16-3
夜更けの校長室。
ギルバートは、机の上に広がった報告書の束を睨みつけていた。
夕方に起きた爆発騒ぎと訓練場の損傷によって、学内は一時騒然となった。その事後処理に追われ、夜も更けたというのに、彼はいまだ机に縛りつけられている。
そこへ──ノックすらなく、校長室の扉が勢いよく開かれた。
無言のまま入ってきたのは、一人の男子生徒だった。
「……たしか、お前は……?」
ギルバートが訝しげに目を細める。
「マーカスです。エイン先生の助手をしています」
マーカスは感情の読めない声で答えると、抱えていた論文の束をギルバートの机に無造作に置いた。
「ご指定の論文を書き上げましたので、お持ちしました」
ギルバートは半信半疑のまま束を手に取り、表紙に目を落とす。
そして、眉をひそめた。
『使用済み魔石に魔力を戻せ! 何が始まるんです? 第三次エネルギー革命だ!』
しばしの沈黙。
ギルバートは、戸惑い混じりに口を開いた。
「……これは本当にエインが書いたのか?」
ふざけたタイトルに顔をしかめながら尋ねると、マーカスは真面目な顔で即答した。
「いえ、執筆は私が行いました。ただしタイトルは、エイン先生のご指示通りに修正しています」
それだけ告げると、マーカスは何も言わずに踵を返した。
音もなく扉が閉まり、校長室には再び静寂が戻る。
ギルバートは苦々しい表情のまま、論文のページをめくった。
だが、数行読み進めたところで、その表情がゆっくりと変わっていく。
「……魔石内部の結晶構造に、半永久的な魔力吸収機能を付与……?」
思わず声に出して読み上げる。
目が見開かれ、次のページへ、さらに次のページへと指が止まらず進んでいく。
読み進めるほどに、その瞳は輝きを増していった。
「……素晴らしい!」
声が震える。先ほどまでの疲労など、一瞬で吹き飛んでいた。
「このような方法があったとは!」
何百年もの間、無数の研究者が挑み、ことごとく挫折してきた領域に、ついに光明が差した。
これは間違いなく、魔法史を塗り替える画期的な理論だ。
(……これさえあれば、王立学会での私の地位は揺るがない!)
ギルバートは、胸の奥で歓喜の声を上げた。
エインという男は、たしかに問題児だ。常識も礼儀もなく、扱いを誤れば何をしでかすか分からない。
だが、この天才ぶりは紛れもなく本物だった。
しかも彼は、常識をあざ笑うかのように、次元の違う成果をやすやすと出してみせる。
(ふふ……近く開催される学会が楽しみだ)
ギルバートは、論文を大切そうに胸に抱いた。
これで校長としての地位は盤石だ。もう誰にも文句は言わせない。
いや──歴史に名を刻む日すら、そう遠くはあるまい。
◆
ある日の放課後、お茶会の部屋で、セレナは一人、静かに紅茶を淹れていた。
いつものように茶葉を選び、お湯の温度を調整し、甘さ控えめの焼き菓子を並べる。
誰も来ないと分かっていても、手は自然と動いてしまう。
エインがこの部屋に滞在していたのは、ほんの短い間だった。
けれどその後も、何度か料理を出す機会はあった。そのたびに、彼は残さず食べてくれた。
だからこそ、分からなかった。
なぜ、来てくれないのか。
先週も、今週も、彼の姿はなかった。
用事があるのか。忙しいのか。それとも──自分が何かしてしまったのか。
ティーカップを持つ指先が、わずかに震える。
胸の奥に、小さな針が刺さるような痛みが広がった。
──もう、どうでもよくなってしまったのかもしれない。
そんなはずはないと思いながらも、心のどこかで、そう囁く声が消えてくれない。
「イレーネ」
セレナは、ダメ元で声をかけた。
「エイン様が、どこにいるか知っていますか?」
その瞬間、イレーネがぴくりと反応した。
明らかに、何かを知っている反応だった。
「あ」
セレナの目がきらりと光る。
長年一緒にいる侍女の表情を、見間違えるはずがない。
「知っているのね!」
「……いえ、特には」
イレーネの歯切れは悪く、視線もどこか泳いでいた。
セレナは、その様子に既視感を覚える。
何かを隠している。そう感じるには十分だった。
(やっぱり……何か、知っている)
胸の奥に灯った不安が、少しずつ熱を帯びていく。
「イレーネ、お願い……言ってちょうだい。わたくし、本当に、心配で……」
それでも、イレーネは答えない。
セレナの焦りは、次第に切実な焦燥へと変わっていった。
「イレーネ、答えなさい。これは王女としての──」
言いかけて、セレナは思わず口をつぐんだ。
その言葉を口にした瞬間、何かが変わってしまう気がした。
イレーネは、ただ静かにセレナを見つめている。
「……ごめんなさい」
セレナの声がかすれた。
「あなたは、わたくしの部下じゃなくて、大切なお友達なのに……命令なんて、しようとして……」
命令しようとしたときの、胸がきゅっと締めつけられるような感触がまだ残っている。
