表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/58

第54話 マルムの収穫祭

 朝の光が、グローリー邸の窓から差し込んでいた。

 収穫祭の始まりを告げる鐘は、まだ鳴っていない。


 それでも街の方角からは、人の行き交う声や、荷車の車輪が石畳を踏む音が聞こえてくる。

 焼き始めた菓子の甘い匂いも、秋の風に混じって部屋まで届いていた。


 鏡の前では、リアが白い長衣に身を包んで立っている。

 裾と袖口には、麦穂を思わせる細い金糸の刺繍が施されていた。


 左肩から掛けられた深紺のマントは、胸元の銀具で留められている。


 腰にあるのは、普段使っている実戦用の剣ではない。

 鞘と柄に控えめな装飾を施した、祭礼用の剣だった。


 金色の髪は後ろで丁寧に編み上げられ、青い髪紐と、麦穂に白い花を合わせた小さな飾りが添えられている。


「少しだけ、顔を上げて」


 リアの背後に立ったプレデリカが、髪飾りの位置を直す。


「このくらいでしょうか?」

「もう少し右ね。その方が、マントの留め具と重ならないわ」

「分かりました」

「貴女が動くと直せないのだけれど」

「……すみません、プレデリカ」


 リアは背筋を伸ばし、そのまま動きを止めた。


 部屋の隅に置かれた椅子では、クランが腰掛けている。

 左腕は、昨日までと同じように吊り布で固定されていた。


 その隣では、白い帽子を被ったアリシアが、鏡の前のリアをじっと見上げている。

 プレデリカが髪飾りから手を離した。


「これでいいわ」


 リアが鏡の方へ顔を向けた。

 その姿を見たアリシアの赤い瞳が、大きく開く。


「りあ、きれい」

「ありがとうございます、アリシア」


 リアは照れたように笑った。


「いつものりあと、ちがう」

「今日はお祭りですから」

「おひめさまみたい」


 リアの指先が止まった。

 プレデリカは鏡越しにリアを見たが、何も触れず、深紺のマントの端を整えた。


「今日は、みんなの前に立つ騎士の服よ」

「きしの、ふく?」

「ええ。リアがお仕事をする時の服ね」


 アリシアは分かったような、分からないような顔で頷いた。


 クランは椅子に座ったまま、リアを見ていた。

 白と金の衣装は、普段の騎士装よりも柔らかな印象を与えている。


 だが、腰の儀礼剣と深紺のマントが、ただ華やかなだけの装束には見せていなかった。


 祭りのために着飾った女性ではない。

 この街で役目を持つ騎士の姿だった。


 リアが鏡から目を離した。

 碧い瞳が、クランの視線と重なる。


「……クラン?」


 クランは一度、言葉を探した。


「ああ……似合っている」


 リアの返事が、わずかに遅れた。


「……ありがとうございます」


 それだけを告げて、リアは髪飾りへ触れようとした。

 すぐにプレデリカがその手を押さえる。


「触らないで。せっかく整えたのだから」

「はい」


 アリシアは、今度はプレデリカを見上げた。


「ぷれでりか、おまつり、いかないの?」


 プレデリカは鏡の前から離れ、卓の上に残された髪紐を片づける。


「私は残るわ。あまり賑やかなところは得意ではないの」

「おまつり、たのしいよ?」

「そうでしょうね」

「いっしょに、いこう?」


 アリシアはプレデリカの袖口を、小さくつまんだ。

 プレデリカはその手へ目を落とす。


「今日は、リアとクランと行ってきなさい」

「ぷれでりかは?」

「帰ってきたら、何があったか聞かせて」

「ぜんぶ?」

「覚えている範囲でいいわ」


 アリシアは考えたあと、頷いた。


「おみやげも、かう」

「無理に買わなくていいのよ」

「かう」


 今度の返事には迷いがなかった。

 プレデリカは一度だけ瞬きをしてから、アリシアの白い帽子の位置を直した。


