第52話 いつも通りを守る
森を抜けた先に、マルムの城壁が見えた。
傾き始めた陽を受け、灰色の石壁が淡く色づいている。
城門へ続く道には、いつもより多くの荷車が行き交っていた。
積まれているのは、切り出したばかりの木材や大きな樽、籠いっぱいの麦穂。
街の方角からは、風に乗って槌を振るう音が届いてくる。
収穫祭の準備が始まっていた。
門の上へ渡す布を抱えた男たちが行き交い、道端では女たちが麦穂と木の実を編んでいる。
露店を出すらしい商人たちは、広場の一角を歩幅で測っていた。
北で戦の火種が燻っていても、マルムの人々は冬を迎える支度をしている。
馬車の幌から顔を出していたアリシアが、白い帽子を押さえながら城壁を見上げた。
「かえった?」
クランは荷台に敷かれた毛布の上で、わずかに顔を動かした。
車輪が石を踏むたび、左肩から脇にかけて痛みが走る。
包帯の下では傷口が熱を持ち、深く息を吸えば胸の奥が軋んだ。
レッド・アンプルの反動も抜けていない。
全身へ鉛を流し込まれたような怠さがあり、右手の指先にさえ、思うように力が入らなかった。
「ああ」
短く答える。
アリシアは城壁を見つめたまま、もう一度呟いた。
「かえったね」
今度は問いではなかった。
小さく頷くと、幌から顔を引っ込め、クランのそばへ座り直す。
向かい側では、リアが流れていく景色を見つめていた。
金色の髪は旅の間に少し乱れ、白い騎士装には土と乾いた血が残っている。
それでも、街が近づくにつれ、張りつめていた横顔が少しずつ和らいでいった。
プレデリカは御者台に座り、馬を操りながら周囲へ注意を払っていた。
彼女も無傷ではない。
鎧の隙間から包帯がのぞき、手綱を握る動きにもわずかな硬さが残っている。
それでも四人は、マルムへ戻ってきた。
馬車は開かれた城門を、ゆっくりとくぐった。
◇
大通りへ入ると、作業をしていた人々が次々と顔を上げた。
「グローリー卿!」
「お帰りなさい!」
リアは馬車の上から、一人ひとりへ頭を下げる。
麦袋を運んでいた男が足を止めた。
飾りを編んでいた女たちも手を休め、笑顔を向けている。
誰かに命じられているわけではない。
皆、リアの姿を見つけると、自然に声をかけていた。
「収穫祭には間に合ったな!」
「今年は立派な麦が取れましたよ!」
「ありがとうございます。お祭りが楽しみですね」
リアは疲れを見せず、声の一つ一つへ丁寧に応じていく。
クランは荷台から、その様子を見ていた。
この街には、リアの帰りを待つ者がいる。
それは騎士としての強さだけで得たものではないのだろう。
馬車が伯爵邸の門をくぐると、出迎えた騎士が荷台を覗き込み、表情を変えた。
「クラン殿、その傷は……」
「クランは先に休んでください」
リアが言った。
「任務の報告は、私が行います」
「護衛の報告が終わっていない」
「ですが、その身体では――」
「ここまでが仕事だ」
クランは右手を荷台へつき、身体を起こそうとした。
左肩へ鋭い痛みが走る。
「……っ」
息が詰まり、視界が白く揺れた。
それでも起き上がろうとしたクランの外套を、アリシアがつかむ。
「くらん」
泣いてはいなかった。
止めようと、強く引いてもいない。
ただ、赤い瞳でクランを見上げている。
向かい側では、リアも何も言わずに待っていた。
マルムへ向かう馬車の中で交わした約束が、クランの脳裏をよぎる。
──次は、自分のことも守る。
クランは起こしかけた身体を止めた。
出迎えた騎士へ視線を向ける。
「……手を貸してくれ」
騎士は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
「はい」
騎士が荷台へ上がり、クランの右腕を自分の肩へ回す。
その反対側へ、リアが歩み寄った。
「こちらは、私が」
「リアも怪我をしているだろう」
「貴方ほどではありません」
リアは左肩へ触れないよう気をつけながら、クランの背と腰へ手を添えた。
「無理に立とうとしないでください。私たちが支えます」
クランは騎士とリアを一度ずつ見た。
「……分かった」
体重の大半を騎士へ預け、リアに姿勢を支えられながら、ゆっくりと馬車を降りる。
足が地面へ着いた途端、膝から力が抜けかけた。
背中に添えられたリアの手が、すぐに身体を支える。
「急がなくて大丈夫です」
「ああ」
自分の足で歩いてはいる。
