13-1 ワースト・ティーチャー 苦悶式教育エージェント
エイン君が警備員に引きずられていった、あの日の夕暮れ。
あの時の彼の姿が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった。
翌日、僕は彼の安否を確かめるために奔走していた。だが、その試みはことごとく空回りに終わる。
職員棟の教師たちは皆、険しい顔で何かを議論しており、「採用試験」だの「前代未聞だ」だの、断片的な言葉ばかりが耳に入ってきた。僕が声をかけても、「今はそれどころではない」と手一杯の様子で、誰もまともに相手をしてくれない。
セレナ殿下のもとを訪ねても、代わりに応対したイレーネさんから返ってきたのは、氷のように冷たい一言だけだった。
「エイン様はご無事です。それ以上はお答えできかねます」
ご無事です──その言葉だけが、僕の焦りをかろうじて押し留めた。
けれど、無事ならどうして会えないんだ?
翌日の昼下がり、僕はもう一度面会を申し入れた。
やはり現れたのはイレーネさんだった。能面のような表情のまま軽く会釈をする彼女からは、何ひとつ感情が読み取れない。
「お願いします、イレーネさん! 彼が本当に無事なのか、この目で確かめさせてください!」
僕が必死に食い下がると、彼女は僕の顔をじっと見つめた。
やがて一つ、深いため息を吐く。諦めたようにも、あるいは何かを決めたようにも見える間を置いて、静かに口を開いた。
「……こちらへ」
案内された先で、僕はお茶会の部屋の前に立っていた。
緊張で喉がからからに乾く。
イレーネさんが静かに扉を開ける。
僕は息を呑み、そっと中を覗き込んだ。
──目に飛び込んできたのは、実に呑気な「授業風景」だった。
甘いお茶の香りが漂う部屋の中央で、エイン君がやけに真剣な顔で魔法の術式について語っている。
「【隠形看破】の術式は、第三構造が肝で──」
講義を受けるセレナ殿下は、ペンを持つ手を胸元でそっと組み、頬を淡く染めながら彼の横顔を見上げていた。
僕には、彼女の瞳が魔法陣ではなく、それを語る彼だけに向けられているように見えた。
「……あのー、ちゃんと聞いてる? そっちが教えてほしいって言ったから、“教師として”教えてるんだけど……」
「はっ!? あ、あの、はい! も、もちろん聞いておりますとも! だ、第三構造が……ええと……」
しどろもどろになるセレナ殿下を見て、エイン君は不思議そうに首をかしげた。
彼女の様子がどこかおかしいことには気づいているようだったが、その理由までは分かっていないらしい。
二人の間には、授業とは別の空気が漂い始めていた。
そんな空気を断ち切るように、隣でイレーネさんが、わざとらしく「コホン」と咳払いをした。
その音に、二人が同時にハッとしてこちらを振り向く。
「もう、イレーネ! 寮で待機しているようにと言ったはずでは……!」
セレナ殿下は邪魔をされた不満を口にしかけ、そこでイレーネさんの背後にいる僕に気づいた。
「あ……フレッドさん」
「フレッド!」
エイン君は僕を見つけるなり、ぱっと表情を緩めた。
屈託のない笑みが浮かぶ。空中に浮いていた魔法陣も、彼の集中が切れたようにすっと霧散した。
「来てくれたんだな! 王女様から、昨日は忙しくて会えないって聞いてたけど、もう大丈夫なのか?」
「え……?」
忙しい……?
