23-6
「……世の中?」
思わず聞き返した。
「フレッド、田舎のネズミと都会のネズミって話、知ってるか?」
「……急に何の話?」
「知ってるか?」
「まあ、なんとなくは」
田舎のネズミが都会へ行く話だ。
都会には美味しいものがある。けれど危険も多い。結局、田舎のネズミは、豪華でも危ない都会より、質素でも安心できる田舎を選ぶ。
「俺は田舎のネズミが好き」
エイン君は、妙に納得した顔で頷いた。
「村にいた時は、飯食って、寝て、母さんが困ってなければそれでよかった。たまに税金とか役人とか面倒なのは来たけど、まあ、どうにかなったし」
「今、聞き流していいのか分からない言葉が混じってたけど」
「でも、こっちは違うだろ」
エイン君は、試合場を見回した。
「飯食ってたら死刑になるし、教師になったら変な陰謀に巻き込まれるし、お出かけしたら戦争になりかけるし、帰ってきても友達と戦わされる」
「でも、俺だけじゃない。みんな何かしらで動かされてる。立場とか、面子とか、国とか」
言い方は雑だった。
でも、言いたいことは分からなくもない。
「そして俺が気づいたことは、都会はクソということです」
エイン君は、それを全部まとめて都会と呼んでいる。
「だから田舎のネズミが好き」
その言葉に、少しだけ胸が重くなった。
エイン君は、ここに来たくて来たわけではない。
無理やり村から連れ出されて、学校に入れられて、何度も面倒事に巻き込まれてきた。
だから、もう嫌になったのかもしれない。
安心できる場所に、戻りたくなったのかもしれない。
「まさか……村に帰るつもりなの?」
「なんで?」
エイン君は、不思議そうに首を傾げた。
「都会は都会で、田舎じゃ手に入らないものが山ほどあった。美味い茶も菓子も、研究室も、お前みたいな友達も、全部こっちに来てから知ったんだよ」
その言い方が少し意外で、僕は黙ってしまった。
帰りたいわけではない。
逃げたいわけでもない。
エイン君は、ここで手に入れたものをちゃんと数えていた。
「だから、田舎のネズミは好きだけど、俺はそのネズミとは違う。帰れないし、帰る気もない」
「……うん」
「でも」
エイン君の声が、少し変わった。
「田舎のネズミは帰れる。でも、都会に生まれたネズミは、帰る田舎がない」
それは、エイン君らしくないくらい寂しい言い方だった。
「フレッドも、セレナも、学校の連中も、王都の連中も、みんなそうだろ。そいつらは、ずっと都会で嫌な思いをして、我慢し続けないといけないのか?」
「……我慢?」
「だってそうだろ。みんな、自分のやりたいことを我慢してる。立場があるから。面子があるから。人に迷惑をかけないために」
それは、間違ってはいない。
社会で生きるなら、折り合いをつける必要がある。僕はそれを当たり前だと思っていた。
でも、エイン君はそうではないらしい。
「俺も分かったよ。外の世界で好き勝手やったら、自分や身内にも返ってくる。だから行動は変える。痛めつける必要がないなら痛めつけないし、面倒でもやるべきことはやる」
「うん。それでいいんだよ」
「でも、それだけだと根本的に解決してない」
「エイン君。何の話をしてるの?」
「社会」
「……社会?」
「みんなが我慢しないと動かないなんて、欠陥システムだろ。だったら、争わなくても済むように作り直せばいい」
「作り直すって、何を」
「だから、社会を」
背筋が冷えた。
エイン君は反省している。
少なくとも、彼なりに考えている。
ただ、その考えが向かっている先は、僕の想像とはまるで違っていた。
「待って。争いをなくすなんて、そんな簡単なことじゃない。人にはそれぞれ考えがあるし、立場もある。一人でどうにかできる話じゃ──」
「だから、そこなんだよ」
エイン君が、僕の言葉を遮った。
その目が、少しだけ輝いている。
新しい魔法を思いついた時の顔だった。
「みんな、それぞれ考えがあるから争うんだろ。だったら、争いが起きない仕組みにすればいい。そういう仕組みを、俺も最初は一人では無理だと思った」
