第57話 封印の報せ
収穫祭の賑わいが過ぎてから、マルムの空気は日に日に冷えていた。
通りでは冬支度を始める家が増え、軒先へ薪を積む姿も目立つようになっている。
吹き抜ける風にも、祭りの日にはなかった冷たさが混じっていた。
クランは窓際で左肩をゆっくり動かした。
腕はもう普通に上がる。
剣も振れる。
ただ、長く使えば肩の奥にまだ張りが残った。
「くらん」
声に振り返る。
アリシアが、水の入った杯を両手で持っていた。
「おみず」
「ああ。ありがとう」
受け取る。
向かいでは、リアが卓上の紙をまとめていた。
穏やかな時間だった。
戸を叩く音がしたのは、その直後だった。
クランが扉を開ける。
ワトル伯爵家の使いが一人、外に立っていた。
「グローリー卿、伯爵閣下がお呼びです。クラン殿もご一緒にお越しください」
リアが顔を上げる。
「おじ様が?」
「はい。急ぎのご用件とのことです」
クランはリアを見る。
リアは手にしていた紙を置いた。
「分かりました。クラン、すぐに向かいましょう」
「ああ」
クランは壁際の剣へ手を伸ばした。
アリシアも杯を卓へ置き、リアの後に続いた。
◇
ワトルのもとへ着くと、すでにガイゼルがいた。
卓上には、一通の書状が開かれている。
「来たか」
ワトルが言った。
「おじ様、何かあったのですか?」
「ミストラ水上神殿から急ぎの報せだ」
その名を聞き、クランはわずかに視線を上げた。
収穫祭の日。
左肩の傷を診た治療神官――エルフィーナ・アルセラが戻った神殿だ。
ワトルは書状へ目を落とす。
「神殿には、以前から強力な魔物を封じている区画がある」
ガイゼルが腕を組んだまま言う。
「その話なら聞いたことはある」
「ああ」
ワトルは頷く。
「問題は、その封印だ。結界の力が弱っているらしい」
リアの表情がわずかに引き締まる。
「破られたのですか?」
「いや。まだ封印自体は保たれている」
「なら、今すぐ魔物が出るわけじゃねえんだな」
ガイゼルが確認する。
「今のところはな」
ワトルは書状の一部を指先で押さえた。
「だが、神殿側が予想していたよりも悪化が早い」
クランは書状を見る。
「原因は?」
「分かっていない」
短い返答だった。
「外から何かされた可能性は?」
リアが尋ねる。
「それも含めて不明だ」
ワトルは断定しなかった。
人為的なものなのか。
封じられた魔物そのものが原因なのか。
ただ単に限界が近づいているだけなのか。
今はまだ、どれとも決められない。
ガイゼルが顎へ手を当てる。
「で、神殿は何を求めてきた」
「まず現地の確認だ」
ワトルが答える。
「神官たちは封印の維持に当たっている。だが、もし作業中に状況が変わった場合、神官だけでは対処できない」
「護衛か」
「ああ。それと、必要なら外から使える人手を回してほしいとのことだ」
クランはワトルを見る。
「討伐じゃないんですね」
「違う」
ワトルの返答に迷いはなかった。
「現時点で、討伐へ切り替える理由はない」
ガイゼルが鼻を鳴らす。
「当然だな」
「まず封印を維持できるか確認する。そのための支援だ」
ワトルは一度、リアを見る。
「リア」
「はい」
「きみに行ってもらいたい」
リアはすぐに頷いた。
「承知しました」
「神殿側の指示を聞き、現状を確認してくれ。補強で済むなら、それでいい」
「はい」
「ただし――」
ワトルの声がわずかに低くなる。
「状況が変わった場合、自分たちだけで何とかしようとするな」
リアはワトルを見る。
「危険だと判断したら戻れ。討伐を命じているわけではない」
「分かりました」
クランが口を開く。
「ワトル様」
「なんだ」
「俺も行きます」
ワトルはクランの左肩へ一度視線を向けた。
「身体は?」
「普通には動きます。剣も使える」
「長く使った場合は」
「まだ張ります」
クランは隠さず答えた。
ワトルはそれを聞いてから、短く頷いた。
「なら、無理をするな」
「はい」
横からガイゼルが口を挟む。
