第6話 遠征
夜が明けても、胸の奥に残った熱は消えていなかった。
今度こそ。
そう思って、騎士長室を出た。
エラール村へ向かうと決まってから、眠りは浅かった。目を閉じれば、痩せた土地と閉じた空気が浮かぶ。名前を捨てるように離れた場所が、今になって、自分の足元へ戻ってくる。
だが、出発の号令がかかった時、クランはその熱とは別のものを感じ取っていた。
遠征隊の編成が、あまりにも速すぎる。
号令が響き、騎士たちが馬に跨る。従騎士たちは黙々と荷を整え、騎士団所属の魔術師たちは言葉少なに馬車へ乗り込んでいった。
何もかもが、滞りなく進んでいく。
滞りがなさすぎるほどに。
クランは馬上で手綱を握り、隊列の後方へ視線を流した。
鎧の擦れる音と馬蹄ばかりが耳につく。
そのわりに、荷馬車の車輪は少ない。補給の荷も、野営道具も、必要最低限。負傷者を運ぶ馬車に至っては、通常の討伐任務と比べても明らかに足りなかった。
そして何より――一般兵がいない。
(……おかしい)
違和感は、出発前からあった。
だが、こうして隊列の中に入ると、それは少しずつ輪郭を持ちはじめる。
騎士。
従騎士。
騎士団所属の魔術師。
それだけだ。
本来、数を担うのは一般兵だ。
騎士は戦線の芯であり、崩れた場所を支えるために置かれる。最初から数として並べるものではない。
それなのに、今回の隊には騎士ばかりが集められていた。
クランは周囲を見渡す。
騎士たちの表情に、疑問は見えない。
任務だから行く。
そう言わんばかりに、誰も余計なことを口にしなかった。
だが、沈黙が納得を意味するとは限らない。
前方で、深い蒼の髪が揺れた。
プレデリカ・ヴァン・アズワール。
銀の鎧に深青の布地をまとい、部隊長を示す徽章を肩に留めている。背筋は真っ直ぐで、馬上でも姿勢に乱れはない。
槍は鞍の横に固定されていた。だが、その手が伸びれば、すぐに取れる位置にある。
無駄のない装備。
無駄のない姿勢。
そして、無駄を許さない目。
クランは馬を寄せた。
「隊長」
プレデリカが、視線だけを向ける。
「今回の編成、変だと思いませんか」
「思うわ」
即答だった。
驚きはない。
むしろ、そう聞かれることを予想していたような声だった。
「気になって、出発前に副騎士長にも確認した」
「……それで?」
「問題ない、の一点張りよ」
短く、淡々とした声。
だが、その奥にわずかな苛立ちが滲んでいた。
プレデリカは感情を表に出す女ではない。少なくとも、部下の前ではそうだ。
だからこそ、そのわずかな揺れが目立つ。
「補給の荷が少ない。負傷者を運ぶための馬車も足りない。討伐任務にしては、後方支援が薄すぎる」
「そこまで見ていたんですか」
「部隊長なら見るわ」
当然でしょう、とでも言うように、プレデリカは前を向いた。
クランは黙って隊列を見る。
「騎士ばかりです」
「ええ」
「従騎士も、数を担うほどはいない。魔術師はいるのに、一般兵がいない」
「そうね」
「普通なら、あり得ませんよね」
「普通ならね」
プレデリカはそこで言葉を切った。
それ以上は言わない。
言えないのではない。
まだ、断じる材料が足りないのだ。
クランも、それ以上は尋ねなかった。
隊列は進む。
ルクレールの城下を離れるにつれて、道は細くなっていった。石畳は途切れ、踏み固められた土の道へ変わる。馬蹄が乾いた音を立て、時折、車輪が小石を踏んで軋んだ。
空は晴れている。
だが、遠征隊の空気は重かった。
後方で、誰かが小さく笑う。
「ひゃっはー……まったく、田舎道は退屈だな」
ラッセルの声だった。
数人の騎士がちらりと視線を向けたが、誰も応じない。
プレデリカが一度だけ振り返る。
それだけで、ラッセルの声は止まった。
クランはその様子を横目で見ながら、再び前方へ視線を戻す。