どんなに立場が違っても、心まで従わせたいわけではなかった。
「言いたくないなら、もういいの。自分で探すから……」
彼女が背を向けかけた、その瞬間。
不意に、小さく息を呑む気配がした。
振り返ると、イレーネは俯いたまま、唇を僅かに噛みしめていた。
ぎゅっと手を握りしめ、言葉を絞り出すように沈黙を抱えている。
「……おそらく、研究棟にいるはずです」
顔を上げぬまま、イレーネはぽつりとつぶやいた。
「“借り物”をしにきたときに、たしかそう言っておりました……」
その声は、観念したように淡々としていた。
けれど、どこか寂しげでもあった。
セレナを案じる気持ちと、その想いを理解してしまう複雑さが、声の端々に滲んでいる。
◆
イレーネの言葉を頼りに、セレナは研究棟の奥へと足を進めた。
やがて、目的の扉の前に立つ。
扉に嵌め込まれた小さな窓から中を覗くと、そこには──エインと、見知らぬ少女の姿があった。
整った制服に身を包み、どこか気品を感じさせる佇まい。
二人は並んで資料のようなものを覗き込みながら、ごく自然に言葉を交わしていた。
まるで以前から親しかったかのような空気が、静かに漂っている。
(……あの方、誰なのかしら)
セレナの胸が、きゅっと締めつけられた。
棘のようなざわめきが、胸の奥に広がっていく。
エインが、自分の知らない少女と親しげに言葉を交わしている。
ただそれだけのことで、理由のない不安が胸をかすめた。
黒い感情がぐるぐると渦を巻き、焦りとなって胸の内側を焦がしていく。
「イレーネ! イレーネ!」
衝動的に虚空へ呼びかけると、イレーネが幻影のように現れた。
その表情には、隠しきれないうんざりとした気配が漂っている。
「……何ですか、今度は」
声にも、明らかな疲れが滲んでいた。
「今、中にいた女子生徒……誰ですか!? 今すぐ答えて!」
セレナの詰問に、イレーネは深くため息をついた。
その目には、ほんのりと呆れが滲んでいる。さっきの謝罪は一体なんだったのか、とでも言いたげだった。
「……アメリア・ラングフォードです。たしか、Eクラスに所属していたはずです」
「Eクラス……?」
その響きが、セレナの中で恐ろしい妄想を呼び起こした。
エインが副担任をしていたクラス。
ということは、教師と生徒として出会って──。
(まさか……わたくしの知らないうちに、お心を通わせて……)
顔が一気に紅潮し、心臓がどくんと跳ねる。
理性が、急速に蒸発していった。
「殿下、落ち着いてください」
「落ち着いてなんていられません!」
頭の中が真っ白になる。
セレナは扉を勢いよく開け放ち、呆気に取られるアメリアの腕を掴むと、問答無用で廊下へと引きずり出した。
「え?」
研究室から、エインの困惑した声が漏れる。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」
アメリアの抗議も、セレナには聞こえていなかった。
頭の中は、嫉妬と混乱でいっぱいだった。
「あなた! エイン様と二人きりで、何をしていたの!?」
廊下に引きずり出されたアメリアは、思わず目を丸くする。
物静かな王女が、まさかここまで取り乱すとは思っていなかったのだろう。
「え、えーっと……回復魔法の実験で、今は下腹部の──」
「実験!? 下腹部!?」
セレナの脳内で、その単語が一気に暴走した。
下腹部。
しかも、二人きりで行う“実験”。
(ま、まさか……身体を使った、あんなことやこんなことを……!?)
顔が真っ赤になり、耳まで熱くなる。
「ま、待ってください。それは……どのような実験なのですか?」
「え? だから回復魔法よ。体液を媒介にした術式で、直接触れながら──」
「た、体液!? 触れながら!?」
セレナの思考は完全にショートした。
「そ、そんな破廉恥なことを……! わたくしがいるのに……!」
涙目で呟くセレナを見て、アメリアはようやく事情を察した。
この王女は、よりにもよってエインに惚れているらしい。
そして、見事なまでに勘違いしている。
盛大なため息とともに、アメリアは言い放った。
「……じゃあ、あなたが代わりにやりなさいよ。私は帰るから」
そう言い捨てると、彼女は足早に立ち去った。
あとは知らない。
◆
一方、研究室では、一瞬だけ現れてアメリアを連れ去ったセレナの姿を思い返しながら、エインが実験道具を整理していた。
その手つきはいつも通りだったが、時折、扉の方へ視線を向けている。
しばらくして、扉がそっと開いた。
「その……アメリアさんから、実験を引き継ぎました……」
セレナがそろそろと姿を現すと、エインの口元が少しだけ緩む。
「あ、そうなんだ。じゃあお願いするね」
あまりにあっさりとした反応に、セレナは拍子抜けしつつも、胸の前で小さく拳を握った。
(つ、ついにエイン様と“実験”……! 覚悟を決めなくては……!)
