第8話 反逆者
誰かの籠手が、剣の柄に触れた。
馬が鼻を鳴らす。
草を揺らす風の音まで、やけに遠い。
クランは動かなかった。
命令を拒んだ。
その事実だけが、遠征隊の中心に置かれている。
「……なるほど」
フェルナンドの声には、驚きも怒りもなかった。
「命令を拒否するか」
問いではない。
記録するような声だった。
クランは答えない。
答える必要はなかった。
「いいだろう」
フェルナンドは、あっさりと言った。
あまりにも、あっさりと。
「ラッセル」
呼ばれた瞬間、ラッセルの口元が歪んだ。
「はっ」
「突入部隊の指揮を引き継げ」
「了解しました」
声に、抑えきれない愉悦が滲んでいる。
ラッセルは一歩前へ出ると、ゆっくりとクランの横を通り過ぎた。
「聞いたか、平民クラン」
小さく笑う。
「これが現実ってやつだ」
クランは何も言わない。
だが、拳だけが強く握られていた。
ラッセルはさらに声を落とす。
「従騎士どもには避難誘導とでも言えばいい。中に入ってからは、どうとでもなる」
クランの視線が、ラッセルへ向いた。
「泣こうが、叫ぼうが関係ない。これは騎士団の命令だからな」
「……だまれ」
低い声だった。
ラッセルの動きが止まる。
ゆっくりと振り返った。
「なんだ?」
「今のは命令じゃない」
クランは一歩、前へ出た。
「ただの虐殺だ」
一瞬の沈黙。
ラッセルの笑みが、歪んだ。
「……ああ、そうかよ」
剣が抜かれる。
木剣ではない。
陽を受けた騎士剣の刃が、鈍く光った。
「なら証明してみろよ。お前が正しいんだろ?」
ラッセルが踏み込んだ。
荒い。
だが、遅くはない。
真剣の重みが、木剣とは違う音で空気を裂く。
ラッセルは貴族騎士として最低限以上の鍛錬を積んでいる。腕力もある。踏み込みも鋭い。相手が並の従騎士なら、それだけで押し潰せただろう。
だが、クランには見えていた。
肩口を狙って落ちてくる刃。
力任せの軌道。
怒りでわずかに早まった呼吸。
正面から受ければ、押し負ける。
だから受けない。
クランは半歩だけ身を引き、剣の腹へ自分の刃を添えた。
落ちてくる力を、横へ逃がす。
失敗すれば、指が飛ぶ。
それでも、踏み込んだ。
「なっ――」
ラッセルの体勢が前へ流れる。
その瞬間には、クランはもう懐に入っていた。
剣ではない。
肩。
鎧の継ぎ目へ、体をぶつける。
鈍い音。
「がっ……!」
ラッセルの息が詰まった。
足が浮く。
クランはさらに柄頭を手首へ打ち込み、剣を握る力を鈍らせた。
斬らない。
殺さない。
ただ、止める。
続けて足を払う。
ラッセルの身体が崩れ、草地へ叩きつけられた。
ざわめきが広がる。
「……は?」
誰かが呟いた。
クランは構えを崩さない。
ラッセルが、ゆっくりと起き上がる。
口元から血が垂れていた。
「……てめぇ」
目が変わる。
完全な敵意。
「調子に乗るなよ、汚らわしい平民が」
今度は全力だった。
ラッセルの剣は、怒りで雑になっている。だが、重い。受け方を誤れば、腕ごと持っていかれる。
真正面から斬り込んでくる刃を、クランは受けない。
横へ流す。
腕を引く。
踏み込む。
剣の間合いではなく、体の間合いで潰していく。
騎士の模範的な動きではない。
だが、戦場では通じる。
泥の上でも、狭い路地でも、魔物相手でも使ってきた、生き残るための動きだった。
「ぐっ……!」
ラッセルの膝が崩れる。
荒くなっていたのは、ラッセルの呼吸だけだった。
クランは剣先を下げたまま、倒れたラッセルの前に立つ。
刃は喉へ向けない。
殺すためではない。
止めるためだった。
「もう下がれ」
クランが、短く告げる。
ラッセルの顔が、屈辱に歪んだ。
その時だった。
「そこまでだ」
低い声が、場を切った。
フェルナンドが一歩前に出ていた。
「……見苦しいな」
視線はラッセルに向いている。
だが、本当に見ているのはクランだった。
「ラッセルは後退しろ」
「……っ」
ラッセルは歯を食いしばる。
だが、フェルナンドの声に逆らうほど愚かではなかった。
剣を下ろし、数歩退く。
フェルナンドは、クランの前に立った。
右手は剣の柄に添えられている。
左手には何もない。
だが、その指先だけが、わずかに動いていた。
構えではない。
準備でもない。
すでに、何かが始まっている。
ただそこに立っているだけなのに、クランの肌は粟立った。
ラッセルとは違う。
殺気ではない。
怒気でもない。
そこにあったのは、人を処理する時の迷いのなさだった。
「騎士クラン」
名を呼ぶ。
「命令違反。ならびに、同僚騎士への攻撃」
声が僅かに低くなる。
「処分対象だ」
クランは構えを解かない。
分かっていた。
こうなることは。
「……そうですか」
短く答える。
フェルナンドは、わずかに目を細めた。
「それでも抵抗するのか」
問いではない。
ただの確認だった。
フェルナンドの足が、わずかに動く。
それだけで、クランの全身が反応した。
(来る)
剣を上げる。
間に合ったはずだった。
金属音。
クランの剣が、横へ弾かれる。
抜いた瞬間が見えなかった。