「では、楽しみにしているわ」


 リアは部屋の壁に掛けてあったクランの黒い外套を取った。


「お手伝いします」

「ああ。頼む」


 クランは立ち上がらず、座ったまま身体を前へ傾けた。


 リアは吊り布へ触れないよう、外套を背中から右肩へ掛ける。

 左側は腕を覆う程度に乗せ、胸元の留め具を緩めに留めた。


「苦しくありませんか?」

「ああ、大丈夫だ」

「分かりました」


 プレデリカが、クランの左腕を確認する。


「一時間まで。絶対に無理はしない事」

「分かっています、隊長」

「昨日より人が多いわ。痛みが増えたら、すぐに言いなさい」

「はい」

「それから、診察の時間を忘れないこと」


 リアが頷く。


「開始式のあとに伺う予定です」

「遅れないように」

「はい、プレデリカ」


 クランは椅子の座面へ右手をつき、脚へ力を込めて立ち上がった。


 左肩の奥が、鈍く軋む。

 息を止めず、姿勢を整える。


 アリシアが近づき、右側に立った。


 手を貸そうとしているわけではない。

 ただ、一緒に行くのを待っている。


「行くか」

「うん」


 リアが扉を開けた。

 外から入り込んだ秋の風が、白い長衣と深紺のマントを揺らす。


「行ってまいります、プレデリカ」

「ええ。行ってらっしゃい、リア」


 アリシアも振り返った。


「いってきます、ぷれでりか」

「行ってらっしゃい、アリシア」


 クランはプレデリカへ軽く頭を下げる。


「行ってきます、隊長」

「ええ、くれぐれも無理をしないように」


 三人は、グローリー邸を出た。



     ◇



 大通りへ近づくにつれ、人の数が増えていった。

 家々の軒先には、麦穂を束ねた飾りや、赤と橙の色布が掛けられている。


 冬支度に使う厚手の布を店先へ並べる者がいる一方で、子どもたちは木の実をつないだ飾りを首に掛け、通りを走り回っていた。


 リアは、クランの歩調に合わせている。

 普段であれば十分も掛からない道を、ゆっくり時間をかけて歩いた。


 アリシアは先へ行きかけては、何度も戻ってくる。


「くらん、みて」


 道の端に、麦藁で作られた小さな鳥が並んでいた。


「ああ」

「あれ、なんのとり?」

「分からない」

「りあは?」

「豊作を運んでくる鳥だと、作った方から聞いたことがあります」

「ほんとに、はこぶの?」

「少なくとも、作った方はそう願っているのだと思いますよ」


 アリシアは鳥の飾りをしばらく眺めたあと、クランの横へ戻った。


 中央広場へ入ると、さらに多くの人々が集まっていた。

 広場の中央には、麦穂と木の実で飾られた高い柱が立てられている。


 その周囲には露店が並び、焼き菓子や串焼きの匂いが漂っていた。

 広場の端では、笛と弦楽器を持った男たちが音を確かめている。


 まだ演奏は始まっていない。

 けれど、子どもたちは待ちきれないように、その周りで跳ねていた。


「クラン、こちらへ」


 リアが広場の端に置かれた長椅子を示した。


 クランは腰を下ろす。

 座ったことで、左肩へ掛かっていた重さが和らいだ。


 アリシアも隣へ座る。


「私は開始式へ出てまいります」

「ああ」

「ここにいてくださいね」

「分かっている」


 リアはクランの顔色を確かめた。


「痛みが増えた時は――」

「言う」

「はい」


 リアは頷き、広場の中央へ向かった。

 白い長衣と深紺のマントが、人の間を進んでいく。


 やがて、広場の奥からワトルが姿を現した。


 祭りのために特別な冠や豪華な衣装を身につけているわけではない。

 普段より整えられた上着を着てはいるが、腰にはいつもの剣がある。


 リアはワトルより一段低い場所に立った。

 領主に仕える特務騎士として、その場へ控えている。


 人々の声が、次第に静まっていった。

