第58話 水上神殿の肖像画
木立が途切れた先で、視界がひらけた。
緩やかな坂の向こうに、大きな湖が広がっている。
雲の切れ間から差し込む陽が水面に砕け、細かな光となって揺れていた。
その中へ浮かぶように、白い建物が見えた。
ミストラ水上神殿。
湖岸から伸びた石造りの参道が、水の上を渡って神殿へ続いていた。
中央には高い尖塔があり、その周囲をいくつもの建物が取り囲んでいる。
白い壁と淡い青の屋根は、水面に映る空の色によく馴染んでいた。
「きれい」
隣で、アリシアが足を止めた。
「ああ」
クランも湖の先を見る。
聞いていた話から、もっと張り詰めた場所を想像していた。
だが、参道には参拝者がいる。
籠を抱えた老女とすれ違い、湖岸では白い法衣を着た神官が水桶を運んでいた。
神殿から出てきた親子が頭を下げ、連れ立って帰っていく姿もある。
少なくとも、外からは異変があるようには見えなかった。
「ずいぶん穏やかな場所ですね」
リアが湖の向こうを眺めながら言った。
「そうね」
プレデリカは答えながら、参道の先へ目を走らせている。
人の出入り。神官の配置。湖へ降りる階段。
景色を眺めているようで、確かめているものが違う。
クランには、その癖に覚えがあった。
「行きましょうか」
リアが歩き出す。
四人は白い参道へ足を踏み入れた。
左右には湖が広がっている。
冷たい風が水面を渡り、衣服の裾を揺らした。
神殿が近づくにつれ、白い壁に刻まれた彫刻まで見えるようになる。
水や波をかたどった模様に交じり、剣を掲げる人物や、両手を組んで祈る人々の姿もあった。
その奥に何が封じられているのか。
今はまだ、白い壁の向こうだった。
◇
神殿へ入ると、外より少し暖かかった。
高い天井から柔らかな光が落ちている。
正面の広間には祈りを捧げる人々の姿があり、壁際では神官が参拝者の話を聞いていた。
リアが受付の神官へ声をかけ、マルムから来たことを伝える。
「グローリー卿ですね。お話は伺っております」
若い神官が一礼した。
「神官長へお伝えします。少々お待ちいただけますか」
「はい。お願いいたします」
神官が奥へ向かう。
クランは広間を見回した。
ここにも混乱はない。
けれど、何人かの神官は参拝者のいる広間では普通に振る舞いながら、奥へ続く扉を抜けた途端に足を速めていた。
「クランさん?」
聞き覚えのある声に振り向く。
淡い翡翠色の長い髪が揺れた。
白を基調とした神官服。
額には水滴を思わせる小さな飾りがあり、その下で青緑の瞳がクランを見ている。
エルフィーナ・アルセラだった。
「やはり、クランさんですね」
「エルフィーナ」
「お久しぶりです」
穏やかに微笑んだあと、彼女の目がクランの左肩へ向いた。
「肩の具合はいかがですか?」
「普通には動く。剣も使える」
「痛みはありませんか?」
「今はない」
「今は、ですか?」
エルフィーナの目が戻ってくる。
「長く使うと、まだ張る」
「そうですか」
短く答え、彼女は少し考えた。
「傷を確認してもよろしいですか?」
「ああ、頼む」
答えると、後ろで小さな間があった。
振り返る。
リアがこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ。何でもありません」
何か言いたそうな顔だった。
「こちらへどうぞ」
エルフィーナに案内され、広間の脇にある小さな診察室へ入る。
簡素な椅子と机があり、棚には布や薬瓶が整然と並んでいた。
クランが腰を下ろすと、リアたちも中へ入ってくる。
エルフィーナはクランの左側に立った。
「腕を上げていただけますか?」
言われた通りに上げる。
「ゆっくりで結構です」
肩の高さを越え、頭の横まで上げても痛みはない。
「では、前へ」
動かす。
「後ろは?」
少し引く。
エルフィーナの指が肩へ触れた。
「ここは痛みますか?」
「いや」
「こちらは?」
「少し張る」
「分かりました。そのままでいてください」
肩の動きを確かめるため、エルフィーナが一歩近づく。
長い髪がさらりと落ち、その毛先がクランの頬をかすめた。
「力を抜いてください」
「抜いている」
「もう少しです」
「……こうか?」
「はい。そのまま」
肩の後ろを確かめるため、エルフィーナがもう半歩近づいた。
「……クラン」
リアの声がした。
「何だ?」
「何だか、今日はずいぶん素直ですね?」
声はいつも通りだった。
ただ、笑顔が少しだけ固い。
「診察だからな」
「……そうですか」
「ああ」
リアが黙った。
代わりにプレデリカが小さく息を吐く。
「クラン」
「はい、隊長」
「貴方、少しは距離というものを考えたらどうなの?」
クランはエルフィーナを見る。
「診察ですが」
「……そうね。貴方に言った私が悪かったわ」
「えるふぃーな」
アリシアが法衣の裾を軽く引いた。
「はい?」
「くらんとなかよし?」
エルフィーナが一度瞬きをする。
「治療をさせていただいた患者さんですからね」