「……思った?」
「でも、よく考えたら、俺には同志がいたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが止まった。
エイン君は、「同志」と言った。
誰かを指している。この言葉には、もう相手がいる。
僕が聞く前に、エイン君は観客席の方へ目を向けた。
「ちゃんと準備してた人間がいるんだよ、もともと。俺が来る前から、もうずっと計画を進めてた人間が」
「……誰なの」
嫌な予感が、形を持ち始めた。
エイン君は、少し間を置いてから言った。
「国王だよ」
◆
「……国王?」
フレッドが聞き返すより早く、エインは歩き出していた。
向かう先は、観客席だった。
「ちょっ、エイン君!?」
フレッドも慌てて後を追う。
試合場から観客席へ続く通路には、まだ対抗戦の余熱が残っていた。周囲の生徒たちは、決勝が両者戦闘不能の引き分けに終わったことで騒然としている。
そのざわめきの中を、エインは迷いなく進んでいく。
「待って。何をするつもりなの」
「対抗戦は終わった。俺のやるべきことは、ちゃんとやり終えた」
「それで?」
「だから次に進む。楽しみにしておけ、フレッド」
エインは足を止めなかった。
王族専用の観覧区画の手前には、近衛兵が二名立っていた。エインが近づくと、彼らは無言で前へ出て、通路を塞ぐ。
「止まれ。ここから先へは通せない」
「大事な用があるんだよ! 話をさせてくれ!」
「ならん」
「国王!」
止められたまま、エインは声を張った。
近衛兵の肩越しに、その声が観覧席へ届く。
エルディス王国の国王、ハロルド・エルディスは、特別席の中央に座っていた。王冠の下の髪まで隙なく整え、王族の礼服をまとった姿には、年齢相応の威厳がある。隣には宰相が控えており、周囲だけが対抗戦の観客席というより、謁見の間に近い空気を帯びていた。
その空気の中へ、エインの声が遠慮なく割り込む。
「俺も計画に加えてくれ!」
国王の眉が、わずかに動いた。
「……計画?」
「【啓導の光輪】を使った計画だよ! 支配の術式を仕込んでいたのもあなたでしょう!」
【啓導の光輪】。
その名前を聞いて、フレッドは入学式の日を思い出した。
新入生が魔法陣に魔力を流し込み、天井に学校の紋章を浮かび上がらせる、王立魔法学校の伝統儀式。魔法を学ぶ者としての誓いだとか、祝福だとか、そういう意味があると説明されていた。
今日も、三年生の優勝者が対抗戦の後の式典で行うと聞いていた。
ただの、光るだけの魔法を。
少なくとも、フレッドはそう思っていた。
だが、あの日、エインはその魔法陣を勝手にいじった。魔力不足をごまかすために術式を改造し、結果として儀式を台無しにした。
その時は、ただの問題行動だと思っていた。
だが今、エインは言った。
支配の術式、と。
空気が変わった。
国王の表情は、大きくは動かなかった。
「お前は何を言っている? 【啓導の光輪】は、王家に伝わる伝統的な儀式魔法だ。支配術式など、存在するはずがないであろう」
国王の声には、まだ威厳があった。
だが、完全な妄言として切り捨てるには、反応が強すぎた。
エインは特に驚いた様子もなく、話を続ける。
「俺、入学式の時にあの魔法陣を解析したんですよ。最初は魔力を食うだけの邪魔な術式だと思ってたんですが、よく考えたら、あれが本体だったんです」
声が、少しだけ弾んだ。
フレッドはその調子に聞き覚えがあった。
研究室で新しい魔法を思いついた時の声だった。
「古いし、雑だし、無駄も多い。でも発想はすごい。人間が争うなら、争わないように上から止めればいい。個人の善意や我慢に任せるより、ずっと確実で、安全で、優しい方法だ」
優しい。
エインは、本気でそう言っていた。
「……存在しない、と言っている」
「だから協力させてください。俺には技術があります。あなたが持っている発想を、もっと上手く実現できる」
周囲がざわつき始めた。
対抗戦の余韻が収まり、王族観覧区画の異変に気づいた生徒たちが、少しずつ視線を向ける。教師たちも動きを止め、帝国、聖教国、共和国の関係者たちも顔を上げた。