 ワトルは広場を見渡す。


「今年も、この日を迎えられた」


 大きく張り上げた声ではない。

 それでも、広場の端にいるクランのところまで届いた。


「畑を耕した者。麦を刈った者。荷を運んだ者。道具を作り、冬を迎える支度を整えてきた者。皆の働きがあって、今日がある」


 ワトルは、飾られた麦穂へ目を向けた。


「収穫に感謝し、働いた者を労い、今日一日を楽しんでほしい」


 言葉を切る。


「明日からの仕事は、明日になってから考えればいい」


 広場のあちこちから笑い声が上がった。

 ワトルの口元も緩む。


「マルムの収穫祭を始める」


 鐘が鳴った。


 一度。

 続けて、二度。


 広場の上へ、澄んだ音が広がっていく。

 待っていた楽器の音が重なり、露店からは客を呼ぶ声が上がった。


 子どもたちが一斉に駆け出す。


「はじまった」


 アリシアが椅子から身を乗り出した。


「ああ」


 人々が動き始める。


 串焼きを手にした男が仲間を呼び、焼き菓子の店にはすぐに列ができた。

 冬用の手袋を並べた女は、近くを通った客へ品物を広げて見せている。


 誰かの顔色をうかがっている者はいなかった。

 鐘の音が消えても、人々の声は残った。


 リアが開始式の場所から降りる。


「グローリー卿!」


 露店の前にいた年配の女が声をかけた。


「今年も立派な式でしたね」

「私は立っていただけです。お言葉は、伯爵のものです」

「それでも、その衣装がよく似合っていますよ」

「ありがとうございます」


 別の男もリアへ手を上げた。


「グローリー卿、あとでうちの焼き菓子も見ていってくれ!」

「はい。時間がありましたら、伺います」

「今年は木の実を増やしたんだ!」


 リアは一人ひとりへ、立ち止まりすぎない程度に応じていく。


 クランは椅子からその姿を見ていた。

 任務から戻った日も、人々は同じようにリアへ声をかけていた。


 誰かに命じられたからではない。

 リアが、この街で積み重ねてきたものがある。


「りあ、にんき」


 アリシアが言った。


「ああ」

「くらんも、よばれる?」

「呼ばれない」

「なんで?」

「知られていないからだ」

「くらん、つよいのに」

「強さは関係ない」


 アリシアは納得していないようだった。


 その時、広場を歩いていた男が、クランへ頭を下げた。

 任務から戻った時、馬車の近くにいた騎士だった。


 クランも、座ったまま短く頭を下げる。


「よばれた」

「呼ばれてはいない」

「でも、みた」

「……そうだな」


 リアが二人のところへ戻ってきた。


「お待たせしました」

「りあ、おかえり」

「はい。ただいま戻りました」


 リアはクランの様子を確かめる。


「もう少し休まれますか?」

「十分休んだ」

「では、ゆっくり見て回りましょう」


 三人は、人の流れが少ない広場の端から歩き始めた。



     ◇



 最初にアリシアが足を止めたのは、木の実の焼き菓子を売る店だった。


 丸く焼かれた小さな菓子の表面に、砕いた木の実が散らされている。

 店先から流れてくる香ばしい匂いに、アリシアの鼻が動いた。


「食べるか」


 クランが聞いた。

 アリシアは菓子を見たまま、頷く。


「うん」


 クランは右手で銅貨を取り出した。


「三つ頼む」


 店主が菓子を紙に包む。


「毎度。お嬢ちゃんには、まだ温かいから気をつけてな」

「ありがとう」


 包みを受け取ったのはリアだった。


「一つでよかったのではありませんか?」

「俺たちの分もある」

「そうですね」


 進んだ先では、小さな肉入りパンが並んでいた。

 焼きたてらしく、表面から薄い湯気が立っている。


 アリシアは足を止めなかった。

