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騎士団の命令を拒否した平民騎士は、何を守るのか ―ザイファール戦記―  作者: 鈴ヶ峰 リン
ミストラ水上神殿編

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第60話 まだ残るもの

 補修は続けられていた。

 床を走る青白い線の前に、二人の神官が膝をついている。


 祈りに合わせて、細くなっていた光が少しずつ太さを取り戻していく。

 先ほど薄くなっていた場所も、今は周囲とほとんど変わらない。


 だが、クランが見ていたのは光ではなかった。


 神官の額から汗が落ちる。

 床へ添えている指が、わずかに震えていた。


「そこまでです。交代を」


 神官長の声に、一人が顔を上げた。


「まだ続けられます」

「ですが――」


 エルフィーナがその横へしゃがむ。

 神官の手首へ指を添え、それから顔を見る。


「交代してください」

「でも、まだ大丈夫です」

「大丈夫かどうかはこちらで見ます。本人が大丈夫だと言っても、です」


 穏やかな声だった。

 だが、譲る気配はない。


 神官は一度だけ口を開きかけ、やがて息を吐いた。


「……分かりました」


 後ろで待っていた別の神官が入れ替わる。


 エルフィーナは立ち上がった神官をその場から離し、水を渡した。


 クランは床へ目を戻す。


 青白い線は揃っている。

 少なくとも、見た目だけなら。


「補修は続けられるのか?」


 神官長へ聞く。


「今は続けられます」


 神官長は答えた。


「薄くなった箇所へ魔力を補えば、持ち直します。ただ――」


 床の先を見る。


「補った場所も、時間が経てばまた薄くなる」

「追いついてはいるのね」


 プレデリカが言った。


「はい。今のところは」

「今のところ、か」


 クランは小さく言った。


 また一人、神官が交代する。

 今度は声をかけられる前だった。


 壁際へ下がった神官が、座り込んで息を整える。


「人数を増やせば、もう少し続けられるの?」

「時間は作れます」


 神官長はプレデリカへ答えた。


「ですが、この状態そのものが直っているわけではありません」


 リアが床の光を見る。


「補修を続けるだけでは、解決にはならないのですね」

「はい」


 それ以上、神官長は言わなかった。


 補修には意味がある。

 少なくとも、光は今も残っている。


 だが、このまま神官たちが代わり続ければ終わる話でもなかった。




 ◇




 封印区画から少し離れた管理室へ移った。


 神官長が、先ほどまでの補修記録を卓上へ広げる。

 プレデリカがそれへ目を落とす。


「補修以外は?」


 神官長が顔を上げる。


「封印そのものを、もう一度組み直す方法はあります」

「できるの?」

「可能性はあります」


 言い切らなかった。


「ただ、今の魔力経路は正常ではありません。この状態のまま大きく組み直すのは危険です。調べ直して、準備する必要があります」


「どれくらい?」


 プレデリカが尋ねる。

 神官長は首を振った。


「正確には分かりません」


 短い返答だった。

 リアが聞く。


「その準備が整うまで、今の封印を保てますか?」

「保証はできません」


 室内が静かになった。


「じゃあ、待って再封印するだけじゃ危ないんだな」


 クランが言う。


「はい」


 神官長が頷いた。


「補修で時間を作り、その間に準備することはできます。ですが、その時間が十分にあるかまでは分かりません」


 リアは少し考えてから、扉へ目を向けた。


「一般区域の方は?」

「今のところ、混乱はありません」

「避難の準備は始められますか?」

「できます」

「でしたら、先に始めた方がいいと思います」


 神官長はすぐに頷いた。


「分かりました。そうします」




 ◇




 一般区域へ戻ると、先ほどまでとは空気が変わり始めていた。


 騒ぎにはなっていない。

 声を張り上げる者もいない。


 それでも、人は動いていた。


 杖をついた老人が、神官に付き添われて廊下を進んでいる。

 治療を受けていたらしい男が、別の神官に支えられて寝台から起き上がった。


 壁際では、蓋の閉じられた薬箱がいくつも運び出されている。

 普段使われている部屋の扉も、順に閉められていた。


 クランは歩きながら、その様子を見る。


 誰も走ってはいない。

 だが、いつもの神殿でもなかった。


 エルフィーナが途中で足を止めた。

 治療中の者を移していた神官から何かを聞き、寝台の方へ目をやる。


