25-2
報告が届いたのは、夜だった。
帝国宮城の一角にある小会議室には、昼間とは違う緊張が満ちていた。
窓の外には篝火が増やされ、廊下にも松明が並んでいる。けれど、明かりが増えたところで、不安が消えるわけではない。
誰が王国の目なのか分からない。
誰の身体が、次の瞬間、刃になるのか分からない。
皇帝を守るために兵を増やせば、その中に支配された者が混じる危険も増える。かといって、兵を減らせば、何かが起きた時に守りきれない。
帝国中枢は、味方の数さえ疑わなければならない状況に追い込まれていた。
皇帝は椅子に座っていた。
小さな身体に厚手の外套を羽織り、膝の上で両手を握っている。時折、刃を突きつけられていた喉元へ触れては、そこに残る冷たい感触を思い出したように肩を震わせていた。
ヴォルフは、その前に立っている。
部屋に残している護衛は最小限。
しかも、ヴォルフ自身が選んだ直属の兵だけだった。
そこへ、慌ただしい足音が近づいてくる。
「失礼します!」
扉を開けて入ってきたのは、ヴォルフ直属の兵だった。
夜道を急いできたのだろう。鎧には土埃がつき、額には汗が浮かんでいる。
ヴォルフの眉が動いた。
「報告しろ」
「はっ! 護送中のエイン、およびフレッドが逃走しました!」
小会議室の空気が凍った。
皇帝が椅子から半分立ち上がる。
「逃げた!? いつじゃ!?」
「およそ半刻前です。夜警の隙をついて逃走した模様で、こちらには伝言だけが残されております」
ヴォルフの声が低くなる。
「伝言だと?」
「はい」
兵士は一瞬、言いづらそうに口を引き結んだ。
「『寄り道したら戻る』と」
沈黙が落ちた。
皇帝が目を見開く。
「よ、寄り道……? 寄り道とは何じゃ!? この状況で寄り道とは何なのじゃ!? あやつら、自分たちが国家存亡級の荷物だという自覚がないのか!?」
皇帝は半泣きだったが、ヴォルフは報告官から目を逸らさなかった。
「二人はどこへ向かった」
「鉱山方面です」
その言葉に、ヴォルフの目が細くなる。
「鉱山!? なぜ鉱山なのじゃ!? あやつら、何をするつもりなのじゃ!?」
皇帝はそこで、さらに顔色を悪くした。
「いや、それ以前に、護送中に逃げられた時点でまずいではないか! もし王国側に知られれば、帝国が要求を拒んだと見なされるぞ! また宮廷魔道士が爆発するかもしれぬのじゃ!」
焦りが隠せない皇帝に対し、ヴォルフは首を横に振った。
「王国側に露見している可能性は低いでしょう」
「なぜ言い切れるのじゃ!」
「護送兵と報告官は、私の直属です。全員、平民上がりの兵を選びました」
「平民上がり……?」
「王国の支配は、対抗戦関係者、またはその血筋を中心に届いています。確実ではありませんが、貴族社会や魔法の才から遠い者ほど、支配されている危険は低い」
皇帝は唇を噛んだ。
「つまり、妾の周りにいる者ほど危ないということではないか!」
「はい」
「はい、ではないのじゃ! お前も信用できないではないか!」
皇帝は頭を抱えた。
ヴォルフは淡々と続ける。
「私自身は平民出身です。絶対とは言いませんが、他の側近たちよりは支配されている可能性が低いでしょう」
皇帝はヴォルフを見上げた。
「……なら、お主が一番安全ということか」
「少なくとも、私自身はそう判断しています」
「自分で言うと少し怖いのじゃ」
「疑い始めれば、誰も動けません」
ヴォルフの声は硬かった。
「エイン護送は、国家存亡級の最重要課題です。逃走が国王に露見すれば、王国は帝国が要求を拒んだと判断するかもしれない。かといって、正規軍を大きく動かせば、その中に支配された者が紛れ込む危険があります」
「では、どうするのじゃ」
「私が行きます」
皇帝の顔が強張った。
「お主がか?」
「はい。少人数で追跡します。私と同じく、平民出身の者たちで編成します」
「しかし、お主がここを離れたら……」
「ここに残っても、全ては守れません」
ヴォルフは短く言った。
「今は、あの二人が鉱山で何をするつもりなのか確認する必要があります。放置すれば、王国だけでなく帝国にとっても取り返しがつかない事態になりかねません」
皇帝は小さく震えた。
部屋の外には近衛がいる。
宮城には兵もいる。
だが、今の皇帝にとって、それらは安心材料ではなかった。
誰が操られているか分からない。
誰が自分に刃を向けるか分からない。
ならば、最も信用できる者のそばにいるしかない。
「妾も行く」
「なりません」
ヴォルフは即座に答えた。
「危険です」
「ここに残る方が危険なのじゃ!」
皇帝は椅子から立ち上がった。
背は低い。
