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騎士団の命令を拒否した平民騎士は、何を守るのか ―ザイファール戦記―  作者: 鈴ヶ峰 リン
ミストラ水上神殿編

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第59話 残らない光

「……もう、落ちています」


 封印を見ていた神官が言った。

 先ほど補ったばかりの場所だった。


 青白い線は消えてはいない。

 だが、周囲と比べれば明らかに細い。


 神官長がその場へ膝をつき、線の状態を確かめる。


「先ほどの補強量が足りなかった可能性があります」


 リアが床へ目を落とした。


「もう一度、補えますか?」

「はい。今度は十分な量を入れます」


 神官長は近くにいた封印担当の神官たちを呼んだ。


 三人が、薄くなった箇所を囲む。

 祈りの声が重なった。


 淡い光が指先から落ち、床を走る線へ吸い込まれていく。


 細かった線が少しずつ太さを取り戻した。

 やがて、周囲とほとんど見分けがつかなくなる。


「戻りました」


 神官の一人が息を吐く。

 神官長も頷いた。


「これだけ入っていれば、通常なら保つはずです」


 クランは補った場所を見た。


 確かに戻っている。

 先ほどのように、すぐ細くなる様子もない。


 リアもプレデリカも、同じ線を見ていた。


 クランだけが、少し離れた床へ視線を移す。


 青白い線が一本。

 補った場所から離れたところで、周囲より強く光っている。


「……あそこ」


 神官長が振り返る。


「どうしました?」

「前から、あんなに明るかったか?」


 神官の一人がそちらへ歩く。


「いえ……」


 しゃがみ込み、光を確かめる。


「先ほどより強くなっています」

「流れを確認してください」


 神官長が立ち上がった。


 その時だった。


 ごっ──低い音がした。


 全員が止まる。


 何かが落ちた音ではない。

 石の奥から響いてきた。


 ごっ。


 二度目。


「壁から離れてください」


 リアの声が飛ぶ。

 クランが振り向く。


 区画の端。

 石壁の継ぎ目から、細い水がにじみ出していた。


 一本だったものが、二本になる。


 床へ落ちた水が溝へ流れる。


「水?」


 プレデリカが目を向けた。


 次の瞬間、継ぎ目から水が横へ噴き出した。


 強い勢いだった。

 だが、一瞬だけだった。


「閉鎖機構を!」


 神官長が声を上げる。

 壁際にいた神官二人が動いた。


 片方が壁に埋め込まれた金属の取っ手を引き、もう一人がその下の石製のレバーへ体重をかける。


 重い音を立てて、内部で何かが動いた。


 水の勢いが落ちる。

 やがて、石の継ぎ目から細く滴るだけになった。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 床へ広がった水が、溝の中を流れていく。