だが、一人で歩いているわけではなかった。
今は、それでよかった。
◇
任務の報告を行うため、一行は領内の地図が掛けられた小さな会議室へ通された。
窓辺には、イグレート・ワトルが立っている。
卓の横では、黒鉄の鎧を着たガイゼルが腕を組んでいた。
ワトルは入ってきた一行を見渡し、クランの包帯で目を止めた。
「ずいぶんな姿で帰ってきたな」
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
ワトルは卓のそばに置かれた椅子を示した。
「座ったままでいい。報告の途中で倒れられても困る」
「……失礼します」
騎士の手を借り、クランは椅子へ腰を下ろした。
アリシアもその隣へ座る。クランの外套の端を握り、離す様子はなかった。
リアは卓を挟んで、ワトルの正面へ立つ。
プレデリカは壁際へ槍を置き、一歩前へ出た。
「お初にお目にかかります。プレデリカ・ヴァン・アズワールと申します。元ルクレール騎士団の上級騎士で、今回、ベルダイルへ向かうグローリー卿の護衛を務めました」
「アズワール……」
ワトルの目が、わずかに細くなった。
だが、それ以上は問わなかった。
「その話は後で聞こう。まずは、使者としての報告だ」
「はい」
リアが一礼する。
「アルゼオス・ベルダイル侯爵へ、おじさまからお預かりした書状をお渡ししました」
「返答は」
「ワトル領が敵対しない限り、ベルダイル側から戦を仕掛ける意思はないとのことです」
リアは一度、言葉を切った。
「ただし、『今のところは』と付け加えられました」
ガイゼルの眉間に、深い皺が寄る。
「余計な言葉をつけやがる」
「ガイゼル」
「分かってる。続けてくれ」
リアは頷いた。
「自ら王となって国をまとめるという意思に、変わりはないとのことです。ルクレールとの戦いも、止めるつもりはないと明言されました」
「理由は」
「これ以上、王のいない国内状態を続けることはできないからだと」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「アルゼオス侯爵は、リシュア王女殿下の帰還を五年間待ったと仰いました」
リアは一息置いた。
声は乱れていない。
「ですが、もうこれ以上は待てない。玉座が空いたままでは国がさらに分かれ、民が誰に従えばよいのかも分からなくなる。ゆえに、自らが王となり、国をまとめる――その意思を変えるつもりはないとのことです」
ワトルは、すぐには答えなかった。
卓上の地図へ視線を落とし、ベルダイル領の位置を見る。
「まだ、正式に王を名乗ってはいないのだな」
「はい。配下の者たちも、これまでどおり侯爵と呼んでいました」
「王になるとは言ったが、王になったとは言ってねえ、か」
ガイゼルが低く呟く。
「その一線を残しているのか。越えるための準備をしているのか。今はまだ分からんな」
ワトルの指が、地図に触れた。
「王のいない国を放置できない。その考えには理がある」
「おい」
「最後まで聞け」
ワトルはガイゼルを制し、言葉を続けた。
「だが、力を持つ者がそれぞれ玉座へ手を伸ばし、従わぬ者を敵とすれば、国はまとまるどころか、さらに割れる」
「私も、そのように申し上げました」
「侯爵は何と答えた」
「民に王を選ばせている間にも、滅びる者がいる。王とは、選ばれるのを待つ者ではない――と」
ワトルが小さく息を吐いた。
「侯爵らしい答えだ」
声に侮りはなかった。
「こちらの懸念はお伝えしましたが、侯爵が考えを変えることはありませんでした」
リアはワトルから目を逸らさない。
「ですが、ワトル領に対する現在の姿勢と、侯爵ご自身の考えは確認できました」
「ああ。それで十分だ」
ワトルはリアへ向き直る。
「使者としての役目、ご苦労だった」
「はい」
リアが深く頭を下げた。
その横で、クランは浅く息を吸う。
胸の傷が軋み、冷たい汗が背中を伝った。
それでも、口にしておかなければならないことがある。
「護衛任務、完了しました」
ワトルはクランを見た。
動かない左腕。
肩から胸へ厚く巻かれた包帯。
椅子へ座っているだけで乱れている呼吸。
それらを順に確かめる。
「その姿で完了と言われても、素直には頷きにくいな」
「……はい」
クランは言い訳をしなかった。
ワトルも、それ以上責めなかった。
「リアを無事にマルムへ送り届けた。護衛としての報告は受け取った。ご苦労だった」