 ただ、通り過ぎながら顔だけを店の方へ向けた。


「食べるか」

「さっき、かった」

「これは別だ」

「別ですが……」


 リアが何か言う前に、クランは店主へ銅貨を渡した。

 新しい包みも、リアの腕へ収まる。


 さらに進んだところでは、木串に刺した果物へ蜜をかけて売っていた。

 陽の光を受け、表面が薄く光っている。


 アリシアの歩みが遅くなった。


「食べるか」

「くらん」

「なんだ」

「くらん、かいすぎ」


 クランは店の前で足を止めた。


 リアの腕には、すでに二つの包みがある。

 アリシアはそれを指差した。


「ぜんぶ、いま、たべられない」

「……そうか」

「そうです」


 リアが穏やかに続けた。


「残ったものは持ち帰れますが、まだ診察もあります」


 クランは蜜がけの果物を一度見たあと、銅貨を戻した。

 店主は何も言わず、別の客へ品物を渡す。


「ぷれでりかの、ない」


 アリシアが言った。


「隊長の分か」

「うん。おみやげ」


 クランはリアが持っている包みを見る。


「どちらかを持って帰ればいい」

「これは、わたしたちの」

「全部食べるのか」

「あとで、たべる」

「では、帰りに一つだけ選びましょう」


 リアが言った。

 アリシアは頷く。


「ひとつ」


 通りの先では、子どもたちが木の輪を投げていた。

 杭へ輪が入るたび、小さな歓声が上がる。


 アリシアはそちらを見たが、駆け出さず、クランの横を歩いた。


 クランの歩幅は、広場を出た時よりも狭くなっていた。

 左肩の奥に、重い熱が残っている。


 歩くたびに大きく痛むわけではない。

 だが、人を避けるために身体の向きを変えると、吊り布が張り、傷の周囲が引かれた。


 リアが歩みを緩める。


「休みませんか?」

「まだ歩ける」

「歩けることと、休まなくてよいことは同じではありません」


 クランは近くの腰掛けを見る。


「……そうだな」


 三人は通りの端へ寄り、木製の腰掛けへ座った。

 リアが包みを膝へ置く。


「痛みますか?」


 クランは左肩を動かさないまま、呼吸を確かめた。


「少し重い」

「今朝よりも?」

「ああ」


 リアはそれ以上問い詰めず、治療所の方角を見た。


「診察の時間まで、あまりありません」

「向かおう」

「もう少し休んでからでも間に合います」


 クランは返事の代わりに、背を腰掛けへ預けた。


 アリシアは包みから、木の実の焼き菓子を一つ取り出した。


 両手で半分に割ろうとする。

 まだ温かく、固いらしい。


 クランは右手を出した。


「貸せ」


 受け取った菓子を、器用に片手で割る。

 片方をアリシアへ返し、残りをリアへ差し出した。


「クランの分では?」

「俺はあとで食べる」

「では、いただきます」


 リアは菓子を口に運んだ。

 アリシアも少しずつ菓子をかじる。


「おいしい」

「そうか」

「くらんも、あとで」

「ああ」


 菓子を食べ終えるまで休み、三人は治療所へ向かった。



     ◇



 広場に近い治療所の前には、普段よりも大きな白布が掛けられていた。

 祭りの日に怪我をした者も受け入れるため、一部を臨時の施療室として使っているらしい。


 入口近くの椅子では、足首へ布を巻かれた少年が、母親に叱られていた。

 別の場所では、指先を火傷した男が、水を張った器へ手を入れている。


 人は多いが、混乱してはいない。

 受付にいた女がリアを見ると、奥へ声をかけた。


「クランさんの診察ですね。奥へどうぞ」


 クランたちは、仕切り布の向こうへ通された。

 小さな施療室には、木製の診察台と椅子が置かれている。


 壁際には薬草と小瓶が並び、奥の扉は換気のために開け放たれていた。

 扉の向こうには、小さな薬草庭が見える。


 アリシアは、裏口に近い椅子へ座った。