刃は、最初からそこにあったように走っていた。
速い。
いや、違う。
こちらが剣を上げる位置を、先に読まれている。
クランは反射で受けたつもりだった。
だが、その反射の先に、もうフェルナンドの剣が置かれていた。
「――っ!」
クランは後ろへ跳ぶ。
フェルナンドは追ってこない。
代わりに、左手の指が短く印を切った。
ほとんど声にならない詠唱。
土の下を、細い術式光が走る。
──ますい。
横へ飛ぶ。
直後、足元が硬く締まった。
魔力に操られた土が、クランの足を掴むように盛り上がる。
避けた先に、術式が置かれていた。
体勢が崩れる。
そこへ、フェルナンドが入っていた。
いつ動いたのか分からない。
剣の柄が、鳩尾に沈む。
「が……っ!」
息が消える。
だが、倒れない。
倒れれば終わる。
クランは歯を食いしばり、フェルナンドの腕を掴もうとした。
しかし手は虚しく空を切る。
「遅いぞ」
声が耳元でした。
膝に衝撃。
重心を刈られる。
クランは体を捻り、無理やり距離を取った。
視界が揺れる。
息が苦しい。
それでも、剣は離さない。
(……ラッセルとは違う)
分かってしまう。
フェルナンドは力任せではない。
こちらが動く前に、動く場所を潰してくる。
退けば、そこに術式がある。
受ければ、受けた腕ごと崩される。
掴もうとすれば、届く前に重心を刈られる。
斬り合いではない。
処理だ。
人を倒す手順を、ただ合理的に実行している。
フェルナンドがまた一歩、近づく。
クランは先に踏み込んだ。
待てば潰される。
なら、こちらから崩すしかない。
低く。
足元へ。
騎士の型ではない。
生き残るための動き。
フェルナンドの剣が下がる。
クランは受けず、半身でかわした。
届く。
そう思った。
剣の柄が、フェルナンドの脇へ入る。
あと一歩。
その瞬間、フェルナンドの左手が動いた。
細い術式光が、目の前で弾ける。
「っ――!」
視界が白く飛んだ。
反射的に目を閉じる。
その一瞬で、すべてが終わっていた。
腕を捻られる。
剣が落ちる。
肩に衝撃。
背中に地面。
呼吸が止まった。
強い衝撃を受けた身体は動かない。
空が見えた。
青い空。
何も変わらない、青だった。
「ここまでだな」
フェルナンドが見下ろしていた。
声に侮蔑はない。
怒りもない。
だからこそ、冷たかった。
「判断は悪くない。だが、遅い」
クランは歯を食いしばる。
立て。
立て。
まだ終わっていない。
必死に指先に力を込める。
土を掴む。
体を起こそうとする。
肩に激痛が走った。
それでも、動く。
「……まだ立つか」
フェルナンドがわずかに目を細める。
その時だった。
「副騎士長」
プレデリカの声が響いた。
怒鳴ってはいない。
だが、その声は確かに場を止めた。
「彼はもう戦闘不能です。これ以上は、処分ではありません」
フェルナンドは、ゆっくりと視線を向ける。
「プレデリカ隊長。君の任務は南門封鎖と指示したはずだ」
「承知しています」
「ならば、持ち場へ戻れ」
「クランは私の部下です。この状況を見過ごせと?」
プレデリカの手が、槍の柄に触れていた。
フェルナンドの目が、冷たく細まる。
「君がここで動けば、命令違反は君だけでは済まない」
鋭い一言。
プレデリカの指が止まった。
「君の隊は、君の指揮を待っている。隊長が持ち場を捨てれば、その責任は当然隊全体に及ぶ」
プレデリカは唇を引き結ぶ。
動けば、部下を巻き込む。
動かなければ、目の前の騎士を見捨てる。
どちらも、騎士としては耐え難かった。
それでも、彼女は部隊長だった。
「……承知しました。南門隊へ戻ります」
槍から手を離す。
だが、目は逸らさなかった。
「私の隊には、先ほどの命令を徹底します」
民へ剣を向けるな。
その線だけは、まだ消えていない。
フェルナンドは何も言わなかった。
ただ、クランへ視線を戻す。
「騎士クラン」
声は近い。
「君は、騎士団の命令を拒んだ」
足音。
「同僚騎士に剣を向けた」
さらに一歩。
「そして、私の処分にも抵抗した」
クランは、土を掴む指に力を込める。
立てない。
それでも、顔だけは上げた。
「……村人を殺すよりは、ましです」
声は掠れていた。
フェルナンドの表情は変わらない。
「そうか」
短く言う。
「なら、その自分の選んだ結果を受け入れろ」
衝撃が落ちた。
首筋。
あるいは、意識の奥。
痛みより先に、視界が暗くなる。
身体が、地面へ沈む。
遠くで誰かが叫んだ気がした。
ラッセルの声か。
従騎士の息を呑む音か。
プレデリカの声か。
分からない。
最後に見えたのは、動かない空と。
その端に立つ、黒灰のフードの人影。
フードの奥で、薄い灰色の瞳が、じっとこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、見ている。
まるで。
ずっと前から、そうなることを知っていたかのように。
クランの意識は、そこで途切れた。
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