「ありがとうございます、伯爵閣下」
「あとは休め」
「はい」
今度も、反論はしなかった。
隣にいたアリシアが、クランの袖を軽く引く。
「くらん、やすむ?」
「ああ」
「ほんと?」
「本当だ」
アリシアはクランの顔をしばらく見上げてから、ようやく小さく頷いた。
◇
使者としての報告が終わると、ワトルはプレデリカへ向き直った。
「待たせたな、アズワール卿」
「いいえ」
「一つ、確認したい」
「何でしょうか」
「きみの父君の名は、シュラウドか」
プレデリカの灰青の瞳が、わずかに見開かれた。
「……はい。父の名は、シュラウド・アズワールです」
「やはり、あいつの娘か」
「父をご存じなのですか」
「知っている」
ワトルは卓の端へ手を置いた。
「トライアス王に仕えていた頃、魔族との戦いで何度も同じ戦場に立った。シュラウドは、私の戦友だ」
僅かに驚いた表情を浮かべたが、プレデリカは何も言わなかった。
身体の横へ下ろしていた指が、ゆっくりと握られる。
「槍を持たせれば、王国騎士団でも指折りだった」
「父は……自分のことを、ほとんど話しませんでした」
「そういう男だったな」
ワトルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「酒の席では他人の武勇ばかり語るくせに、自分の働きを聞かれると黙る」
プレデリカの視線が、わずかに下がる。
「……そうですか」
その返事は短かった。
だが、普段よりも少しだけ声が硬い。
「父君の話は、また改めてしよう」
「はい」
ワトルはそこで話を切り上げた。
「他に報告があれば聞かせてくれ」
リアが一歩前へ出る。
「もう一件、ご報告があります」
◇
リアは、ラトナ村で起きていたことを順に説明した。
村から何人もの住民が姿を消し、食料や薬草まで奪われていたこと。
ベルダイルの上級騎士アンジェとともに、村の近くにある廃砦を調べ、地下で攫われた村人たちを発見したこと。
同じ場所には、行方不明になっていたベルダイル兵も捕らわれていたこと。
「その中心にいたのが、ドレムという男です」
「ドレム?」
「アンジェによれば、元ベルダイル騎士とのことでした」
「アンジェ・パトリース卿は、今どこにいる?」
「アンジェは、ドレムが元ベルダイル騎士だったこと、捕らわれていた兵とラトナ村の被害、そして紋章について報告するため、ワジュリアへ戻りました」
ワトルが頷く。
「紋章とは」
「ドレムの右腕に、異常な紋章が刻まれていました」
ガイゼルの表情から、先ほどまでの苛立ちが消えた。
「紋章魔物と同じものか」
「似てはいました。ですが、同じものかどうかまでは判断できません」
リアは推測を交えず、目にしたことだけを語った。
「紋章が光るたび、ドレムの身体へ異常な力が流れ込んでいるように見えました。紋章を破壊すると、右腕から肩へ黒い光が広がり、ドレムは戦えない状態になりました」
ワトルがクランへ視線を向ける。
「紋章を破壊したのは、おまえか」
「はい」
「どうやった」
「右腕の紋章へ、剣を突き立てました」
クランは短く答えた。
「その紋章について、何か心当たりはあるか」
しばらくの沈黙のあと、クランが口を開く。
「ゲイツ・ヴァルグ」
ガイゼルの目が険しくなった。
「また、あの男か」
ワトルはクランから視線を外さない。
「理由は」
「旧開拓村跡地で、赤い紋章を刻まれたキメラを操っていた男です」
「ゲイツが怪しいと考える理由にはなる」
ワトルの声は平坦だった。
「だが、ドレムへ紋章を施した証拠にはならん」
「分かっています」
クランは頷く。
「証拠はありません」
プレデリカが続けた。
「グレース渓谷で、ゲイツがフェルナンド副騎士長のそばにいたことは、私が確認しています」
「戦場には、異常な力を持つ兵も投入されていました。ですが、フェルナンド副騎士長がゲイツの行いをどこまで把握していたのかは、私にも分かりません」
ガイゼルが腕を組み直す。
「何も知らずに、あんな男をそばへ置いていたってのか」
「そこから先は、推測としか言えません」
プレデリカは淡々と答えた。
「なら、ルクレールへ問いただせばいい」
ガイゼルがワトルを見る。
「ゲイツと紋章について、何を知っているのかをな」
「問いただして、素直に答える相手だと思うか」
「思わねえ」