国王は、近衛兵へ視線を向けた。
「この者を下がらせろ」
近衛兵が動くより早く、エインは言った。
「もう取り繕う必要はありません! 【啓導の光輪】の支配術式は、既に王国の外へ、全人類へ届くところまで広がっています!」
沈黙が落ちた。
国王も、宰相も、近衛兵も、すぐには動かなかった。
「……どういうことだ」
国王の声から、威圧が少しだけ消えていた。
否定ではない。
問い返しだった。
エインは頷いた。
「【啓導の光輪】は大きな術式です。でも、全人類を掌握するには規模が小さすぎる。だから、対抗戦を使うつもりだったんでしょう」
「……」
「帝国、聖教国、共和国。国外の代表や関係者を招いて、国際交流とか儀式とか、そういう名目で【啓導の光輪】に触れさせる。そうすれば、王国の外へも少しずつ支配術式を広げられる」
エインの声だけが、妙にはっきり響いていた。
「でも、それでは遅すぎる。代表になったり、式典に参加できる一部の人間にしか届かない。それじゃ、争いのない社会を作るには不十分だ」
フレッドは、エインの口調を聞きながら、嫌な予感が形になっていくのを感じていた。
その口調は、ただの推測を語るものではなかった。
エインは、もう何かをしている。
「だから俺が改良しました」
エインは言った。
「簡単に言うと、支配術式を感染するようにした」
感染。
その言葉だけで、フレッドの喉が詰まった。
白いネズミ。静まり返った学校。自分の意思を失った生徒たち。
あの時の光景が、頭の奥で一気に蘇る。
「エイン君」
声が、思ったより低く出た。
「君、何をしたの」
「だから、【啓導の光輪】の改善だよ。支配術式が、他人にも感染するようにしたの。再発動もしなきゃいけないから、【啓導の光輪】の規模を、学校全体を覆うくらいまで拡張して、魔力消費も抑えて、俺でも起動できるように調整した。メチャクチャ大変だったんだからな」
フレッドは、ここ数日エインの姿が見えなかった理由を理解した。
気まずくて避けていたのではない。
仲直りの言葉を探していたのでもない。
エインはその間ずっと、学校中に支配術式を仕込んでいた。
「作業は昨日の夜遅くまでかかったけど、ちゃんと終わった。昨日のうちに、改良版【啓導の光輪】は起動済みだ」
「起動……済み……?」
「そう。学校にいた全員には、もう【啓導の光輪】による支配が行われている。感染性も高めにしたから、計算上はもう全人類に広がってるはずだ」
国王席の周囲が騒然となった。
誰かが立ち上がる音がした。近衛兵が一歩前へ出る。教師たちも、ようやく異変に気づいたようにこちらを見た。
それでも、フレッドには遠く聞こえた。
全人類。
支配術式。
感染。
起動済み。
冗談では済まない。
対抗戦どころではない。
王立魔法学校だけではなく、王国、帝国、聖教国、共和国。ここにいる人間だけではなく、世界そのものに関わる話だった。
「エイン君」
フレッドは、エインに詰め寄った。
「本当なのか」
「本当だよ」
「ふざけてないよね」
「ふざけてない」
エインは真顔だった。
悪びれた様子はない。
エインが、確かに変わろうとしていたことは分かる。
だが、その変化の先は、ここまで来てしまっていた。
エインは国王へ向き直る。
「だから、もう隠さなくていいですよ。俺たちは同じ目的を持つ同志なんだから」
「黙れ!」
国王の怒声が響いた。
「これ以上、一言でも──」
「意外とシャイなんですね」
「……何?」
「言い出しづらいんでしょう? 理想の社会を作る計画なんて、急に言っても頭おかしいのかと思われますからね」
「貴様……!」
「だったら、俺が後押ししてやりますよ」
フレッドは、エインが何かをしようとしているのに気づいた。
「それにしても、あの時ホテルで仕込んどいてよかったよ本当」
止める間もなかった。
『王様の耳はロバの耳! 王様の髪は偽の髪!』
その瞬間、国王の髪が、淡く光った。
「国王よ、己が隠していた秘密を語るがいい!」




