第7話 騎士の命令
「全軍停止。馬を降りて待機しろ」
フェルナンドの号令が、開けた平原に響いた。
クランは手綱を引き、馬を止める。
ここまでの行軍に、大きな乱れはなかった。
敵影もない。
襲撃もない。
斥候からの警告もない。
ただ、順調だった。
順調すぎた。
エラール村は近い。
見覚えのある地形。
草の匂い。
風の冷たさ。
そのどれもが、自分が故郷のすぐそばまで戻ってきたことを、嫌でも思い出させる。
馬を降りたクランは、無意識に村のある方角へ視線を向けた。
この距離まで来れば、もし本当にベルダイル側の兵が村を押さえているなら、見張りか斥候の一人くらいはいてもおかしくない。
だが、気配はなかった。
静かすぎる。
(……やっぱり、何かおかしい)
胸の奥に残っていた違和感が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
フェルナンドは隊列を見回し、淡々と指示を出す。
「回復術師は後方で待機。魔術師は指定位置へ移動し、合図があるまで近づくな。従騎士は選抜された五名を除き、後方の荷馬車周辺で待機」
短い号令だった。
従騎士たちは戸惑いながらも従った。
回復術師たちも、荷馬車の周囲へ下がっていく。
魔術師たちは互いに短く確認を交わし、草地の左右へ散っていった。
その動きに、プレデリカの目が細くなる。
作戦説明の前に、人を下げた。
それが何を意味するのか、彼女も気づいたのだろう。
その場に残されたのは、各隊の指揮を担う者たちだった。
フェルナンド。
プレデリカ。
ラッセル。
クラン。
数名の上級騎士。
そして、少し離れた位置に立つ、小柄なフード姿の人物。
騎士とも、従騎士とも違う。
黒灰の外套を深く被り、顔は見えない。
隊列の中にいるのに、そこだけが妙に浮いていた。
気配が薄い。
いるのに、見落としそうになる。
だが一度気づいてしまうと、目を離せない。
クランは一瞬だけ、その影を見た。
フードの奥は見えない。
それなのに、見られているような感覚だけが残った。
「目的地には十分近づいた」
フェルナンドが口を開く。
「ここで、あらためて今回の作戦を説明する」
その一言に、クランはわずかに身構えた。
ここまで、説明が少なすぎた。
ようやく話すつもりになったのか。
そう思う一方で、嫌な予感は消えなかった。
「エラール村は、このまま南へ進んだ先にある。規模は小さいが、村の周囲は柵で囲まれている。出入りは南北の門に限られる」
そこまでは普通だった。
「よって、我々は三隊に分かれる」
フェルナンドは杖の先で、地面に簡単な図を描いた。
「北門封鎖。南門封鎖。そして、村内突入だ」
クランは黙って聞いていた。
「北門封鎖の指揮は私が執る」
フェルナンドは一度言葉を切り、視線を横へ流した。
「南門封鎖はプレデリカ隊長。君に任せる」
「承知しました」
プレデリカは短く答えた。
だが、その目は話の先を警戒している。
「では、突入部隊の指揮は誰が?」
当然の問いだった。
フェルナンドは、まっすぐクランを見た。
「騎士クラン。君だ」
ざわり、と空気が揺れた。
「選抜した従騎士五名を連れ、村の中へ入れ」
「……俺が、ですか」
クラン自身より先に、周囲の騎士たちがざわついた。
当然だった。
村の地理を知っているという事情を考慮しても、突入部隊の指揮を、叙任されて間もない騎士に任せる理由にはならない。
しかも、同行するのは経験の浅い従騎士だけだ。
危険すぎる。
見かねたように、プレデリカが一歩前へ出た。
「副騎士長、それは無理があります」
声は静かだが、はっきりしていた。
「村の中では待ち伏せの可能性もあります。その役目を、騎士になって間もないクランと従騎士だけに任せるのは危険です」
フェルナンドは一瞥だけを返した。
「危険はない」
即答だった。
プレデリカの眉が、かすかに寄る。
「……どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ」
フェルナンドは淡々と続けた。
「村の中に、ベルダイル軍などいない」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
クランは、意味を理解できなかった。
いや、理解することを、身体が拒んだ。
「それでは、今回の任務は……」
プレデリカの問いに、フェルナンドは静かに告げた。
「エラール村の住民を、一人残らず処分する」
風の音だけが響いた。
「……今、何と」
漏れたのは、クランの声だった。
フェルナンドは表情一つ変えない。
「他言無用だ。この件を知るのは、ここに残した者と、ごく一部の騎士団上層のみ。下の者には、村内確認および避難誘導とだけ伝える」
騎士たちを見渡す。
「余計な情報は判断を鈍らせる。必要な者だけが知っていればいい」
淡々と。
まるで、兵站の数を読み上げるように。
「ベルダイルとの戦を始めるには、民の結束が要る」