 リアは荷物を卓へ置き、クランのそばに立つ。

 これまでクランを診ていた治療師が、奥から出てきた。


「座れ」


 クランは診察台へ腰を下ろす。

 治療師は吊り布の位置を確認し、クランの顔を見た。


「祭りを見てきたな」

「ああ」

「どのくらい歩いた」

「家から広場までと、露店を少し」

「少し、か」


 治療師はリアへ目を向ける。


「途中で二度休んでいます」

「痛みは」

「朝より重い」


 治療師は吊り布の結び目へ手を掛けた。


「外すぞ。左腕へ力を入れるな」

「ああ」


 吊り布が緩められ、包帯の上から傷の周囲を確認される。

 クランが呼吸をするたび、包帯の下で胸が動いた。


「傷は順調に閉じ始めている。だが、奥の熱がまだ引かない」


 治療師は、薬棚の前にいた女性へ顔を向けた。


「今日は神殿から手を借りている。彼女にも診てもらおう」


 呼ばれた女性が振り返る。

 淡い翡翠色の髪が、背中で揺れた。


 長い髪の左右には細い編み込みがあり、その間、額の中央には小さな水滴を思わせる飾りが下がっている。


 白を基調とした神官服の襟元には、黒いインナーが見えた。

 腰には、二本の小瓶と包帯入れ、小さな治療具の袋が提げられている。


 女性はクランたちの前へ進み、一礼する。


「エルフィーナ・アルセラと申します。ミストラ水上神殿から、収穫祭の救護をお手伝いに来ています」

「クランだ」

「リア・グローリーと申します」


 リアが答える。

 アリシアも椅子の上で姿勢を正した。


「あ、ありしあ」


 エルフィーナはアリシアへ微笑む。


「よろしくお願いします、アリシアさん」


 それからクランへ向き直った。


「クランさん。傷を確認してもよろしいですか?」

「ああ」


 エルフィーナは治療師から、負傷した日とその後の経過を短く聞いた。

 包帯の端へ指を掛ける。


「必要なところだけ緩めます。痛みが強ければ、すぐに教えてください」


 包帯が外される。

 傷口そのものは閉じ始めていた。


 だが、周囲には赤みが残り、左肩から脇へ掛けて腫れている。


 エルフィーナは傷へ直接触れず、まず周囲を目で確かめた。

 次に手の甲を近づけ、熱を測る。


「一番強く痛むのは、どのあたりですか?」

「左肩の奥だ。深く息をすると、少し響く」

「今朝と比べて、痛みは増えましたか?」

「歩いてから、重くなった」

「腕を動かそうとはしましたか?」

「無理には動かしていない」


 リアは何も言わず、クランを見た。


「深く息を吸っていただけますか?」


 クランは呼吸を整え、息を吸った。

 胸が広がるにつれ、左肩の奥へ鈍い痛みが走る。


 眉が動く。

 エルフィーナは、その変化を見逃さなかった。


「傷口は閉じ始めています。ですが、奥にはまだ熱が残っています」


 指先で、腫れの外側を確かめる。


「治る途中で負荷が掛かり、周囲の筋肉も強張っているようです」

「悪化しているのか」

「今すぐ傷が開く状態ではありません。ただ、このまま歩き続ければ、治りは遅くなります」


 エルフィーナは診察台の脇へ手を伸ばした。

 壁に立てかけられていた、短い神官杖を取る。


 白銀の杖頭は水蓮の形に開き、その中央には淡い水色の石が収まっていた。


「熱と腫れを、少し和らげます」


 杖頭を、クランの左肩から離してかざす。


「――《リリーフ》」


 水滴型の石に、淡い白水色の光が宿った。

 細い水光が傷の周囲へ集まり、薄い翡翠色の粒が、水面へ雫を落としたような波紋を広げていく。


 左肩の奥にこもっていた熱が、次第に引いていった。

 息を吸った時の鋭い痛みも、重い鈍痛へと変わる。


 消えたわけではない。

 それでも、先ほどより深く呼吸ができた。


 エルフィーナが杖を下ろす。