「小僧に『無理するな』で通じるのか?」
クランはガイゼルを見る。
「前よりは」
「自分で言うことじゃねえだろ」
ガイゼルが鼻を鳴らした。
リアがわずかに困ったような顔をする。
ワトルは話を戻した。
「ガイゼル」
「あ?」
「おまえは残れ」
ガイゼルの眉が動く。
「俺も行った方が早いだろ」
「何かあった時、マルム側で動ける人間が必要だ」
ワトルは言った。
「神殿から追加の支援要請が来る可能性もある。最悪の場合は、人員をまとめて送らなければならない」
ガイゼルは少し黙った。
「……分かった」
不満は残っているようだったが、反論はしなかった。
「こっちは俺が見ておく」
「ああ。頼む」
リアがアリシアへ目を向ける。
話の間、アリシアは少し離れた場所で静かに待っていた。
「アリシアも一緒に連れて行きます」
ワトルは少女を見る。
「封印区画へは入れるな」
「もちろんです」
「神殿そのものは今も通常通り人を受け入れている。危険な区域へ近づけなければいい」
「はい」
アリシアはリアを見上げる。
「いく?」
「はい。一緒に行きましょう」
「うん」
話は決まった。
クランは卓上の書状へもう一度目を向ける。
封印。
まだ破れてはいない。
原因も分からない。
だからこそ、現地を見る必要がある。
「支度してきます」
リアが言った。
「ああ」
ワトルは頷く。
「急ぐ必要はある。だが、焦るな」
「承知しました」
◇
ワトルのもとを出たあと、リアはそのまま騎士団宿舎へ向かった。
クランとアリシアも続いた。
「ぷれでりかも?」
歩きながら、アリシアが尋ねる。
「まだ分かりません」
リアが答えた。
「お願いしてみます。ただ、決めるのはプレデリカです」
クランは何も言わなかった。
プレデリカは今、ワトルの客人として宿舎を使っている。
ルクレール騎士団へ戻るつもりはない。
だが、次にどこへ行くのかも、まだ決めていない。
誰かの命令で動く立場ではなかった。
宿舎へ着きプレデリカの部屋へ向かう。
プレデリカは、自分の装備を手入れしていた。
壁際には槍が立てかけられている。
「リア?」
プレデリカが顔を上げる。
「何かあったの?」
「ミストラ水上神殿へ行くことになりました」
手入れをしていた手が止まる。
「水上神殿?」
「封印されている魔物の結界が弱っているそうです」
リアは必要なことだけを伝えた。
「まだ封印は保たれています。今回は討伐ではありません。現地の確認と、神殿側の補助です」
プレデリカの視線がクランへ向く。
「貴方も行くの?」
「はい、行きます」
「肩は?」
「問題ありません」
プレデリカの目がわずかに細くなる。
「長く使えば、時々張ります」
クランは続けた。
その答えを聞いて、プレデリカは何も言わなかった。
ただ、先ほどより視線が少しだけ柔らいだように見えた。
リアがプレデリカを見る。
「プレデリカ。貴女も、一緒に来ていただけませんか?」
プレデリカはすぐには答えなかった。
視線が一度、クランの肩へ向く。
それから手にしていた布を置き、槍を持ち上げた。
「ええ。行くわ」
その返答にリアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
プレデリカは頷くと装備へ手を伸ばす。
「支度するわ。先に準備していて」
「はい」
クランは黙って頷いた。
三人は宿舎を出た。
◇
支度を終えたプレデリカと合流したのは、それから間もなくだった。
リア。
アリシア。
プレデリカ。
クランは三人を見てから、マルムの外へ続く道へ目を向ける。
冷たい風が吹いている。
遠くの空は明るい。
まだ、封印が破れたわけではない。
何が起きているのかも分からない。
だから、見に行く。
「行きましょう」
リアが言う。
「ああ」
「うん」
「ええ」
四人は、ミストラ水上神殿へ向けてマルムを発った。
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