何のことだろう、と僕が戸惑っていると、セレナ殿下が小さく息を呑み、肩をびくりと震わせた。
顔を赤くしたまま、僕とエイン君のあいだで視線を落ち着きなく行き来させている。
「そ、そうですの! フレッドさんは昨日、その……大変お忙しいと伺って! ですから、わたくしが代わりにエイン様のお側に……!」
必死に取り繕おうとするその様子を見て、僕はようやく状況を理解し始めた。
(セレナ殿下……まさか……)
王女という立場も忘れ、一人の少女として必死になっている彼女を見ていると、胸が痛んだ。
よりにもよって、あのエイン君に。
これ以上恥をかかせるべきじゃない。
そう判断して、僕はすぐに助け舟を出した。
「あ、うん、そうなんだ。彼女の言う通りで……ちょっと用事が立て込んでたんだけど、もう大丈夫だから。ごめん、心配かけちゃったかな、エイン君」
僕がそう言って穏やかに微笑むと、セレナ殿下は「はうぅ……」と胸を撫で下ろした。
その安堵しきった表情は、まるで溺れかけたところを助けられた人のようだった。
イレーネさんも、ちらりと僕に目配せを寄越す。
その目には、わずかながら「助かった」という色が浮かんでいた。
僕は気を取り直し、今いちばん聞きたいことを口にする。
「それよりエイン君! 戻ってきているとは聞いたけど……これは、一体どういう状況なんだい?」
けれど、その問いはエイン君の楽しげな声に遮られた。
「フレッド。呼び方が違うな」
「……は?」
首をかしげる僕を見て、エイン君はいたずらっぽく人差し指を立てる。
「今日からは、“エイン先生”と呼びなさい」
「せ、先生……!?」
あまりにも場違いな言葉に、理解が追いつかない。頭が真っ白になる。
そんな僕の混乱を面白がるように、エイン君は満足げに笑った。
「実は俺、この学校の教師になったんだ」
「教師……!?」
驚きの声は、僕とほぼ同時にセレナ殿下の口からも上がった。
言葉の意味がうまく頭に入ってこない。
あのエイン君が、教師に……?
セレナ殿下も目を丸くしていたが、やがてその意味するところを理解したらしい。
エイン君が学校にいられる。その事実が、彼女の中で確かな安堵へと変わっていく。
そして次の瞬間、その表情は花が咲くような笑みに変わった。
心の底から喜んでいるのが、はっきりと分かった。
「……でも、よかったですわ……! どんな形であれ、またこうして学校に戻ってきてくださって……本当に、嬉しいです……」
感極まったのか、その声は少し潤んでいた。
「エイン様の魔法知識は素晴らしいので、きっと良い先生になられますわ」
上品に微笑むその顔には、一点の曇りもない。
エイン君は「そうかなぁ」と照れたように笑った。
彼女の純粋な信頼を、素直に嬉しく思っているのが伝わってくる。
そんな微笑ましい光景を前にしながら、僕だけは氷のような予感に支配されていた。
二人のあいだには穏やかな空気が流れているのに、胸の奥では警鐘が鳴り響いている。
(……彼の授業を受ける生徒たちが、気の毒でならない)
◆
朝のホームルーム開始を告げる鐘が鳴るまで、あと数分。
王立魔法学校、一年Eクラスの教室は、一日の始まりとは思えないほど、どこか弛緩した空気に満ちていた。
ほとんどの生徒は椅子に浅く腰かけ、授業の準備をするでもなく、窓の外を眺めたり、どうでもいい世間話を続けたりしている。
「昨日の魔法理論の課題、やった?」
「やってないよ。面倒だし……」
「ねえ聞いた? ベイル殿下の噂」
「聞いた聞いた、あんな事があったなんてね」
そんな能天気な会話が続く中、一人だけ机に向かい、教科書を開いている少女がいた。
だが、周囲の騒がしさにとうとう耐えかねたのか、彼女は勢いよく顔を上げる。
「あなたたち、もうすぐホームルームが始まるわよ。少しは静かにできないの?」
声を上げたのは、真っ赤な髪を揺れるツインテールに結い、意志の強そうな瞳が印象的な少女──アメリア・ラングフォード。魔術の名門ラングフォード家の長女である。
しかし、周囲の反応は鈍かった。
何人かがちらりと彼女を見たものの、うんざりした顔を浮かべただけで、すぐにおしゃべりへ戻っていく。