 プレデリカが壁を見る。


「ここ、水路なの?」

「古い導水路です」


 神官長が答えた。


「湖へつながっています。昔は水位調整や排水にも使われていました」

「今は?」

「通常は使っていません。ただ、止水の一部には魔術的な補助が残っています」


 プレデリカが床の封印線へ目を向ける。


「封印そのものとは別なのね」

「はい。ただし、周辺の魔力経路は一部近い場所を通っています」


 クランは壁ではなく、先ほどの線を見ていた。


「水が出る前だ」


 神官長がクランを見る。


「あそこの光が強くなった」


 クランは明るくなった線を指す。


「その直後に音がした」


 神官の一人が立ち上がった。


「確かに、あの場所の流れは強くなっています」


 別の神官が、閉鎖機構の近くを確認する。


「こちらは逆です。止水側へ送られていた魔力が、一時的に落ちています」


 神官長の表情が変わった。


 補強した場所を見る。


 それから、強く光っている線。


 最後に、水のにじんだ壁。


「……一点だけを補ったことで、別の経路へ流れが寄ったのかもしれません」

「入れた分が、別のところへ行った?」


 クランが聞く。


「その可能性があります」


 神官長はすぐに神官たちへ向き直った。


「一箇所だけではなく、周囲も同時に支えます」


 先ほどとは違い、神官たちは離れた位置についた。


 最初に弱った場所。

 光が強くなった場所。


 もう一つ、その間を走る線。


 三方向から、ゆっくりと光が戻っていく。


 強すぎた線が落ち着いた。

 薄かった場所が戻る。


 しばらく待つ。

 変化はない。


「……保っています」


 神官が言った。

 神官長も床を見たまま頷く。


「今度は一箇所へ偏っていません」


 リアが周囲を見渡した。


「では、この形なら維持できるのでしょうか?」

「今のところは」


 神官長の返答は慎重だった。


「ただ、複数の場所へ同時に流し続ける必要があります」


 プレデリカが神官たちを見る。


「何人必要なの?」

「常に複数人です」

「交代を入れれば?」

「短期間なら可能です。しかし、封印だけに全員を回すことはできません。神殿には他の役目もあります」


 プレデリカは返事をせず、神官たちへ目を向けた。


 最初に補強へ入った一人の呼吸が荒くなっている。


 額から汗が落ちた。

 祈りを続ける右手が、わずかに震えている。


 エルフィーナが近づいた。


「一度、止めてください」

「まだ続けられます」

「右手を見せてください」

「ですが、補強が――」

「呼吸も速くなっています」


 神官は言葉を止めた。

 それでも手を下ろそうとはしない。


 エルフィーナの声は変わらなかった。


「続けられるかどうかではありません」


 神官が彼女を見る。


「倒れてしまえば、次の補強にも入れません」


 神官長が二人を見た。


「中止します。交代してください」


 別の神官が位置へ入る。

 ようやく、疲れた神官が手を下ろした。


 エルフィーナが腕を支える。


「ゆっくり呼吸してください」

「……すみません」

「謝らなくて大丈夫です」


 エルフィーナはそれ以上責めなかった。


 クランは、交代した神官と床の光を交互に見る。


 線は保たれている。

 だが、人が離れればどうなるのか。


 神官長も同じことを考えたのか、記録係へ目を向けた。


「一度止めます。状態を見ます」


 祈りが一つずつ止まった。


 光そのものは消えない。

 しばらくは、どの線も同じ明るさを保っていた。


 誰も動かず、その変化を待つ。


 先ほどまで聞こえていた祈りがなくなったぶん、水滴の音だけが近く感じられた。


 少し時間が過ぎる。


 変わらない。

 神官の一人が息を吐いた。


「保っています」


 神官長が記録を確認する。


「投入量も――」

「……まただ」


 クランが言った。

 神官長が顔を上げる。


 少し離れた一本の線。

 先ほどまで揃っていた光が、ゆっくりと強くなっている。


 その反対側。

 別の線が細くなる。


 そして最初に補った場所も。


 わずかに。

 また薄くなり始めていた。


「確認します」


 神官たちがそれぞれの位置へ動く。


 測定。

 記録。


 先ほど入れた魔力量と照合する。


 リアは何も言わず、その作業を待っていた。


 やがて、一人の神官が記録から顔を上げる。


「投入した量は足りています」


 別の神官も続けた。


「補強にも失敗していません」


 リアが神官長を見る。


「それでも、また偏ったのですね」

「はい」


 神官長は返事をしたあと、しばらく床を見ていた。


 最初に弱くなった線。

 強くなった線。

 また細くなり始めた線。


 どれも同じ封印の一部だった。


「……量の問題ではありません」


 神官長が言った。

 リアがわずかに眉を寄せる。


「では?」


 神官長は、記録と床を見比べた。


「魔力が、正常に巡っていません」


 原因までは分からない。


 だが、少なくとも。

 足りないものを足せば終わる問題ではなかった。


 床を走る青白い光は、もう一様ではなかった。





     ◇



      


 ミストラ水上神殿から離れたマルム。


 グローリー邸の前で、ノエラは閉じた窓を見上げていた。

 足元では黒猫が不思議そうにノエラを見上げている。


 屋敷の中に、人の気配や人影はなかった。

 それでも、すぐには玄関へは向かわない。


 しばらく待った。


 扉が開くことも、通りから誰かが戻ってくることもなかった。


 ノエラは通りへ目を向ける。

 それから、玄関へ向かった。


 古い扉の前で足を止める。

 黒灰色の外套の袖から、片手が伸びた。


 手袋越しの指先が、鍵穴の縁に触れた。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 皆様からいただく、応援やコメント、ブックマークや評価が、執筆を継続する最大のモチベーションになっています。


 もしよろしければ、評価やコメントにご協力いただけると嬉しいです。


 次回もよろしくお願いいたします。

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