漏らした。
「そういえば、感染を繰り返すうちに、魔法が変質する可能性もあったな。……それも調べておけばよかったかも」
その横顔を見ながら、僕は猛烈に、本当に猛烈に、嫌な予感がした。
◆
──数週間後、王立生物学研究所にて
「おかしい……この地域一帯のネズミに、妙な変化が見られる」
白衣の生物学者ヴィンセントは、机に山積みされた報告書を睨みつけながら、低く唸った。
それは、単なる個体の異常ではない。報告書には、まるでテンプレートでもあるかのように、各地で確認された“同一の異常”が並んでいた。
「ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミ……本来なら種が違えば、行動様式も縄張りもバラバラなはずだ。それなのに、なぜか敵対せず、共同で動いているという」
隣の机で作業していた同僚が顔を上げる。
「それ、何かの病気にでもかかったんじゃ……?」
「だが、既知の疾患とは症状がまったく違う。体に異常はないのに、行動パターンだけが劇的に変化している」
ヴィンセントは報告書から目を上げた。
「そもそも種を超えて連携している時点で……新種の病気だとしても、生態学的には完全にありえない」
彼は椅子を引いて立ち上がると、ゆっくり窓際へと歩み寄った。
夕焼けに染まる野原の向こうで、小さな黒い影の集団が、ぴたりと足並みを揃えて進んでいく。
耳の形も、体格も、微妙に違う。確かに別種だ。それなのに彼らは、まるで訓練された部隊のように完璧な隊列を組み、一直線に前進していた。
「……一体、何が起きているんだ?」
◆
──さらに数日後、王都近郊の牧場にて
「へい、お待ちどう! またチーズかい? 最近、やけに注文が増えてるんだよなぁ」
酪農家のガレスは、客に巨大なチーズの塊を手渡しながら陽気に笑った。
午前中だというのに、これで今日何人目だろう。最近になって、チーズの注文が妙に増え始めた。しかも、それが連日途切れることなく続いている。
「商売繁盛は嬉しいんだが……なんで急にこうなった?」
客の後ろ姿を見送りながら、ガレスは首をかしげる。理由は分からない。
だが、確かに売上は倍以上に跳ね上がっていた。
客が去った後、彼は作業台に残っていたチーズの塊を手に取る。
いつものように品質を確認するだけのつもりだった。
だが、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった瞬間、胃袋がぐるりと鳴った。
(……いけねぇ、まただ)
最近、自分が作ったチーズを見るたび、どうしようもなく腹が減る。
理性では分かっている。さっき昼飯を済ませたばかりだ。それなのに、どうしようもない食欲が、腹の底からこみ上げてくる。
「おっと──」
思考が食欲に支配された、その一瞬。
手が滑り、チーズが床に落ちた。
ガレスは反射的に、四つん這いになって拾いにいく。
それは、人よりも獣に近い動きだった。