「はいはい、優等生のお説教ね」
「アメリア、そんなに頑張ってもEクラスはEクラスだよ」
「上のクラスと違って、ここは気楽でいいじゃん」
投げやりな言葉を浴びせられ、アメリアは唇を強く噛みしめた。
侮蔑と焦りを滲ませた瞳でクラスメイトたちを見回しながら、無意識に拳を握り込む。
その苛立ちの矛先は、自然とこの状況を放置している担任教師へ向かった。
「リリィ先生! あなたも担任なのですから、もっとしゃんとしてください!」
新任教師のリリィ・ミストは、その声に「ひゃいっ!?」と肩を跳ねさせた。
だが彼女はクラスを注意するどころか、なぜか教室の扉のほうをじっと見つめ、小刻みに震えている。
顔は真っ青で、まるで死刑を待つ囚人のような表情だった。
(……いつも以上におかしいわね、先生)
そう感じたのはアメリアだけではなかった。
他の生徒たちも担任の異様な様子に気づき、不思議そうに顔を見合わせる。
その、まさにその時だった。
教室の外、廊下のほうから、ひどく騒がしい声が聞こえてきた。
「エイン君、お願いだから早く! もうチャイムが鳴っちゃう!」
「やだ。よく考えたら、もう教師やる必要なくない?」
「はぁ!? あるに決まってるでしょ! 昨日採用されたばっかりなんだよ!」
「だって教師になったのって、住む場所と飯に困ってたからだろ?」
「それは昨日も聞いたよ! それで何!?」
「でも寮に戻れるようになったし、内職はできないけど給料は入る。つまり、もう教師やる意味ない」
「そういう問題じゃない! 教師になったならちゃんと仕事して!」
「別に教師になるとは言ったけど、教師の仕事をするとは言ってないだろ」
「いやいやいや、それ誰も納得しないよ!?」
「俺は納得してる」
「はぁ……もういい! 強制連行! 【防壁牢獄】!」
「うおっ!? いつの間にそんな魔法を……って、その名前! 嫌味かよ!?」
異様なやり取りに、Eクラスの生徒たちは何事かと一斉に扉へ視線を向けた。
その直後、教室の扉が勢いよくスパンッと開かれる。
そして次の瞬間、半透明の魔力でできた四角い檻に閉じ込められたままの少年──エインが、文字通り室内へと放り込まれた。
ガラガラと音を立てて床を滑り、そのまま教室の真ん中で止まる。
それと同時に、ホームルーム開始を告げる鐘の音が学校中に響き渡った。
「うわ、僕も遅刻しちゃう!」
扉の外からそんな慌てた声が聞こえたかと思うと、すぐに足音が遠ざかっていく。
教室には、檻に入れられたままのエインと、何が起きたのか理解できず呆然と固まる生徒たちだけが残された。
やがて、魔力の檻が淡い光とともに霧散する。
エインは軽く頭を振ると、檻にぶつけた肩を押さえながら立ち上がった。
床を滑った衝撃で少し痛んだのか、一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにいつもの無表情へ戻る。
制服についた埃を払い、教室をひと渡り見回すと、にこりともせずに言った。
「というわけで、今日からよろしく」
シン、と教室が静まり返った。
生徒も、担任のリリィも、誰ひとり声を発することができない。
その異常なまでの静寂を破ったのは、アメリアの絶叫だった。
「なんなのよ、アンタ……ッ!!」
だが、すでに鳴り終えた鐘の余韻だけが、彼女の怒りを虚しく吸い込んでいく。
再び静まり返った空気を破ったのは、エインの足音だった。
カツン、と一歩踏み出すと、彼はアメリアを一瞥もせず、教壇の隅で怯えるリリィへ向き直る。
「さて、リリィ先生。ホームルーム、始めないと」
「あ、は、はい……!」
「じゃあ、まず俺の紹介からお願いします」
リリィはおっかなびっくり頷くと、震える声でかろうじて言葉を紡いだ。
「え、ええと、皆さん……こ、こちらが、本日よりEクラスの副担任になられた、エイン先生です……」
たったそれだけの紹介に、アメリアが再び声を荒らげる。
「先生! 紹介ってそれだけですか!? それより、なぜこんな人が教師に──!」
「ちょっとうるさいな」