「その方は歩かせないでください。移動用の寝台を使いましょう」

「分かりました」

「薬も一緒に。治療記録も忘れないでください」


 必要なことだけを告げる。

 それが済むと、エルフィーナは一度クランたちのもとへ戻った。


 リアが尋ねる。


「こちらは任せていいですか?」

「はい。治療中の方から順に確認します」


 リアが頷いた。

 それ以上は言わなかった。


 廊下の先で、また一つ薬箱が運ばれていく。


 クランはその背を見送った。


 封印がまだ破れたわけではない。

 だからこそ、今ならこうして動ける。




 ◇




 避難の手配が一通り動き出した頃、エルフィーナも戻り、クランたちは神官長と合流した。


 封印区画へ戻る途中の廊下で、クランは足を緩める。


「一つ聞いていいか」

「はい」

「封印が破れてからじゃ駄目なのか?」


 神官長がクランを見る。


「外へ出たところで戦う、ということですか?」

「ああ」


 今のうちに人を逃がす。

 補修で時間を作る。


 それなら、わざわざ封印の内側へ近づく必要もない。


 神官長はすぐには否定しなかった。


「それも一つの方法です」


 クランは黙って続きを待つ。


「ただ、今の封印はヴァルネスを閉じ込めているだけではありません」

「他にもあるのか?」

「活動そのものを、ある程度抑えています」


 クランは眉を寄せた。


「封印が完全に失われれば、それもなくなる?」

「はい」

「どれくらい変わる?」

「分かりません」


 神官長は迷わず答えた。


「ですが、今より楽になるとは保証できません」


 クランは奥の封印区画へ続く扉を見る。


「……今より楽になると断定できる理由もないか」

「そういうことになります」


 プレデリカが腕を組む。


「でも、封印を残したまま中へ入れるの?」

「方法はあります」


 神官長が答える。


「管理側から内部へ近づくための手順があります。封印全体を解く必要はありません」


 リアの表情がわずかに引き締まった。


「抑えている力を残したまま?」

「大きく失わずに入ることはできます」

「安全なの?」


 プレデリカが聞く。


「安全とは言えません」


 それも即答だった。


「ですが、完全に破綻した後と、どちらが安全かも分かりません」


 クランは何も言わなかった。

 奥から、交代を告げる神官の声が聞こえた。




 ◇




 封印区画へ戻ると、補修は続いていた。

 先ほどとは別の神官たちが祈っている。


 青白い線は、今のところ揃っていた。


 リアが神官長へ向き直る。


「避難は進めましょう」

「はい」

「補修も交代しながら続けてください。応援もお願いします」

「手配します」


 リアは床の光と、その奥の扉を見た。


「私は、待つだけにはしたくありません。今なら、こちらから動く余地があります」


 プレデリカが頷く。


「私もその方がいいと思うわ。封印担当はここに残す。避難も続ける。その上で、内部への対処を考える」


 リアがクランを見る。


「クランは、どう思いますか?」


 封印を支えている神官たちがいる。

 さっき通った一般区域では、すでに人が動き始めていた。


 待つこともできる。

 だが、それで今より条件が良くなるとは限らない。


「……待つより、今動いた方がいいと思う」


 リアが小さく頷いた。

 クランは奥の扉へ目を向ける。


「俺は中へ行く」

「クラン」


 プレデリカの声に顔を上げる。

 彼女はクランの左肩を見ていた。


「貴方の肩は?」

「問題なく動きます」

「剣は?」

「使えます」

「その先は?」


 クランは一瞬黙った。


「おそらく長く使えば、また張ります」


 プレデリカは目を細めた。


「なら、それを忘れないで。痛みを隠したら、その時点で下がってもらうわ」

「はい、隊長」

「痛みが強くなる前に教えてください」


 エルフィーナが続けた。


「ああ」


 神官長が奥の扉へ向き直った。


「準備を始めます」


 扉の前で、神官たちが動き始める。


 青白い線は、まだ消えていなかった。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 皆様からいただく、応援やコメント、ブックマークや評価が、執筆を継続する最大のモチベーションになっています。


 もしよろしければ、評価やコメントにご協力いただけると嬉しいです。


 次回もよろしくお願いいたします。

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