第三話
茜は知っているのだろうか。訊くことはできなかった。せっかく元気になったのだ。それに彼女が犯人と決まったわけではない。薬は出て来なかったと言ってたじゃないか。きっと誤解に違いない。自分にそう言い聞かせても、胸に残った小さな不信感を消し去ることは出来なかった。
「おはようございます」
珍しく二人の休みが合った土曜日の朝、玄関に迎えに出た聡司を見て、スミレは慌てて頭を下げた。
「今泉さんもお休みなんですね。そうか、土曜日でしたね。お邪魔したら悪いでしょうか」
どうしましょう、と言うように茜を見る。
「そうねえ」
茜は少し考える素振りを見せ、思いついたようにポンと手を叩いた。
「三人で植物園に行きましょう」
スミレの眼が輝いた。嬉しそうに口角を上げ、ふと聡司を見て目を伏せる。
「いえ、デートの邪魔しちゃ申し訳ないから、やっぱり今日は帰ります」
脱ぎかけた靴を履き直すスミレをぼんやり見ていた聡司は、茜の強い視線を感じて慌てて声を掛けた。
「遠慮しなくていいから、一緒に行こう。人数が多い方が楽しいし」
スミレは聡司と茜の顔を交互に見て、はにかんだような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。じゃあ、お弁当作りますね」
薄紫のパーカーを脱ぎ、スミレは鞄からエプロンを取り出した。
夏の盛りの植物園は暑かったが、色とりどりの花が咲き乱れ、とても美しかった。芝生にシートを広げ弁当を食べながら、こういうのも悪くないなと聡司は思った。
「観覧車が見えますね」
スミレが空を見上げた。植物園の隣には小さな遊園地が併設されており、観覧車の他にジェットコースターの線路も見えた。
「隣でエッシャー展もやってるみたい」
入り口で貰ったパンフレットを広げ、茜は聡司に顔を向けた。
「あなた好きよね。行ってみましょう」
絵の展示会場は小さなものだったが、やはりエッシャーは素晴らしかった。
「水の流れを見てごらん。高いところから低いところへ流れる筈なのに水路に沿って行くといつの間にか上に戻っている。部分部分では違和感が全く無いにも関わらず全体では力学を無視した流れになっているんだ。不思議だろう」
初めて見るというスミレに説明しながら、聡司は彼女を観察した。二十五歳という年齢にも関わらず雰囲気が幼い。妹というより娘のような気さえする。目を輝かせて聡司の説明に聞き入っている姿は、とても可愛らしく思えた。
だまし絵展の出口にビックリハウスがあった。中に入ると床が傾斜しており、その床に垂直に柱や家具が配置されている。三人とも真っ直ぐ歩くことも出来ず、カーペットの上に転倒した。床は地面に平行だとの思い込みが脳を混乱させ、大した傾斜でないにも関わらず、あっちへふらふら、こっちへふらふら、身体が持って行かれる。茜が声を立てて笑った。床にへたり込んでしまったスミレの手を取って起こしてやりながら、聡司はおかしな噂を信じかけた自分を恥じた。
茜が笑っている。一抹の翳りもない笑顔だ。こんな日がずっと続いて欲しい。その為には努力は惜しまない。外野の声など無視すればいい。俺が守りたいのはこの笑顔だ。聡司は勢いよくジャンプしてソファの背もたれにぶら下がった。