エインは心底面倒くさそうに、その声の主を振り返った。
「今、リリィ先生がお話ししてるでしょ。静かにしようね」
淡々とそう告げると、間髪入れずにアメリアへ向けて軽く指を弾く。
「【消音】」
「──ッ!! ──、──!!」
アメリアの口は先ほどまでと同じように激しく動き、その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
だが、彼女の声だけが、完全に世界から消え失せていた。
音もなく必死に何かを叫ぶ少女の姿。
そのあまりにシュールな光景に、クラスメイトたちはもはや笑うことすらできず、ただ絶句していた。
リリィは目の前の惨状から逃げるように、慌ててホームルームを進行させる。
「え、えっと……出席を取ります……」
点呼が進み、何人かの名前が呼ばれた、その時だった。
順調に進んでいた点呼が、ある名前で止まる。
「──トム・ヘイルズ君」
返事はない。
近くの席の生徒が、おそるおそる手を挙げた。
「あ、あの……先生。トム、多分、またサボりです」
その報告に、リリィの思考は真っ白になった。
「え、ええっ!? ま、またですか……」
か細い声が、うわずって震える。
彼女はどうしていいか分からず、ただ狼狽えたように視線を彷徨わせた。
助けを求められる相手などいないのに、必死に教室中を見回す。
──そして、不運にもその視線は教室の隅にいたエインと合ってしまった。
視線が交わったのは、ほんの一瞬。
しかし、エインは小さく、深いため息を一つ漏らすと、静かに立ち上がった。
「……はぁ。分かりました。俺が連れてきますよ。教師って大変な仕事なんですね」
それだけ言い残し、リリィの制止も聞かずに教室を飛び出していく。
残された教室では、声の出ないアメリアが必死に何かを訴え、リリィが半泣きになりながら点呼を続けるという、ひどく混沌とした時間が流れた。
そして、数分後。
教室の扉が、再び勢いよく開かれる。
そこに立っていたのは、一人の男子生徒の首根っこを掴んだまま仁王立ちするエインだった。
「連れてきました」
連れてこられたのは、授業をサボってばかりいたトムだった。
だが今の彼は、昨日までの不真面目な男とはまるで別人だった。
背筋をぴんと伸ばし、瞳をきらきらと輝かせている。
エインはそんなトムを席に座らせると、その肩をぽんと叩いて言った。
「いいね、トム君。今日一日は真面目に授業を受けるように」
「はいッ! 先生! この身が朽ち果てるまで、勉学に励みますッ!!」
模範的な騎士のような態度で、トムは異常なほど元気よく返事をした。
その豹変ぶりに、生徒たちは戦慄する。
普段のトムを知る友人は「あいつ、本当にトムか?」と疑念を隠せず、女子生徒の何人かは恐怖で身を寄せ合った。
エインはそんな彼らの様子など気にも留めず、教室の隅に座る別の生徒へ声をかける。
「あ、そうだ。マーカス君」
突然名前を呼ばれ、マーカスの肩がびくりと跳ねた。
「スパイ活動で忙しいかもしれないけど、トム君が授業で分からない所があったら、ちゃんと教えてあげてね」
「はいッ! 先生! 誠心誠意、サポートさせていただきますッ!!」
マーカスもまた、トムと寸分違わぬ完璧な姿勢と、過剰なまでのやる気で返事をした。
優等生二人による、完璧すぎるコールアンドレスポンス。
それを見せつけられた生徒たちは、もはや言葉を失い、息が詰まるような恐怖を覚えていた。
最後にエインは、恐怖に静まり返ったクラス全体を見渡し、にっこりと、天使のように優しい笑みを浮かべた。
「──ギルバート校長から、このクラスは“問題”があると聞いています。皆も、これからは二人みたいに真面目に授業を受けようね」
その言葉は、どこまでも優しかった。
だが、その場にいた全員の耳には、悪魔の囁きのように聞こえていた。
誰もが悟ったのだ。
この教師に逆らえば、自分たちも“ああなる”のだと。
こうして一年Eクラスの生徒たちは、その日、午前中の座学を、入学して初めて一言も私語を交わすことなく、完璧に受けることになったのだった。