「いかがですか?」

「軽くなった」


 クランは吊り布の中で、左肩へ力を入れかけた。


「動かさないでください」


 穏やかな声だった。

 だが、クランの動きは止まった。


「痛みを軽くしただけです。傷が治ったわけではありません」

「どこまで動くか、確かめようとした」

「確かめる必要はありません」


 エルフィーナの眼差しに、譲る気配はなかった。


「無茶をさせるために治しているのではありません」


 クランはエルフィーナを見た。


「……分かった」

「はい」


 それ以上、エルフィーナは責めなかった。

 短い杖を元の場所へ戻し、治療師とともに包帯を巻き直す。


 リアも同じ注意を繰り返さず、静かにその様子を見守っていた。


 新しい包帯が傷の周囲へ巻かれ、左腕が再び吊り布の中へ収められる。

 エルフィーナが結び目の位置を調整した。


「指先に痺れはありませんか?」

「ない」

「きつすぎる感じは?」

「苦しくない」

「今日は、これ以上歩かないようにしてください」


 クランは入口の方へ目を向けた。


「痛みが軽くなっても、歩ける時間が増えたわけではありません」


 クランは短く頷いた。

 そのやり取りを、アリシアは椅子の上から見ていた。


 クランの包帯が巻かれている。

 治療師が吊り布の端を確認し、エルフィーナが結び目へ指を添えていた。


 開いた裏口のそばで、何かが動いた。

 黒い尾だった。


 アリシアはそちらを見る。


 黒猫が、戸口から半分だけ顔を出していた。

 目が合う。


「ねこ」


 小さく呟いた。

 外から聞こえる祭りの音と、包帯を扱う衣擦れに紛れ、誰も振り返らなかった。


 黒猫は一度だけ尾を動かし、裏口の向こうへ消えた。


 アリシアは大人たちを見る。


 クランは、吊り布の位置を確かめられている。

 リアも、その様子を見ていた。


 アリシアは椅子から降りた。

 黒猫が消えた戸口へ、数歩だけ進む。



     ◇



 裏口の向こうには、小さな庭があった。

 細い道の両側に、薬草が植えられている。


 葉の形も、匂いも、それぞれ違う。

 アリシアは踏まないように、道の真ん中を歩いた。


 黒猫は八歩ほど先にいた。

 振り返り、アリシアを見る。


「まって」


 黒猫は待たなかった。

 低い石壁まで歩き、軽く地面を蹴る。


 黒い身体が石壁の上へ乗った。


 その向こうに、人がいた。

 灰色の髪の女性だった。


 黒い外套を着て、石壁の外側に立っている。

 黒猫は石壁から女性の方へ降りた。


 その足元へ身体を寄せる。

 白い手袋をした指が、黒猫の背を一度だけ撫でた。


 アリシアは石壁の前で止まった。


「そのねこ、あなたの?」


 女性がアリシアをちらりと見る。

 薄い色の目だった。


「違う」


 短い声。


「勝手についてくるだけ」


 黒猫は、女性の足元から離れない。


「でも、いっしょ」


 アリシアが言うと、女性の指がもう一度、黒猫の背を撫でた。


「あなたも、誰かと一緒なの?」

「くらんと、りあと、きた」

「その人は、あなたを守ってくれる?」

「うん」


 風が吹き、灰色の髪が揺れる。


「守ると言っても、間違えることはあるよ」


 女性は、黒猫へ目を落とした。


「約束を守れないこともある」


 アリシアは考えた。


 クランは、つよい。

 でも、いたいのに動こうとする。


 さっきも、エルフィーナに止められていた。


「くらんは、まちがえる」


 女性の指が、黒猫の背で止まった。


「むちゃも、たくさんする」

「……それでも?」


 アリシアは頷いた。


「でも、かえるっていった」


 女性は、何も言わなかった。

 黒猫を撫でていた指も、動かない。


 薄い色の目が、わずかに揺れた。

