第62話 扉の向こう側
しばらくして、神官長が管理通路から隔離区画へ入ってきた。
倒れた巨体には近づきすぎず、プレデリカへ視線を向ける。
「倒したのですね?」
「ええ。何とかね」
神官長は頷き、次に水門を見た。
「水門はこのままにします」
すぐ後ろから入ってきた神官へ告げる。
「封印も今は触れないでください。まず周囲を見ます」
「はい」
神官が床を走る青白い線の外側へ回っていく。
クランは剣を鞘へ戻した。
エルフィーナがその左肩へ目を向ける。
「クランさん。今度は、本当に休んでください」
「分かった」
「でしたら、こちらへ」
壁際へ移り、クランは腰を下ろした。
プレデリカが一度こちらを見る。
何も言わず、そのまま槍を持ち直して水門側へ歩いていった。
リアも剣を収めた。
壁際のクランと目が合った。
リアは小さく頷き、神官長の方へ向き直った。
耳に入る音が変わっていた。
少し前まで響いていたのは、石を砕く音と、巨体が床を揺らす音だった。
今は神官たちの短い返事と足音が重なっている。
区画の中では、次の作業が始まっていた。
◇
封印区画では、祈りを続けていた神官たちが順に交代していた。
「ここから先は、休んでください」
神官長の言葉に、床へ膝をついていた神官が顔を上げる。
「ですが――」
「今すぐ止めるわけではありません。交代します」
次の神官が位置へ入る。
それまで祈っていた者は立ち上がったが、二歩ほど進んだところで壁へ手をついた。
エルフィーナがすぐにそちらへ向かった。
「座ってください。水を持ってきます」
神官長は別の神官へ向き直る。
「水門周辺を見てください。ただし、開けないように」
「承知しました」
「漏れている場所も。触るのはその後です」
神官が奥へ向かう。
別の神官が記録板を抱えて駆けてきた。
「補修の記録はこちらに」
「ありがとうございます。今は担当を休ませてください」
神官長は記録板を受け取った。
「応援の方は?」
リアが尋ねる。
「状況が変わったことを知らせます。こちらへ向かっているなら、そのまま待機してもらいます」
「避難している方々は?」
「こちらを見終えてからです。もう少し待ってもらいます」
リアが頷いた。
プレデリカは床を走る青白い線へ目を落とした。
「封印は残すのね」
「今は。区画全体の確認が先です」
「異常の原因も?」
クランが聞いた。
神官長は首を振る。
「分かりません。改めて調べる必要があります」
クランは床を見る。
青白い線は残っていた。
ところどころ細く、わずかに揺れる場所もあった。
「調べます。ですが今日は、まず担当を休ませます」
壁際では、エルフィーナが交代した神官の手を取っていた。
「指先に力は入りますか?」
「はい」
「無理に確かめなくて大丈夫です。ゆっくりで」
◇
一般区域へ戻る頃には、廊下を行き交う人の向きが少し変わっていた。
外へ向かう者だけではなかった。
神官に付き添われ、先ほどまでいた部屋へ向かう者もいる。
杖をついた老人が、廊下の端で一度立ち止まった。
付き添っていた神官が何かを伝えると、老人は小さく頷いて歩き出す。
運び出されていた薬箱も、一部が元の場所へ運び込まれていた。
ただし、すべてではない。
廊下の途中では、神官が二人、立ち入りを待つよう人を止めていた。
安全を確かめた場所と、そうでない場所が分けられていた。
閉じられたままの扉もあった。
「こちらはもう使って大丈夫です」
エルフィーナが治療室の前で別の神官へ告げる。
「ですが、奥の部屋は待ってください。移動した方を先に入れます」
「分かりました」
そのまま治療中の者へ向かった。
動きに迷いはなかった。
クランは廊下の壁際に置かれた椅子へ座っていた。
立とうとしたわけではない。
エルフィーナに「ここで待っていてください」と言われたから、そのまま待っている。
プレデリカが通りかかり、クランを一度見た。
そのまま先へ進んだ。
少しして、リアがやってきた。
壁際のクランを見て、一度だけ瞬きをする。
「……休んでいてくれたんですね」
「約束したからな」
「そうですか」
リアの口元が少しだけ緩んだ。
リアは隣へ座らず、廊下の先を見る。
人が動いていた。
慌ただしさは残っていたが、逃げるための動きではなかった。
治療室の扉が開き、薬箱が一つ運び込まれた。
別の神官が、移動させていた寝台の向きを変える。
誰かが急かす声はない。
その向こうで、エルフィーナが別の神官へ何かを伝えていた。
「少しずつ、落ち着いてきましたね」
リアが言った。
「ああ」
誰かに急かされるでもなく、人は自分の足でそれぞれの場所へ向かっていた。
クランはそれを見ていた。
◇
しばらくして、神官長が一般区域へ戻ってきた。
疲れた様子は隠せていなかったが、歩き方は変わらない。
「安全を確かめた場所から、順に戻し始めています。急がせるつもりはありません」
「その方がいいわね」
プレデリカが言った。
神官長は四人を見た。
「今回は、本当に助かりました」
リアが首を振った。
「いえ」
神官長は廊下の先へ目を向ける。
「今すぐ人が退避しなければならない状況ではなくなりました。それだけでも違います」
クランは左肩を動かさないよう、身体の向きを少し変えた。
すぐにエルフィーナの視線が飛んでくる。
「クランさん」
「動かしてない」
「なら、そのままでお願いします」
「ああ」
プレデリカが小さく息を吐いた。
「今日はもう剣を握らないことね」
「はい、隊長」
「素直ですね」
リアが言った。
「みんなに言われてるからな」
答えると、リアは何も言わずに目を細めた。
神官の一人が、神官長のもとへ駆け寄った。
「次に案内する方々の確認が取れました」
「分かりました。急がせないでください」
廊下の先で、閉じられていた扉が一つ開いた。
その向こうから、人が歩いてくる。
リアはその様子を見てから、神官長へ向き直った。
「こちらで、まだ私たちにできることはありますか?」
「今は大丈夫です。皆さんも少し休んでください」
リアは一度だけクランの方を見る。
「だそうです」
「ああ」
今度は、立ち上がろうとはしなかった。
床の奥には、細い光が残っていた。
クランは黙って、廊下を行き交う人々を見ていた。
◇
マルム。
グローリー邸の中は静かだった。
ノエラは音を立てずに廊下を進む。
人の気配はない。
戻ってきた者の足音も、話し声もなかった。
ノエラは立ち止まり、耳を澄ませる。
何も聞こえない。
一つの部屋を確認する。
戻る。
別の廊下へ。
扉はいくつもあった。
開いている場所から順に中を見て、必要がなければすぐ離れる。
机の上の物にも、棚の中にも、必要以上には触れなかった。
奥へ進む。
生活に使われている部屋から、少しずつ離れていく。
ノエラは歩調を変えない。
廊下の突き当たりで足を止めた。
そこだけ、ほかの部屋から少し離れている。
一枚の扉が閉じていた。
ノエラはしばらく見つめた。
片手を伸ばす。
手袋越しの指先が、扉の取っ手に触れた。
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