声も震えている。
だが、その目だけはヴォルフから逸れていなかった。
「妾の周りには、信用できる者がいない。側近も、宮廷魔道士も、近衛も、誰が操られているか分からぬ。お主が一番信用できる。なら、妾はお主のそばにいる」
「陛下」
「それだけではない」
皇帝は、外套の前を小さな手で握りしめた。
「エインが何をするつもりなのかで、帝国が戦火に包まれるかどうかが決まる。王国に従うのか、抗うのか、見逃すのか、止めるのか。その判断を、お主一人に背負わせるわけにはいかぬ」
涙はまだ残っていた。
それでも、皇帝は目を逸らさなかった。
「妾は皇帝じゃ。怖くても、見るべきものは見なければならぬ」
ヴォルフはしばらく皇帝を見ていた。
やがて、短く息を吐く。
「分かりました。ただし、私の指示に従っていただきます」
「うむ!」
「勝手に叫ばない。勝手に走らない。勝手に泣かない」
「最後のは約束できぬ!」
「努力してください」
「努力はするのじゃ!」
ヴォルフは直属の兵に最低限の護衛を選ばせた。
人数は少ない。
皇帝は小さな身体に外套を被せられ、馬車ではなく軍用の小型馬車に乗せられた。豪奢さはない。乗り心地も悪い。それでも、今は目立たないことが最優先だった。
宮城を出た時、夜はまだ深かった。
篝火の明かりが遠ざかり、帝都の外れを抜ける頃には、空の端にわずかな白みが差し始めていた。
誰も余計な口を開かなかった。
道中、ヴォルフは何度も部下に斥候を出した。大きな街道は避け、鉱山へ向かう脇道を選ぶ。軍旗も掲げない。皇帝の馬車であることを示す装飾も、すべて外させていた。
朝日が昇る頃、一行は一度だけ馬を替えた。
皇帝は揺れる馬車の中で何度も眠りかけ、そのたびに自分の額を膝にぶつけて目を覚ました。
「うう……皇帝の移動とは、もっとふかふかの座席で行うものではないのか……」
「今は皇帝の移動ではなく、逃亡者の追跡です」
「妾、皇帝なのに……」
昼が近づくにつれ、山の稜線がはっきり見え始めた。
鉱山はもう遠くない。
正午に差しかかる頃、一行は鉱山へ続く街道に入った。
◆
鉱山へ続く道には、土埃が立ちこめていた。
最初に見えたのは、人の群れだった。
「何じゃ、あれは……」
皇帝が馬車の中から身を乗り出す。
昼の光の下、鉱山から続く平原には、混乱した人の流れが広がっていた。労働者たちの手足に枷はない。すでに外されている。だが、自由になった喜びよりも、何が起きているのか分からない困惑の方が強いようだった。
ヴォルフはすぐに、彼らの格好に気づいた。
「鉱山労働者です」
「労働者?」
「正確には、鉱山奴隷。罪や借金により働かされている者たちでしょう」
ヴォルフは馬車を止めさせた。
人垣の外側で、責任者らしき男が立ち尽くしている。
怒鳴っているわけではない。
労働者たちを連れ戻そうとしているわけでもない。
ただ、外された枷と、平原に広がる労働者たちと、静まり返った坑道を順番に見て、呆然としていた。
ヴォルフが近づくと、男ははっとして振り返った。
「しょ、将軍閣下……!?」
「状況を説明しろ」
「それが、その……」
責任者が言葉を濁した、その時だった。
平原の向こうから、二人の少年が歩いてくる。
鉱山から直接出てきたのではない。すでに坑道からは距離を取り、労働者たちの流れから少し外れた位置を、こちらへ向かっていた。
エインとフレッドだった。
エインは両手に奇妙な魔道具を持っている。片方は金属板と水晶を無理やり組み合わせたような形で、もう片方は筒状の部品が取り付けられていた。
ヴォルフは責任者から視線を外し、二人へ向き直る。
「エイン。フレッド」
「あ、ちょっと待って」
エインは、それだけ言って手元の魔道具へ視線を戻した。
怒鳴られる前に逃げるつもりもなければ、慌てて言い訳をするつもりもないらしい。その態度は、逃亡犯というより、作業中に声をかけられた職人に近かった。
ヴォルフは足を止めた。
今すぐ拘束すべきか。
問い詰めるべきか。
それとも、何をしているのか見極めるべきか。
一瞬の判断のあいだにも、エインとフレッドは準備を進めていた。
エインは地面に片方の魔道具を置く。
「こっちが受信機だよね」
「そうだ。頼むぞ」
フレッドは短く息を吸った。
皇帝が、ヴォルフの後ろで小さく身を固くする。
ヴォルフは黙って二人を見ていた。
事情を聞くより先に、何かが始まる。
そう判断したからだった。
フレッドは、地面に置かれた魔道具へ手を向ける。
「【転送】」
受信機、と呼ばれた魔道具が淡い光に包まれる。
次の瞬間、それは地面の上から消えた。




