第63話 見覚え
ノエラは取っ手をゆっくりと下げた。
扉は内側へ開いた。
中にはすぐには入らなかった。
開いた隙間から室内へ視線を送り、人の気配がないことを確かめる。
窓は一つ。薄いカーテンの向こうから入る光が、床の一部を淡く照らしていた。
少し待っても、物音はしない。
身体が通るだけ扉を開き、室内へ入る。
生活に使われている部屋ではないらしい。
壁際には棚が並び、箱や布包みが間隔を空けて置かれている。
使われなくなったらしい燭台や、小さな木箱、布を掛けられた家具もあった。
長く閉ざされた物置のような重い埃の匂いはなく、床も荒れていない。
中央には人が一人通れるだけの空間が残されていた。
物を押し込んだ部屋ではなく、置き場所を決めて保管しているらしい。
定期的に清掃がされている痕跡もある事を考えると、必要な物を必要な時にだけ取り出すための部屋なのだろう。
顔を上げる。
入口の近くから順に目を走らせた。
棚に収められた書類。紐でまとめられた包み。蓋の閉じた箱。壁際に寄せられた椅子。
引き出しには触れない。箱も開けない。
目で分かるものを確かめながら、ゆっくり奥へ進んだ。
窓の下に置かれた小卓の上には何もない。
棚の隙間にも、何かを隠したような乱れは見えなかった。
布包みの一つは古びていたが、結び目は崩れていない。
ノエラはそれを横目で見ただけで通り過ぎた。
そのまま視線を動かしていき、壁際で止まる。
ほかの物より背の高いものが、一つだけ立て掛けられていた。
薄い布が上から掛けられている。
家具にしては薄い。
棚のような奥行きもない。
ノエラは近づいた。
布の下から分かるのは四角い輪郭だけだった。
端は片側がわずかに長く垂れ、下は床につかずに浮いている。
その掛かり方を一度見てから、布の端へ指を掛けた。
布は軽かった。
長く掛けられていたせいか、上端には額縁の形に沿った浅い折れが残っている。
ゆっくり持ち上げる。
最初に現れたのは木の枠だった。
続いて、暗い色の衣服と、人の肩。
肖像画。
ノエラの手が止まった。
三人の人物が描かれている。
男の顔は知っていた。
トライアス・ザイファール。
亡き国王。
その隣には王妃がいる。
二人の間には、まだ若い少女が立っていた。
かつての王家を描いた肖像画だった。
ノエラは布を持ち上げたまま、少女へ目を移した。
金色の髪。
青い瞳。
そこで一度、視線が止まる。
知っている色だった。
それだけなら、まだ特徴が重なっただけで済むかもしれない。
もう少し布を上げた。
小さく微笑んだ少女の顔がすべて見える。
幼い。頬にはまだ少女らしい丸みが残り、表情にも若さがある。
だから、最初は似た色を持つ別人にも見えた。
それでも、目元から鼻筋へ続く線に引っかかる。
ノエラは一歩近づいた。
輪郭を見る。
顎へ向かって細くなる形。
眉の下に残る目の印象。
肖像画の少女が正面を向いているせいで、かえって分かりやすかった。
見覚えがある。
──リア・グローリー。
これまで観察してきた顔が、肖像画の少女へ重なる。
金髪と青い瞳だけではない。
目元も、頬から顎へ落ちる線も似ている。
近くで見た時だけそう感じるのかと思い、ノエラは半歩下がった。
印象は変わらない。
むしろ顔全体を見た方が、似ている部分ははっきりした。
ノエラは額縁には触れず、描かれた少女を見続けた。
リシュア・レ・ザイファール。
トライアス王の娘であり、王位を継ぐ正統な後継者。
五年前に姿を消してから、行方は分かっていない。
年月の長さから、すでに亡くなっているのではないかと考える者もいる。
それでも死亡が確かめられたわけではなく、ルクレールでは今も王女の行方を追っている。
「……リシュア王女」
小さな声が、誰もいない部屋に落ちた。
ノエラは動かなかった。
肖像画の少女を見る。
それから、ほんの少し目を細めた。
五年前に神隠しのように消えた王女。
目の前の幼く描かれた少女。
現在のリア。
年齢に、大きな食い違いはないように思える。
ノエラの視線が、肖像画全体へ戻る。
国王と王妃。
その間に立つ王女。
なぜ、その家族の肖像画がグローリー邸の奥にあるのか。
答えになるものは、部屋の中には見当たらなかった。
少女の顔へ、もう一度目を戻す。
しばらく見たあと、ノエラは近くの棚へ視線を移した。
閉じた箱や包みは、そのまま並んでいる。
手は伸ばさなかった。
持ち上げていた布を、ゆっくり下ろす。
一度に手を離さず、先ほど見た位置へ端を戻していった。
少女の顔が隠れ、王妃が隠れ、最後に国王の姿も見えなくなる。
布の片側が、さっきと同じように少し長く垂れた。
ノエラはそこで手を離した。
少し離れて見る。
入った時と変わっていない。
室内をもう一度だけ見渡した。
棚の箱も、包みもそのまま。窓も閉じている。
入口へ戻る。
廊下へ出て、扉をゆっくり閉じた。
閉じる直前、一度だけ隙間から奥を見る。
布を掛けられた肖像画は、元の場所に収まっていた。
扉は静かに閉じられた。
◇
来た廊下を引き返した。
奥の保管室を離れるにつれて、屋敷は少しずつ生活の場所へ戻っていく。
壁際の椅子。卓上に置かれた小物。使いかけのものが残る部屋。
先ほど通った時と、目につく違いはない。
ノエラは歩きながら、開いたままになっていた部屋を横目で見る。
最初に確認した時と同じだった。
角へ差しかかったところで、一度歩みを止めた。
正面の廊下にも、脇の部屋にも動く影はない。
遠くで人の声がした。
しかし屋敷の外だ。
中には足音も話し声もない。
途中の部屋へ入り直すことはしなかった。
玄関が見えてくる。
そこで歩みを緩めた。
扉の前まで行き、一度だけ背後を振り返る。
廊下の奥は静かなままだった。
入った時から開いていた扉は、そのままの位置にある。
奥で自分が開けた一枚も、元どおり閉じている。
しばらく耳を澄ませる。
帰ってくる足音はまだない。
ノエラは玄関扉を開けた。
外へ出て、通りへ目を向ける。
こちらを見ている者はいない。
扉へ手を掛け、音を立てないよう引き寄せた。
小さな音がして、玄関は閉じた。
外から見れば、いつもの扉と変わらない。
そこでノエラの手が止まった。
視線が鍵穴へ落ちる。
しばらく、そのまま動かない。
扉を閉じることはできても、施錠までは元に戻せない。
ノエラは鍵穴へ手を伸ばしかけ、止めた。
扉に傷はない。開け放したままでもない。
手を下ろす。
屋敷から離れた。
数歩進んでも振り返らず、そのまま通りの先へ姿を消した。
玄関扉は、何事もなかったように閉じていた。
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