 庭の向こうから、声が聞こえた。


「アリシア!」


 クランの声だった。

 アリシアは裏口の方を振り返る。


「くらん」


 もう一度、石壁の向こうを見る。


 灰色の髪の女性は、背を向けていた。

 黒い外套が、道の向こうへ遠ざかっていく。


 黒猫は石壁の上で一度だけアリシアを見た。

 それから女性の後を追い、向こう側へ降りた。


 アリシアは、治療所の方へ戻った。



     ◇



 吊り布を整え終えたクランが顔を上げると、裏口近くの椅子が空いていた。

 アリシアの白い帽子もない。


 反射的に、診察台から立ち上がりかける。

 左肩の奥へ、鋭い痛みが走った。


 身体が止まる。

 クランは無理に足を出さず、開いた裏口を見た。


「リア。外を見てくれ」

「はい」


 リアはすぐに裏口へ向かった。

 エルフィーナがクランの前へ一歩出る。


「そのままでいてください」


 クランは右手を診察台へ置き、身体を支えた。

 治療師は吊り布がずれていないかを確認する。


 リアが薬草庭へ出る。


「アリシア?」


 返事はない。

 クランは息を吸った。


 左肩へ鈍い痛みが残っている。

 それでも、呼吸を止めなかった。


「アリシア!」

「くらん」


 庭の奥から、小さな声が返った。


 薬草の間を、白い帽子が動く。

 リアが庭の入口でアリシアを迎えた。


「アリシア。怪我はありませんか?」

「ない」

「転びませんでしたか?」

「ころんでない」


 リアはアリシアの腕と足元を確かめ、そのまま施療室へ連れ戻した。


 クランは診察台の前まで来たアリシアへ、右手を伸ばす。

 白い帽子の上へ手を置いた。


「どこへ行っていた」

「くろねこがいた」

「猫を追いかけたのですか?」


 リアが尋ねる。

 アリシアは頷いた。


「おにわに、いた」


 クランは裏口の向こうを見る。


 小さな薬草庭と、低い石壁があるだけだった。

 人の姿はない。


「誰かいたのか」

「くろい、おねえちゃん。ねこと、いっしょ」


 リアがアリシアの前へ屈む。


「その方に、触られたりしましたか?」

「ううん」

「怖いことをされませんでしたか?」

「されてない。おはなししただけ」

「どんな方でしたか?」

「はいいろの、かみ。くろい、ふく」

「そうですか」


 クランの右手が、白い帽子の上で止まる。


「何を話した」

「くらんのこと」

「俺の?」

「うん。かえるっていったって、おしえた」


 クランはアリシアを見た。


「……そうか」


 右手で、白い帽子の上を一度だけ撫でる。


 リアは薬草庭へ目を向けた。

 低い石壁の向こうには、祭りの人声が遠く流れている。


 誰がいたのかは分からない。


 今、目の前にいるアリシアは無事だった。

 エルフィーナがアリシアの前へ屈む。


「アリシアさん。どこか、ぶつけたところはありませんか?」

「ない」

「手を見せていただけますか?」


 アリシアは両手を差し出した。

 エルフィーナは掌と指先を確認し、袖口の汚れも見る。


「怪我はありませんね」

「うん」

「ですが、次からは、大人の方へ声をかけてから行ってください」


 声は穏やかだった。


「見える場所でも、急に姿がなくなると、皆さんが心配します」


 アリシアはクランとリアを交互に見た。


「ごめんなさい」

「戻ってきたならいい」


 クランが言う。

 リアは、アリシアの帽子を整えた。


「次は、私にも教えてくださいね」

「うん」


 エルフィーナは立ち上がり、今度はクランを見る。


「クランさん」

「なんだ」

「今日は、このままお帰りください」

「ああ」

「それから、今後も痛みが増えた場合は、すぐにこちらへ来てください」

「そうする」