フェルナンドは、地面に描いた図を杖の先で叩いた。
「必要なのは、怒りを一点に集める材料だ」
誰も動けない。
「ベルダイル軍による虐殺。その事実があれば、領内は迷わない」
プレデリカの顔から、わずかに血の気が引いた。
「エラール村には、その役を担ってもらう」
あまりにも静かな声だった。
だからこそ、その言葉は重く落ちた。
「領民を……私たちが、自ら殺すと?」
プレデリカの声は崩れていない。
だが、その底には明らかな拒絶があった。
「戦のためだ」
フェルナンドは揺らがない。
「加えて、あの村に戦略的価値はない。税の滞納も多い。切り捨てるには十分だ」
クランの頭の中で、何かが崩れた。
戦のため。
結束のため。
税を払えないから。
あまりにも軽く、人の命が並べられていく。
喉が乾いた。
呼吸が浅くなる。
「副騎士長」
プレデリカが、さらに一歩前へ出た。
「確認します。南門封鎖とは、民を逃がさないための封鎖ですか」
「君の任務は南門封鎖だ」
フェルナンドは即座に返す。
「外部からの接近を防ぎ、作戦終了まで門を押さえる。それだけでいい」
「同じことです。逃げる者を塞げば、結果は変わりません」
「ならば理解しているはずだ」
フェルナンドの声に熱はない。
「君が持ち場を放棄すれば、南門隊全体が命令違反となる」
プレデリカの手が、槍の柄にわずかに近づいた。
だが、そこで止まる。
彼女は部隊長だ。
自分一人の感情で、部下を巻き込むことはできない。
プレデリカは、ゆっくりと息を吐いた。
「南門隊には、外敵遮断として命令を出します」
フェルナンドの目が細くなる。
「民への攻撃命令は、私が出すまで認めません」
「解釈で逃げるつもりか」
「部隊長として、正しい任務範囲を確認しているだけです」
プレデリカは目を逸らさなかった。
「私の部下を、虐殺の実行犯にはしません」
空気が、さらに冷えた。
数名の騎士が、互いに視線を交わしかける。
だが、誰も声を出さない。
フェルナンドは、しばらくプレデリカを見ていた。
怒りはない。
不快感すら薄い。
ただ、予定外の動きを記録するような目だった。
「南門隊への命令は、南門封鎖だ」
やがて、フェルナンドは言った。
「外敵遮断。門の制圧。作戦終了までの維持。それを果たせ」
「承知しました」
プレデリカは短く答えた。
その声に、安堵はなかった。
勝ったわけではない。
ただ、部下の手を汚させないための細い線を、どうにか引いただけだった。
そのやり取りを、クランは遠くで聞いているようだった。
騎士団。
命令。
正しさ。
どれも、自分が信じようとしてきたものだった。
だが今、それらは村人を殺す理由として並べられている。
「……騎士長は」
気づけば、口が動いていた。
「騎士長は、この命令をご存じなのですか」
フェルナンドの目が、冷たく細まる。
「騎士団上層の判断だ」
それだけだった。
シャルロットの名は出ない。
アランス侯爵の名も出ない。
だが、クランの胸を揺らすには十分すぎた。
あの人が。
あのシャルロットが。
本当に、これを認めたのか。
分からない。
だが、一瞬だけ考えてしまった。
もしこれが、騎士団としての正しさなのだとしたら。
命令に従い、全体のために動くことが、騎士の役目なのだとしたら。
(……それでも)
違う。
そんなものは、自分が守りたかったものではない。
震える拳を、強く握る。
(……また、見て見ぬふりをするのか)
それだけは、できなかった。
クランは、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺は、殺しません」
ざわめきが止まった。
フェルナンドがクランを見る。
「村人を殺すために、騎士になったわけじゃありません」
声は低かった。
だが、はっきりしていた。
「たとえ命令でも、殺せません」
ラッセルが息を呑む。
信じられないものを見るようにクランを見た。
騎士が命令を拒む。
しかも、相手は副騎士長。
誰一人として想定していなかった事態だった。
「理由は、それだけか」
フェルナンドの声が低く落ちる。
クランは一歩も引かなかった。
「……あの村の人たちは、本当に貧しいんです」
一瞬だけ、脳裏に浮かぶ。
連れて行かれる少女。
何もできなかった自分。
「税は、払えないんじゃない。払いたくても払えないんです」
低く、押し殺した声だった。
フェルナンドは、それを冷たく聞いていた。
「騎士クラン」
一言。
温度のない声。
「その価値を決めるのは、君ではない」
冷たく、言い放つ。
「最後の警告だ。命令を遂行しろ」
それは最後通告だった。
だがクランは、もう止まれなかった。
「……何度言われても変わりません」
拳を握り締める。
「命令には従えません」
その瞬間。
ルクレール騎士団の中で、一人の騎士が、命令の外へ踏み出した。
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