14-2
昨日の地獄授業から一夜明けた一年Eクラスは、信じられないほど静かだった。
黒板の前では、担任のリリィ・ミストがこわばった手でチョークを握っている。
「え、えっと……エルディス王朝の第二次継承戦争ですが……」
いつもなら私語や居眠りが絶えない時間だ。だが今日は、針の落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返っていた。生徒たちは教科書を開き、背筋を伸ばし、前を向いている。
理由は明白だった。
教室の後方に立つエインの存在が、全員を緊張で縛りつけていたのだ。
エインは腕を組み、露骨に退屈そうな顔で授業を眺めている。時折、小さくため息をついたり、壁に寄りかかったりと、明らかに時間を持て余していた。
リリィにとって、それでも救いではあった。
(怖いけど……でも、今日もこのまま普通に授業ができるかもしれない……)
そんな淡い期待を胸に、彼女は授業を続ける。
──が。
「リリィ先生、すみません」
教室の後方から、エインの声が響いた。
「ちょっと授業、代わってもらっていいですか」
唐突すぎる申し出に、教室の空気がぴしりと凍る。リリィは反射的に振り返った。
「え、え? でも、エイン先生……今は歴史の授業中で……」
恐る恐る異議を唱えるが、エインは意に介した様子もなく、淡々と口を開く。
「……さっきふと思ったんです。今、このタイミングで基礎からやり直すべきじゃないかって」
表情だけは急に真剣になり、いかにも教育者らしい熱意を込めて続けた。
「歴史も大事ですが、それは後回しにできます。今の生徒たちに本当に必要なのは、魔法の扱い方です。先生も見てたでしょう、昨日の実技を。みんな基礎ができていない。このままでは、彼らの将来に関わります」
エインは一歩前に出て、教室全体を見渡す。
「教師として、今すぐ手を打たなければなりません」
教壇の前に立つリリィは、完全に面食らった顔でエインを見上げた。だが、妙に堂々としたその物言いに押されるように、やがておずおずと頷く。
「わ、分かりました……」
「ありがとうございます、リリィ先生」
エインは満足げにそう言うと、当然のように教壇へ向かった。
「それでは皆さん、今日から新しいカリキュラムを始めます。といっても、ちょっとした魔法のコツを教えるだけなので、それほど時間はかけませんが……」
そう言いながら、黒板に複雑な図式を描き始める。
「えー、ではまず【火球】、もとい火魔法の最適化された詠唱方法をお教えします。重要なのは、魔力から熱への変換効率です。これを最適化するためには、熱力学──つまり、エネルギー保存と変換の基礎から理解する必要がありまして……」
生徒たちはぽかんと顔を見合わせた。
「ねつ……りき?」
「全然わからない……」
エインの言葉は、あまりにも聞き慣れない概念に満ちていて、誰一人ついていけない。
「……分からないのか」
エインは振り返り、心底面倒くさそうにため息をついた。
「仕方ない。助手を呼んでくる」
そう言い残すと、再び教室を飛び出していく。そして数分後──
「ちょっとエイン君!? 今、授業中なんだけど!?」
「こっちも授業中なんだよ、いいから手伝ってくれ!」
「僕の勉強の邪魔しないでよ!」
「人に教えるのも勉強のうちって言うだろ! ハーゲンの授業受けるよりよっぽどマシだ!」
「貴様! ワシを侮辱する気か!」
息を切らしたフレッドが、エインに引きずられるようにして教室へ現れた。
生徒たちが驚く中、エインは淡々と宣言する。
「こちら、助手のフレッドです」
「フレッド、こないだ教えた【火球】の撃ち方、こいつらにも分かるように説明してくれ」
「あぁ、熱力学がどうとかってやつね……」
困惑しながらも、フレッドは生徒たちに向き直った。
「えっと……つまり、【火球】を作る時に、魔力をもっと効率よく熱に変える方法があるってことです。今までは魔力の半分くらいが無駄になってたんですが──」
「火種を生成することで自然に燃えるようにして──」
「炎そのものじゃなくて、着火をイメージすることで──」
フレッドの分かりやすい解説に、生徒たちの目がみるみる輝き始める。
「おお、それならなんとなく……」
「やってみよう!」
複数人の生徒が【火球】を試すと、確かに昨日よりもはるかに性能が上がっていた。
「すげぇ! 本当に強くなってる!」
「魔力効率もいいし、制御もしやすい!」
「これなら、魔力切れしにくいかも……!」
教室が一気に明るくなる。
「「フレッド先生! ありがとうございます!」」
「おい! 最初に教えたのは俺だろうが!」
エインの抗議に、フレッドは苦笑いを浮かべるしかない。教室には笑いが起こり、空気が一気に和んだ。
「じゃあ僕は戻るからね。自分の授業もあるし」
フレッドは軽く手を振って教室を出ていく。
エインは唇を尖らせ、手柄を持っていかれた鬱憤を晴らすように生徒たちを見回した。その目が、一人だけ浮かない顔をしているアメリアに止まる。
「えーっと……」
教卓の出席簿をちらりと見て、エインが呟く。
「アメリア。昨日の訓練で使ってた魔法、なんだっけ?」
突然名指しされ、アメリアは嫌な予感を押し殺しながらも毅然と答えた。
「【紅蓮槍】よ。それがどうかしたの?」
「そう、それだ。【紅蓮槍】、あれはいい魔法だよ。でもちょっと効率が悪いから──改良版をみんなにも教えてあげようと思ってさ」
「……は?」
その一言で、アメリアの表情が固まる。エインの何気ない口調が、ゆっくりと胸の奥を冷やしていった。
「待ちなさい!」