ラッセルの軽口すら、今日は隊列の中にうまく馴染んでいない。
誰もが任務へ向かっている。
だが、圧倒的に情報が足りない。
それが、妙に気にかかった。
しばらく進んだところで、プレデリカが口を開いた。
「ところで、クラン」
「はい」
「エラール村は、貴方の故郷だったわね」
手綱を握る指に、わずかに力が入る。
「……そうです」
短く答えた。
それ以上は語らない。
語る必要がない、というより、言葉にするには面倒なものが多すぎた。
痩せた土地。
閉じた空気。
冬になる前から薄くなる食糧庫。
目を伏せる大人たち。
そして、ある日いなくなった子どもの名前を、誰も口にしなくなる村。
誰もが貧しく、誰もが疲れていた。
だから仕方がない。
だから見なかったことにする。
そんな言葉にならない諦めが、村全体に染みついていた。
古い記憶が、馬の足音に混じって浮かびかける。
薄い紙の本。
細い指。
こちらを見上げる、静かな目。
クランは、その記憶を押し込めた。
今、思い出すべきではない。
思い出したところで、何かが変わるわけでもない。
「任務に支障が出るなら、先に言いなさい」
プレデリカの声がした。
冷たいわけではない。
だが、慰める声でもない。
彼女らしい、実務的な確認だった。
「支障は出しません」
「そう。ならいいわ」
プレデリカはそれ以上、踏み込んでこなかった。
気遣いではある。
ただし、余計な同情ではない。
クランにはその距離感が、むしろ楽だった。
「嫌なことを聞いたわね」
「いえ」
クランは首を振る。
「忘れられるような場所でもないので」
それだけだった。
プレデリカはしばらく黙っていた。
その横顔は、いつも通り冷静だった。灰青の瞳は前方の道を見ている。
だが、ただ道を見ているだけではない。
隊列の乱れ。
馬の疲労。
魔術師たちの沈黙。
従騎士の緊張。
おそらく、そのすべてを拾っている。
「貴方は、村に知り合いが残っているの?」
問いは淡々としていた。
「います」
クランは答える。
父と母。
村に残った顔。
呼べば振り返るだろう名前。
けれど、そのどれもが胸の中でうまく形にならなかった。
「多くはありません」
「そう」
プレデリカは短く返す。
「なら、なおさら任務中は判断を誤らないことね」
「分かっています」
「分かっているならいいわ」
厳しい言い方だった。
だが、突き放しているわけではない。
任務中に故郷へ戻る兵が、どれほど判断を乱しやすいか。プレデリカはそれを理解しているのだろう。
だから、先に釘を刺す。
感情を否定するのではなく、感情で任務を壊すことを許さない。
それが、彼女のやり方だった。
クランは小さく息を吐いた。
道はさらに細くなる。
周囲の景色が、少しずつ見覚えのあるものへ変わっていった。
低い丘。
乾いた畑。
曲がった柵。
遠くに見える、森の黒い線。
懐かしい、とは思わなかった。
ただ、知っている景色だった。
知っているからこそ、胸の奥が沈む。
(……変わってない)
何年も離れていたはずなのに、土地の匂いは変わらない。
乾いた土と、古い木材と、煙の匂い。
かすかに混じる、湿った草の匂い。
エラール村は、近い。
けれど、まだ村そのものは見えていない。
丘の向こうにあるはずだった。
クランは前を向く。
補給の薄い隊列。
一般兵のいない編成。
説明の少なさ。
そして、自分が故郷へ向かわされているという事実。
どれも、まだ一つの答えにはならない。
それでも、胸の奥に沈んだものは消えなかった。
(……何かが、おかしい)
その感覚だけが、馬の足音に混じって、いつまでも残っていた。
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