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16-x コモンエリクサー小論文

「ありがとうございました、リーフ先生!」


 小さな声が診療所に響いた。


 包帯を巻いた手を大事そうに抱えた少年が、深々と頭を下げる。


「気をつけて帰りなさい。また痛くなったら、すぐに来るんですよ」


 リーフは穏やかに微笑みながら、少年の頭を優しく撫でた。


 もう六十を過ぎた老人だが、その手は今でも確かだった。


 この界隈では信頼の厚い治療師として知られており、料金も安く、腕もいい。彼の診療所には、今日も朝から庶民の患者が絶えなかった。


 午前の診療を終えたリーフは、「一時休診」の札を掲げると、通りで馬車を拾った。


「王都の中心部までお願いします」


 石畳を走る馬車の中、リーフは窓の外を眺めていた。


 今日は、若手治療師たちの情報交換会がある。新しい治療法や薬草の知識を共有する、小さいながらも意義深い集まりだった。


 やがて王都の中心部に差しかかった頃、前方から言い争う声が聞こえてきた。


「だから! 学会員でもないし、事前の参加申し込みもしてないのに、入れるわけないでしょう!」


「だから! 今参加を申し込むからって言ってるのに!」


「だから! 無茶言わないでください!」


 リーフは馬車を降りると、騒ぎの方へ歩いていった。


 立派な建物の入り口には、「王立学会」の看板が掛かっている。その前で、一人の少年が警備員と揉めているようだった。


「どうしたのかね?」


 声をかけると、少年がこちらを振り返った。


「いやね、学会に参加したいんですけど、この人が入れてくれないんですよ」


 警備員は困り果てた顔で釈明する。


「この方は学会員でもなければ、事前登録もありません。そういう方を通すわけには……」


「せっかく論文も持ってきたのに」


 ふてくされたように呟く少年に、リーフは興味深そうに眉を上げた。


「ほう、若いのに論文とは感心だ。どんな内容かな?」


「回復魔法についてです。本当は精神魔法の論文が良かったんだけど、友人が発表するならこれにしろってしつこいから……」


 その答えに、リーフの目がわずかに輝いた。


「それならちょうどいい。これから町の治療師たちの集まりがあるんだが、そこで発表してみてはどうかね?」


 少年は少し考えてから、こくんと頷いた。


「お蔵入りするのももったいないし……お願いします」


 ──


 リーフが集合場所の診療所に到着すると、すでに情報交換会は始まっていた。


「聖教国に行ったついでに、【神癒】(エクスヒール)の術式を教えてもらおうとしたんだが、やっぱりダメだった……。完全に門外不出らしい」


「独占しておいて、高い金を取って──何が人を救うだ!」


「我々だけでも、できることを積み上げていくしかないな……」


「そうは言っても、最近は魔力量が落ちてきてのう。もう患者を診きれなくなってしもうた……」


 治療師たちの間に、不満と嘆きが入り混じる。


 それは、静かな絶望のようにも聞こえた。


 その沈んだ空気を破るように、扉の音がした。


「遅かったじゃないか、リーフ」


 顔見知りの治療師が声をかけると、リーフは苦笑いを浮かべた。


「すまんな。それより、新しい仲間を連れてきた」


 そう言って、少年を前に押し出す。


 周囲がざわめいた。


「誰だ、その子どもは?」


「こんなに若いのに医療に興味があって、論文まで書いたそうだ」


「いや、興味があるのは医療じゃなくて魔法なんですけど……」


 少年が小声で訂正すると、治療師たちは半信半疑の表情を浮かべた。


「まあいい。とにかく、その論文を見せてもらおうか」


 こうして、少年の発表が始まった。


 テーマは『部位欠損修復の効率化』。


 最初は話半分で聞いていた治療師たちだったが、発表が進むにつれ、その表情は驚愕へと変わっていく。


「まず患者の体液から万能細胞を生成して──」


 リーフの顔色が変わった。


 そんな理論、聞いたこともない。


「生贄の代わりに、欠損部位と同じ重量の有機物を用意して──」


 会場に緊張が走る。


「細胞分裂を誘発して修復を──」


 治療師たちの目が、異様な輝きを帯びていく。


「普通の回復魔法でも、この方法なら魔力消費を──」


 長年積み重ねられてきた研究が、この若者のたった一つの論文によって、根底からひっくり返されようとしていた。


 発表が終わる頃には、会場は熱狂の渦に包まれていた。


「素晴らしい!」


「これは革命だ!」


「今すぐ広めなければ!」


 治療師たちは、目の色を変えて少年に詰め寄る。


「君には、ぜひ我々と一緒に働いてもらいたい!」


「この技術で、聖教の連中を見返してやろう!」


「君こそが、新時代の救世主だ!」


 その異様な熱気に、少年は純粋な恐怖を覚えた。


 まるで、偶然通りがかっただけの自分が、新興宗教の教祖にでも担ぎ上げられたかのようだった。


「ひっ……!」


 少年は論文をリーフに押しつけた。


「あ、あんたらで勝手にやってろ!」


 そのまま、脱兎のごとく走り出す。


「どこへ行くんだ!」


「待ってくれー!」


「名前を教えてくれ!」


 治療師たちの叫びが背後から飛んできたが、少年は振り返らなかった。


 リーフは呆然と立ち尽くしていた。


 手に残された論文を見つめながら、この日起きたことの重大さを、ようやく理解し始めていた。


 ──この日、若き無名の魔術師によってもたらされた小さな発表が、後に聖教の既得権益を根底から揺るがし、王国はおろか周辺諸国の医療体制に大混乱を巻き起こすことになるのだが、その時の彼は知る由もなかった。

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