反射的に立ち上がり、アメリアの声が教室に響く。怒りというより、防衛本能に近い拒絶の声だった。
「【紅蓮槍】は、ラングフォード家のみに伝わる秘伝の魔法よ。四百年の歴史を背負う、我が家の誇り……それを、部外者のあなたが知っているはずがない!」
声には自信が込められていた──ように見えたが、その指先はかすかに震えていた。
(あれは私だけのもの……私にしか使えないはず……)
だが、昨日の実技を思い出す。あの男は、一目で【紅蓮槍】を理解し、修正してみせた。その光景が胸の奥でざわめいた。
エインは首をかしげる。
「え、でも昨日ちょっと見ただけで、大体わかったよ。こんな感じでしょ? 炎を圧縮して貫通力を高めるって発想、面白いよねぇ」
あまりにも軽い口調に、アメリアの心臓が跳ねた。嫌な予感が、確信へと変わっていく。
エインはためらいもなく、黒板にチョークを走らせ始めた。
描かれていく図形を目にした瞬間──アメリアの表情が凍りつく。
黒板に現れたのは、紛れもない【紅蓮槍】の術式だった。ラングフォード家の人間しか知り得ない、門外不出の構造が、完璧に再現されている。
「なっ……なっ……!?」
声が出ない。アメリアは強張った手で胸元を押さえた。鼓動が早鐘のように鳴り、視界が揺らぐ。
教室にざわめきが広がっていく。
「すげぇ……一回見ただけで完璧に再現できるなんて……」
「ラングフォード家の門外不出の魔法って言ってたのに……」
「アメリアじゃなくても使えるんだ……」
その最後の声が、胸を鋭く突いた。
一方、術式を描き終えたエインは、「門外不出」という言葉に首をかしげていた。
「え、門外不出? わざわざ隠してたの? こういうのはもっと広めた方がいいんじゃない? 魔法技術はオープンソース化して、みんなで発展させるべきだろ」
アメリアは一瞬、息を呑む。
「あなた……あなたは何も分かっていない!」
叫んだその声は、怒りというより悲鳴に近かった。
「それは……それだけは……!」
何を奪われようとしているのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、心の奥底で何かが必死に悲鳴を上げていた。
やがて、アメリアは震える声で訴える。
「勝手に……勝手に我が家の秘伝を晒すなんて……! あなたには、そんな権利はない!」
エインは特に気にした様子もなく答えた。
「じゃあいいよ。元々、改良版を教えるつもりだったから」
そう言うと、黒板の術式の一部をさっと消し、さらに複雑な構造を書き加えていく。
「はい、】【紅蓮槍】あらため【超紅蓮槍】です。これなら別物だから、問題ないよね?」
アメリアは息を呑んだ。
それは明らかに【紅蓮槍】の上位互換だった。炎の圧縮率を高める補助術式、魔力消費を削減する効率化回路、そして貫通力を倍増させる収束機構。家に伝わる術式にはない革新的な改良が、随所に施されている。
(嘘……これほどまでに……)
これまでの努力が一気に脳裏をよぎる。何度も練習し、誇りを背負って磨き上げてきた【紅蓮槍】。それが、今や素人の真似事にすら見えてしまう。
これこそが【紅蓮槍】の真の姿なのではないか。いや、それすら凌駕した、魔法の理想形なのではないか。
心の中で矛盾する想いが激しく渦巻く。魔法を愛する自分は、あの完璧な術式を学びたいと叫んでいる。だが、ラングフォード家の娘としての誇りが、それを認めるなと突き返していた。
反論したい。
でも、黒板の術式があまりにも完璧すぎて、何も言えない。
欲しい。学びたい。けれど──
エインは満足げに頷くと、クラス全体に向き直った。
「よし、お前ら。今日中にこの魔法をマスターしてもらうからな」
どよめく教室。担任のリリィが慌てて口を挟む。
「えっと、エイン先生! 【紅蓮槍】は……上級魔法です! 一年生には、さすがに……」
「あ、そっか。確かに難しいかもですね」
エインは素直に頷くと、黒板消しを手に取った。
完璧な魔法陣が、何の躊躇もなく拭われていく。
完璧な構造が、崩れていく。
「あっ」
アメリアの口から、無意識に声が漏れた。
その瞬間、彼女の心に深い亀裂が走る。
内なる声が激しく叫んでいる。だが、何も言えない。あれを欲しがることは、家の伝統を否定することになるからだ。
やがて黒板から術式は完全に消え去った。
家の秘伝は守られた。なのに、胸が締めつけられるように苦しい。相反する感情が激しくぶつかり合い、アメリアの心は引き裂かれそうだった。
そんな彼女の葛藤をよそに、トムがエインに近づく。
「エイン先生、本当にすごいですね! なんでも知ってて!」
「まあな」
「それにしても、その腕輪かっこいいですね」
「お、お前にもわかるか? でもこれはハーゲンの野郎が──」
しばらくして、授業終了を告げる鐘が鳴り響いた。
エインは黒板を振り返り、満足そうに頷く。
「よし。座学はこれで終わり。午後の実技では、今朝教えた効率化を試してもらう」
生徒たちはフレッドの授業を思い出しながら、明るい表情で教室を出ていった。だが、アメリアだけは机に突っ伏したまま動けなかった。
黒板から消された【超紅蓮槍】の構造が、残像のように脳裏に焼きついている。家に代々伝わる【紅蓮槍】など、あの術式の前では子供の落書きのようだった。
(私が誇りに思っていたものは……いったい何だったの……?)
ラングフォード家四百年の歴史。それは確かに重い。だが、エインがあっさり描いた術式は、その重厚な伝統を軽々と凌駕してしまった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。