「ご自身で無理に確認しようとはしないでくださいね」


 クランは視線を逸らしたが、反論はしなかった。

 リアが卓の荷物を持ち直す。


「ありがとうございました」

「どういたしまして。お気をつけてお帰りください」


 クランは診察台から、ゆっくりと立ち上がった。

 右足へ体重を乗せ、姿勢を整える。


 左肩の痛みは、治療所へ来る前より軽い。

 だが、身体を自由に動かせるほどではない。


 アリシアが右側へ立つ。

 クランは彼女へ手を差し出した。


 小さな手が、右手を握った。

 三人は治療所を出た。



     ◇



 外へ出ると、祭りの音が一度に戻ってきた。


 笛の高い音。

 弦を弾く軽い響き。


 客を呼ぶ露店の声。

 焼き菓子と、炙った肉の匂い。


 先ほどまでの施療室の薬草の匂いが、遠ざかっていく。


 アリシアはクランの右手を握ったまま歩いた。

 先ほどより、遠くへ行こうとはしない。


 リアは荷物を持ち、クランの左側を歩いている。


「帰る前に、プレデリカへのお土産を選びましょう」


 アリシアが顔を上げた。


「ぷれでりかの、ぶん」

「ああ」


 露店通りへ戻る途中、麦穂の形をした小さな焼き菓子が並んでいる店があった。


 表面には、白い粉と砕いた木の実が掛かっている。

 アリシアは店の前で足を止めた。


「これ」

「一つでいいのか」

「うん。ぷれでりか、いっぱい、たべない」

「よく分かっていますね」


 リアが微笑む。


 クランは右手で銅貨を出した。

 店主が、小さな焼き菓子を紙へ包む。


「お嬢ちゃんのお菓子かい?」

「ぷれでりかの」

「そりゃあ、喜ぶよ」


 アリシアは包みを受け取ろうとした。

 クランが右手を出すより早く、リアが受け取る。


「私が持ちます」


 アリシアはリアの荷物を数えた。


「りあ、いっぱい」

「どなたがこんなに買ったのでしょうね?」


 リアがクランを見る。

 クランは目を逸らした。


「……一つだけだ」

「何がですか?」

「これ以上は買わない」


 アリシアが頷く。


「くらん、えらい」

「買わないだけで褒められるのか」

「うん」


 リアの口元が緩んだ。

 三人は、グローリー邸へ続く通りへ向かった。


 来た時よりも人は増えている。

 それでもクランは急がず、人の流れが途切れるのを待った。


 リアも足を止める。

 アリシアも、右手を引っ張らずに待っていた。


 道が空く。

 三人は、ゆっくりと渡った。


 背後では、収穫祭の鐘がもう一度鳴った。

 誰かの笑い声が重なり、楽器の音が続いていく。


 アリシアは一度だけ振り返った。

 広場へ続く道の向こうに、黒猫の姿はない。


 それでも、すぐに前へ向き直った。


「ぷれでりかに、いっぱい、おはなしする」

「覚えているか」

「うん。りあ、きれい。くらん、かいすぎ。おいしゃさん。くろねこ」

「俺の話は減らせ」

「だめ」

「そうです。すべて聞かせると約束しましたから」


 クランはリアを見る。


「リアまで言うのか」

「事実ですので」

「……そうか」


 アリシアが、握っている右手へ力を入れた。

 クランも握り返す。


 左肩には、まだ痛みがある。

 歩く速度も、普段より遅い。


 それでも、帰る道は分かっていた。

 三人の背後で祭りの音が続く中、グローリー邸の屋根が見え始めた。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 皆様からいただく、応援やコメント、ブックマークや評価が、執筆を継続する最大のモチベーションになっています。


 もしよろしければ、評価やコメントにご協力いただけると嬉しいです。


 次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