第二話
「家政婦紹介所への依頼は取りやめようと思うの」
一週間ほど経ったある日の午後、茜は突然そう言い出した。
「どうして?」
流産の後の体調不良と精神的な問題から聡司は休職を進めたが、茜は応じなかった。看護師は茜のライフワークである。生きがいとプライド、それを奪うのかと言われ、聡司は言葉を返すことが出来なかった。妥協策として家事の負担を減らそうということになり、聡司が家事を担うという案を出したが、茜は「出来ないでしょ」と一笑に付した。確かに残業の多い聡司は今まで家のことはすべて茜に任せていた。口だけの宣言をしたところで結局は茜に負担が行くことは目に見えている。少し贅沢だと思われたが、家政婦を雇うことで落ち着いた筈だった。
「君の負担を減らす為だろう。何故今になって」
「違うの」
聡司の言葉を遮って、茜は笑みを浮かべた。
「スミレちゃんに来てもらおうと思って」
薄紫のパーカーを着た姿が脳裏によみがえる。
「彼女ね、5月にお母さまを亡くされて一人になったんですって。定職にはついていなくて、アルバイトで食いつないでるって言ってた」
「それは気の毒に」
何と返していいのか分からなくて、聡司はそう言った。
「それでね。先日電話で、週に何回か家事の手伝いに来てもらえないか聞いてみたら快諾してくれて。ね、いいでしょ」
ねだるように茜は言った。確かに彼女と話しているときの茜は楽しそうだった。スミレに来てもらうことで症状の改善が期待できるのなら、聡司に止める理由はなかった。
「でも彼女、家事はできるの?」
ついそう言った聡司に「失礼でしょ」と言って茜は笑った。
スミレは週に二回ほど、茜が家にいる時間に来ているようだった。気を遣わずに話ができる相手が欲しかっただけかと思ったが、意外にもスミレの家事能力はかなりのもので、わずかな業務時間内に家中をピカピカにし、一週間分の食事のストックが、いつも冷凍室に常備されるようになった。毎日の食器洗いだけは聡司が担っていたが、それ以外はすべてスミレが片づけてしまうため、茜は仕事に専念できるようになった。無駄な出費も減り、給料を払っても十分元が取れたように思えた。聡司も毎日、栄養バランスの整った弁当を持たせてもらい、きつかったズボンのベルトが緩くなった。
「今日スミレちゃんがね」
夕食の話題に彼女の名前が上がることが多くなり、茜は笑顔が増えた。スミレの退出時刻と聡司の帰宅が偶々重なった時に、はにかんだ表情で黙って頭を下げるスミレからは、彼女の何が茜を元気づけるのか分からなかったが、茜にとっては年の離れた妹が出来たようなものなのかもしれない。来てもらって良かった。聡司は心からそう思った。
「今日も愛妻弁当ですか?」
昼休憩の時間。机に弁当を広げた聡司を見て、同僚の新留香織が声を掛けた。
「アカさんも忙しいのに偉いわねえ。あら美味しそう」
そう言って、香織は弁当箱を覗き込んだ。看護師の茜と違ってしっかりネイルを施した指が目を引いた。色気のある女性だ。
「いや、実は先日から家政婦さんに来てもらっててね」
聡司の言葉に、香織は「まあ贅沢」と言って笑った。
「どんな人ですか。おばさん?」
職場では話さないように茜に言われていたにも関わらず、聡司は口を滑らせた。
「去年まで薬局にいた桐谷さんって人。きみ知ってる?」
言った途端、香織の表情が曇った。
「……ええ」
歯切れ悪くそう言った後、香織は暫く言いよどんだ。
「言っていいのかな」
呟くようにそう言った後、思い切ったように口を開く。
「彼女が何故辞めたのかご存じですか?」
問われて聡司は首を振った。せっかく就職したにも関わらず、たった一年で辞めてしまった理由が、急に気になった。
「今年の一月だったかしら、薬局で薬が紛失していることが分かって。毒薬指定のものだったから問題になりましたよね。疑われたのが彼女でした」
聡司は飯が喉につかえるのを感じた。箸を置き、ペットボトルのお茶に手を伸ばす。
「結局薬は出て来ずじまいでしたが、彼女は職場に居づらくなって辞めたと聞いています」
私が言ったって言わないでくださいね。と言って香織は席に戻って行った。残った弁当を食べる気にもならず、聡司は弁当箱の蓋を閉めた。