「かんじゃ?」
「はい。治療を受ける方のことです」
アリシアは少し考えた。
「じゃあ、なかよし」
「そうだと嬉しいです」
アリシアは満足そうに頷いた。
「終わりました」
エルフィーナが身体を離し、クランの腕をゆっくり下ろした。
「日常生活には、もう大きな問題はなさそうです。動きもかなり戻っています」
「そうか」
「ただし」
声の調子は穏やかなままだった。
「長く剣を使った時に張るのであれば、完全に負担がなくなったわけではありません」
「ああ」
「痛みが強くなる前に休んでください」
「分かった」
「それから、調子を確かめるために必要以上に剣を振るのもやめてくださいね」
クランは少し黙った。
「……していない」
「本当ですか?」
「ああ」
隣からプレデリカの視線を感じる。
「隊長」
「何も言っていないわ」
「そうですか」
「でも、今の間は覚えておくわ」
「……はい」
エルフィーナが小さく笑った。
◇
診察室を出ると、神官長からの使いが待っていた。
案内に従い、神殿の奥へ進む。
広間から離れるにつれて参拝者の声は遠ざかり、厚い石壁を挟むうち、近くに聞こえていた湖の水音まで薄れていった。
白い廊下の壁には、肖像画が並んでいる。
古い時代の王や有名な騎士、聖剣を携えた人物、聖女の衣をまとった女性もいた。
どの肖像画にも、下部へ名前と短い文が刻まれている。
「ここは?」
リアが尋ねた。
「神殿に残されている記録の一部です」
一緒に歩いていたエルフィーナが答える。
「神殿と関わりの深い方々や、王国に大きな功績を残した方々の肖像画が飾られています」
「ずいぶん古いものもあるのね」
「はい。描き直されたものや修繕されたものもありますが、記録そのものは創建当時に近い時代から残っているそうです」
クランも壁へ目を向けながら歩いた。
知らない名が続く。
その中で、一枚の前に視線が止まった。
一人の男が描かれている。
騎士装束に、腰の剣。
華美な鎧ではない。
立ち姿は静かで、絵の中からこちらを見る目にも、勇ましさを誇示するようなものはなかった。
下に刻まれた名を見る。
ローウェン・アルグレイス。
その名を、クランは知っていた。
「アルグレイス子爵?」
プレデリカが銘を読んだ。
「子爵の肖像画が、王や英雄と同じ場所にあるの?」
「はい」
エルフィーナが肖像画を見上げる。
「正確には、かつてのアルグレイス子爵です。ローウェン様は、このミストラ水上神殿を守ってくださった方なのです」
「神殿を、ですか?」
リアが聞く。
「魔法騎士だったと伝わっています」
エルフィーナが答えたところで、廊下の先から年配の神官が歩いてきた。
「お待たせいたしました」
白髪の混じった男だった。
エルフィーナが一歩下がる。
「神官長です」
リアたちも挨拶を返した。
神官長は一行を見渡し、それから壁の肖像画へ目を向ける。
「ローウェン卿をご覧になっていたのですね」
「今回の封印と関係があるのですか?」
リアが尋ねた。
「あります」
「現在弱まりつつある封印を施したのが、ローウェン・アルグレイス様です」
リアが肖像画を見上げた。
「この方が……」
すぐに神官長へ視線を戻す。
「そもそも、封じられているのはどのような魔物なのですか?」
「深湖竜ヴァルネスです。古い水棲の魔物で、一般に想像される翼を持つ竜とは姿が異なると記録されています。水中だけでなく、陸上でも活動できるとも」
プレデリカが尋ねた。
「大きさは?」
「古い記録では、十メートルを超えていたとされています」
「それを、この人が封印したのね」
「はい」
神官長も肖像画を見る。
「かつて神殿が失われかけた時、ローウェン卿が深湖竜を封じました。その代償として、寿命の一部を失ったと記録されています」
「そこまでして……」
「もし封印できなければ、神殿そのものが失われていた可能性が高かったと言われています」
クランは何も言わず、絵の中の男を見た。
「アルグレイス家は、今も残っているのですか?」
神官長は首を横に振った。
「いいえ。ローウェン卿は後に爵位を返上しています。現在、アルグレイス子爵家という貴族家は存在しません」
「そうですか……」
それ以上、リアは聞かなかった。
「詳しい状況をご説明します。こちらへ」
神官長が歩き出す。
クランも肖像画から視線を外した。
◇
通された部屋には、大きな机が一つあった。
その上へ何枚もの紙が広げられている。
神官長は、そのうち一枚をリアたちの前へ置いた。
「まず、皆様がマルムで聞かれた通り、封印が弱っている原因そのものは分かっておりません」
原因不明。
その点は、マルムで聞いた話と同じだった。
「ただし、詳しく調べる中で一つ問題が見つかりました」
神官長の指が紙の上を動く。
円をいくつも重ねたような図で、その一部に印がついていた。
「弱まり方が、均一ではありません」
リアが紙へ目を落とす。
「一部だけ、ということですか?」
「はい」