「じゃあ合図したら、こいつに回復魔法をかけてくれ。術式はこれだ」
エインが指差した先を見て──彼女の思考が止まった。
そこにいたのは、ちょこんと座った、手のひらサイズの白い実験用マウスだった。
「…………え?」
次の瞬間、自分の壮大な誤解に気づき、セレナは石のように固まった。
顔は真っ赤だった。
(わ、わたくし……いったい何を想像していたの……!?)
「これな、部位欠損修復の実験でさ。今は下腹部の臓器の再生を──」
羞恥心で煮えたぎるセレナをよそに、エインは何も気づかないまま、淡々と説明を続けていた。
「あたらしい論文、いっぱい書けましたよー」
あくる夜、エインは研究室で書き上げた論文の束を抱え、のんびりと校長室を訪れた。
ノックもせずに扉を開ける。
しかし、部屋の中は空だった。
「あ、いないや。じゃあ、机に置いといてやるか」
机の上には、大きな茶封筒が置かれていた。
その隣にある卓上カレンダーを何気なく覗き込むと、明日の欄に「王立学会発表」と大きく書かれている。
「へぇ、明日学会があるのか。面白そうだなー」
エインは封筒を手に取り、中の論文を取り出した。
『使用済み魔石の半永久的再利用を可能にする充填魔法陣の理論と実践』
「この前の論文か……タイトル、勝手に変えちゃってるし。センスないなぁ」
彼は不満げに呟くと、懐から自分の論文を取り出し、封筒の中身とすり替えた。
「発表するなら、こっちのほうが絶対ウケるだろ。いやー、いいことしたなぁ」
満足げに頷くと、エインは何の罪悪感もなく校長室を後にする。
その脳裏には、明日の学会でギルバートが喝采を浴びる姿が浮かんでいた。
そんな軽い気持ちのまま、彼はまた研究室へと戻っていった。
◆
王立学会の大講堂は、国中から集まった魔術師や貴族たちで埋め尽くされていた。
年に数度開催されるこの学会は、魔法界最高峰の知識が披露される場である。今日もまた、参加者たちは新たな理論や技術の発表に期待を寄せ、壇上へ熱い視線を向けていた。
ハーゲン教授による【強固固着】の発表が終わると、会場からそれなりの拍手が起こった。
壇上から降りてくるハーゲンの表情は、久しぶりの成功に得意げである。
その時、すれ違いざまにギルバートが声をかけた。
「素晴らしい発表でしたな、ハーゲン君。まあ、私のものほどではありませんがね」
わざとらしい賞賛を含んだその一言で、ハーゲンの笑みは一瞬にして怒りへと変わった。
ギルバートの傲慢さは今に始まったことではない。だが、だからといって腹が立たないわけではなかった。
一方のギルバートは、ハーゲンの反応など気にも留めず、余裕綽々の態度で壇上へと歩を進める。
聴衆の期待に満ちた視線を浴びながら、彼は自信に満ちた声で口を開いた。
「皆様。本日、私が発表致しますのは、魔法界の常識を根底から覆す、革命的な新技術でございます」
会場がざわめく。
大げさな前置きに、聴衆の期待はさらに高まった。
「それでは、私の研究成果をご覧いただきましょう」
ギルバートは自信満々に封筒から論文を取り出し、壇上の映写用魔道具にセットした。
魔法陣が淡く光り、スクリーンに論文の表紙が拡大投影される。
『衝撃!【啓導の光輪】は光るだけの魔法じゃなかった!? 隠された術式を徹底解説!』
◆
その日の夕方、魔法学校の掲示板には、一枚の張り紙が静かに掲示された。
【通達】
前校長 ギルバート・モーリスは、刑事事件により身柄を拘束されたことを受け、職務規定に基づき、本日付で懲戒解雇といたします。
また、教員エインは、一定期間にわたり授業および校務への参加が確認されなかったため、同じく職務規定に基づき、同日付で解雇処分といたします。
王立魔法学校 校長 レオナルド・グリムフォード