「向こうから見れば、クランは命令を拒んで逃亡した騎士だ。アズワール卿も、騎士団を脱走した者として追われている立場だ」
ワトルは二人へ視線を向けた。
「証拠を揃えずに動けば、二人が話を合わせていると言われて終わる。こちらが何を知っているかまで明かせば、残っている証拠を消されるかもしれん」
「だから待つのか」
「証拠を集める」
ワトルは即座に答えた。
「ベルダイル側にも、今回の件を調べる理由がある。捕らわれていた兵の証言と、ラトナ村に残った痕跡を照らし合わせる。こちらでも、できる限り情報を集める」
地図の上で、ワトルの指がベルダイル領とルクレール領の間をなぞった。
「疑っている相手に、こちらの手札を先に見せる必要はない」
ガイゼルは不満そうに鼻を鳴らした。
「分かった。今はな」
「ああ。今は、だ」
◇
ワトルは改めてプレデリカを見た。
「アズワール卿」
「はい」
「きみがマルムまで来た理由を聞いておきたい」
プレデリカは、ワトルの視線を正面から受け止めた。
「私は、グローリー卿とクランに助けられました」
迷いのない声だった。
「その借りを返すため、ベルダイルへ向かうグローリー卿の護衛を引き受けたのです」
「その護衛の役目は、ここで終わった」
「はい」
「これから、どうするつもりだ」
プレデリカはすぐには答えなかった。
「……護衛の途中で、ラトナ村の件に関わりました」
視線が一度だけクランへ向く。
「ルクレールで見たものも含め、知ったことを見なかったことにはできません。私が知っていることを、お伝えする責任があると考えています」
「ルクレール騎士団へ戻るつもりは?」
「ありません」
今度は、間を置かなかった。
「別の主へ仕えるつもりはあるか?」
「……まだ、決めていません」
「それでいい」
ワトルは頷いた。
「今すぐ身の振り方を決める必要はない。しばらくは、私の客人として騎士団宿舎を使うといい」
「よろしいのですか」
「シュラウドへの義理だけで言っているのではない」
ワトルは言った。
「きみの証言は必要だ。それに、その傷で街を出ろと言うほど、私は薄情ではない」
プレデリカは深く頭を下げる。
「ご厚意、感謝いたします」
「まずは落ち着いて傷を治せ」
「承知しました」
◇
すべての報告が終わる頃には、窓から差し込む光が赤みを帯びていた。
外では、祭りのための台を組み立てる槌音が続いている。
ガイゼルが窓の外を見た。
「それで、収穫祭はどうするんだ?」
「予定どおり行う」
ワトルの答えに迷いはなかった。
リアが目を瞬かせる。
「おじさま。このような状況でも、開催なさるのですか?」
「俺は、今年くらいやめておけと言ったんだがな。このじじいが聞かねえ」
プレデリカがガイゼルを見る。
「……じじい?」
「アズワール卿。そこは、どうか流してください」
リアが真顔で頼んだ。
ガイゼルが肩をすくめる。
「俺が悪者みたいじゃねえか」
「実際に、団長が悪いと思います」
「嬢ちゃんも言うようになったな」
重かった部屋の空気が、わずかに緩んだ。
ワトルは二人のやり取りを気にする様子もなく、窓の外を見ている。
「戦の気配があるたびに祭りを取りやめていれば、民の暮らしは、戦が始まる前から壊れてしまう」
広場では、男たちが一本の柱を立ち上げようとしていた。
その脇を、麦穂の飾りを抱えた子どもたちが駆けていく。
「明日、何が起きるかは分からん。だからといって、今日の暮らしまで捨てさせる理由にはならない」
ワトルが一行へ向き直る。
「領民のいつも通りを守るのが、領主の仕事だ」
外から聞こえる槌音は、一定の間隔を保っていた。
戦場で鳴る武器の音とは違う。
誰かの暮らしを壊す音ではなく、祭りの場所を作るための音だった。
クランは何も言わず、その音を聞いていた。
「リア」
「はい」
「祭りの日は、私のそばに立ちなさい」
「護衛でしょうか」
「それもある。領内の村長や商人たちも集まる。特務騎士として、きみの顔を覚えてもらいたい」
リアは少し考え、頷いた。
「承知しました」
「そのための礼装も用意させた。今日中にグローリー邸へ届けさせる」
「礼装、ですか?」
「領主である私の隣に、公の場で立つのだ。普段の騎士装というわけにはいかん」
「ですが、そこまでしていただかなくても――」
「必要なものだ。受け取りなさい」
ワトルが言い切る。
リアはわずかに困った顔をしたあと、頭を下げた。