「他の場所でも同じことは?」
「多少の劣化はあります。長い年月を経た封印ですから、それ自体は不自然ではありません」
神官長の指が一つの印で止まった。
「しかし、ここは違います。この箇所だけ、他より明らかに早い」
プレデリカが図を覗き込む。
「いつから?」
「兆候自体は以前からありました。ただ、差がはっきりしたのは最近です」
「補強はしているのよね?」
「もちろんです。封印を維持する神官が交代で魔力を補っています」
「それでも、その部分だけ?」
「はい。消耗が早いのです」
「経年による劣化だけでは説明しにくいと?」
「我々はそう考えています」
クランは図に残された印を見る。
紙の上では、小さな一点にすぎない。
「実際に見せてもらえるか」
神官長がクランを見る。
「はい。そのつもりです。ただし、封印区画です。安全を保証できる場所ではありません」
「分かっています」
リアも頷いた。
「確認させてください」
「承知しました」
「ぷれでりかもいく?」
アリシアが尋ねた。
「ええ」
「りあも?」
「はい」
「くらんも?」
「ああ」
アリシアは三人の顔を順に見た。
「……わたしも?」
リアがしゃがみ、目線を合わせる。
「アリシアには、ここで待っていてほしいです」
「あぶない?」
「はい。まだ何が起きているのか、分かっていません」
アリシアはしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「……わかった。ここでまつ」
「ありがとうございます」
神官長が近くの女性神官へ声をかける。
アリシアはその女性の隣へ移ってから、クランを見上げた。
「くらん」
「何だ?」
「ちゃんと、かえってくる?」
「ああ」
「ここで待っててくれ」
「うん」
「きをつけて」
「ああ」
◇
封印区画へ向かう扉は、神殿のさらに奥にあった。
神官長が鍵を開ける。
重い扉が内側へ動くと、冷えた空気が流れてきた。
階段を下りる。
壁は白い石から灰色の石へ変わり、装飾もなくなった。
聞こえるのは足音と、どこかを流れる水の音だけだった。
神官長の後にクランたち三人が続き、その後ろからエルフィーナと二人の封印担当神官が下りてくる。
階段の先には、広い円形の部屋があった。
壁と床に細い線が刻まれ、その中を淡い青白い光が流れている。
水面へ落ちた月明かりに似た色だった。
線は複雑に絡み合いながら部屋の奥へ続き、その先にはさらに大きな扉がある。
そこにも同じ光が走っていた。
クランは足を止めた。
「……あそこか」
左側。壁と床の境目。
ほかでは一定の太さを保っている線が、そこだけ細い。
「はい」
神官長が答えた。
「確かに……薄いですね」
リアも目を凝らす。
「見た目だけではありません。そこを維持するために必要な魔力も、ほかより多くなっています」
プレデリカは部屋の奥を確かめた。
「封じられている魔物そのものに変化は?」
「現在のところ、内部から急激な変化は確認されていません」
「少なくとも、今すぐ動き出す兆候はないのね」
「はい。現在のところは」
その時、エルフィーナが後ろにいた神官の顔を見た。
「顔色がよくありません」
「ですが、まだ――」
「無理をして倒れてしまえば、交代もできなくなります。今は休んでください」
「しかし、補強が」
「こちらは私が続けます」
もう一人の封印担当が答えた。
神官は迷った末に頷く。
「……お願いします」
エルフィーナは封印の線から離れ、休む神官のそばへ移った。
残った担当神官が前へ出る。
「応急の補強を行います」
神官長がリアたちを見る。
「今からご覧いただくのは、日常的に行っている補強です」
神官が床へ片膝をつき、両手を刻まれた線の上へかざした。
低い祈りの声。
指先から淡い光が生まれ、床の線へ吸い込まれていく。
糸のようだった部分が、少しずつ太さを取り戻した。
やがて、周囲との差がほとんど分からなくなる。
リアが息をついた。
「戻りましたね」
「はい。通常であれば、これでしばらく保ちます」
担当神官が額の汗を拭った。
プレデリカが尋ねる。
「今は、どれくらい保つの?」
「ばらつきがあります。数日保つこともありますし、もっと短いこともあります」
クランは補強された場所から目を外さなかった。
先ほどまで細かった線は、今では周囲とほとんど変わらない。
「記録を」
神官長は紙を取り出し、時刻と使用した魔力量、補強位置を書き留めていく。
やがて筆を置き、次の説明へ移ろうとする。
「……待ってくれ」
クランが言った。
先ほど補った場所。
青白い線が、わずかに細くなっている。
「今……」
リアが振り返る。
プレデリカも同じ場所を見た。
神官長が言葉を止めた。
消えたわけではない。
だが、見間違いでもなかった。
また同じ場所で、ゆっくりと薄くなった。
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