「……ありがとうございます、おじさま」
◇
ワトル邸を出る頃には、空が橙色に染まり始めていた。
プレデリカは、案内役の騎士とともに騎士団宿舎へ向かうことになった。
別れ際、アリシアが彼女の外套をつかむ。
「ぷれでりか」
プレデリカが足を止めた。
「何かしら?」
「いっしょ、こない?」
「今日は、用意してもらった場所で休むわ」
「そう」
アリシアが少しだけ俯く。
白い帽子が、片側へずれていた。
プレデリカは手を伸ばし、帽子の縁をそっと直した。
「また、様子を見に行くわ」
「くらんの?」
「貴女もよ」
「うん」
アリシアが頷く。
プレデリカはクランへ顔を向けた。
「報告が終わったからといって、動き回らないこと」
「はい、隊長」
「家の中でも同じよ」
「分かっています」
プレデリカの目が細くなった。
「口で言うだけなら簡単だわ」
「……休みます」
「そうしなさい」
ようやく納得したのか、プレデリカは騎士とともに歩きだした。
◇
グローリー邸へ着くと、リアが玄関の鍵を開けた。
扉が軋み、閉じ込められていた乾いた空気が流れ出す。
窓辺の椅子。
棚に並んだ本。
暖炉の脇へ置かれた小さな木箱。
旅立つ前と変わらない光景が、夕暮れの薄明かりの中にあった。
「ただいま」
リアが小さく言う。
アリシアも、その後に続いた。
「ただいま」
クランは、ワトル邸から付き添ってきた騎士とリアに支えられ、玄関をくぐった。
古い木と本、それにわずかに残った薬草の匂い。
いつからか、この家の匂いを覚えていた。
寝室まで支えられ、寝台へ身体を横たえる。
付き添いの騎士が帰ると、リアが水差しを取りに行こうとした。
クランは反射的に右手を寝台へつく。
起き上がろうとして――止めた。
「クラン?」
「……水を頼む」
リアの目が、わずかに和らいだ。
「はい。すぐにお持ちします」
アリシアは寝台のそばに立ち、クランを見ている。
「くらん、うごかない?」
「ああ」
「ほんと?」
「本当だ」
アリシアは安心したように頷くと、寝台の脇へ椅子を引き寄せた。
クランが身体を横たえると、張りつめていた力が一気に抜けていく。
傷はまだ痛んだ。
胸の奥には、レッド・アンプルの熱も残っている。
けれど、ラトナ村で意識を失った時とは違う。
もう立ち上がる必要はなかった。
しばらくして、玄関の扉を叩く音が聞こえた。
リアが応対へ向かい、大きな箱を抱えて戻ってくる。
「りあ、それ、なに?」
アリシアが椅子から降り、箱へ近づいた。
「先ほど、おじさまが仰っていた礼装です」
「みせて」
「少しだけですよ」
リアが卓の上へ箱を置き、蓋を開ける。
中には、白い長衣が丁寧に畳まれていた。
襟元と裾には金糸の刺繍が施され、その上には、片肩へ掛ける深い紺色のマントが重ねられている。
縁には細かな金の模様と、短い房飾りが並んでいた。
黒い手袋と、金具のついた剣帯。
青い髪紐には、白い小花と麦穂を模した髪飾りが添えられている。
華やかさの中にも、剣を帯びて立つための硬質さがある。
領主の隣に立つ騎士のための礼装だった。
アリシアが目を丸くする。
「りあ、きれい」
「まだ着ていませんよ」
「きれいになる」
リアが困ったように微笑んだ。
「ありがとうございます」
アリシアは礼装を眺めたあと、寝室の扉へ顔を向ける。
「くらんも、みる?」
リアの手が、青い髪紐の上で止まった。
閉じた扉を見つめ、柔らかく答える。
「……収穫祭の日には、きっと」
扉の向こうで、クランは目を閉じていた。
伝えるべきことは、もう伝えた。
それでも、考えるべきことはいくつも残っている。
ドレムの右腕にあった紋章。
旧開拓村跡地にいたゲイツ。
王となる意思を示したベルダイル侯爵。
だが、浮かびかけた思考は、部屋の外から聞こえるリアとアリシアの声に紛れ、少しずつ遠のいていった。
窓の外では、収穫祭の準備をする槌音がまだ続いていた。
そこに剣のぶつかる音はなかった。
誰かの悲鳴もなかった。
その夜、クランは久しぶりに、何も夢を見なかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
皆様からいただく、応援やコメント、ブックマークや評価が、執筆を継続する最大のモチベーションになっています。
もしよろしければ、評価やコメントにご協力いただけると嬉しいです。
次回もよろしくお願いいたします。




