第50.5話 まだ見ぬあなたへ ――リアの秘密の日記――
……あら。
今、これを読んでいらっしゃるということは、私の日記を見つけてしまわれたのですね。
以前、アリシアには書くように勧めたものの、自分の日記を読まれるというのは、思っていた以上に恥ずかしいものです。
ですが、ここまで私たちの旅を見届けてくださったあなたになら、今だけは少しだけ、お見せしてもよいのかもしれません。
ですが、どうか内緒にしてくださいね。
クランにも、アリシアにも、アズワール卿にも。
私がこんなことを書いていたなんて、とても言えませんから。
──
────
いま、クランは眠っています。
ラトナ村の村長宅の、小さな部屋です。
古い木の梁が低く見える部屋で、壁には薬草を乾かした束が吊るされています。
火は、消していません。
消してしまうと、夜が急に深くなりすぎる気がするからです。
それに、明かりがなければ、彼の顔色が見えなくなってしまいます。
寝台の上で、クランは静かに息をしています。
それだけのことが、今夜の私には、何よりもありがたいことに思えます。
地下の廃砦から彼を運び出した時、彼の身体はとても重く感じました。
もちろん、実際に支えていたのはアズワール卿や村の方々で、私はそばについていただけです。
それでも、あの重さを、私はきっと忘れられません。
人は、命がそこにあるだけで重いのですね。
守られた命も。
守ろうとして傷ついた命も。
どちらも、こんなにも重い。
クランは、左肩から脇にかけて深く傷を負っています。
手当ては済みました。
村に残っていた薬草と、私たちが持っていた薬を使い、出血もどうにか抑えられています。
ですが、顔色はよくありません。
時折、眉間にしわが寄ります。
痛みで目を覚ますのではないかと思うたび、私は息を止めてしまいます。
けれど、彼は目を開けません。
ただ、浅く息をして、また静かになります。
あの赤い小瓶のことも、気になります。
レッド・アンプル。
赤瓶とも呼ばれる、戦場用の応急強壮薬。
アズワール卿とアンジェの話では、傷を治す薬ではないそうです。
失った血を戻すものでもない。
ただ、痛みを鈍らせ、落ちかけた意識を無理に引き上げる。
その代わり、あとで必ず身体へ反動が来る。
そんなものを飲んでまで、彼は立ち上がりました。
私の前に。
アリシアの前に。
捕らわれていた娘たちの前に。
守るために。
その姿を、私は美しいと思ってしまいました。
そして、そう思ってしまった自分が、とても怖くなりました。
誰かを守るために立つ姿は、確かに尊いものです。
傷ついても退かず、届かないはずの場所へ手を伸ばす人を、私は何度も見てきました。
そういう人に憧れました。
そういう人のそばに立ちたいと思ってきました。
けれど。
倒れたのがクランだった時、私は初めて、その尊さが恐ろしくなりました。
彼は、ドレムを倒しました。
あの右腕に浮かんでいた紋章を貫き、力を止めました。
ドレムは倒れ、捕らわれていた方々も助かりました。
けれど、そのあとです。
クランは、立っていました。
ただ、立っているだけでした。
剣を支えにしなければ、今にも膝から落ちそうでした。
アリシアが、小さく呼びました。
くらん、と。
私は、彼を見ていました。
声をかけなければと思ったのに、喉がうまく動きませんでした。
するとクランは、私たちを見て、こう言ったのです。
……無事か、と。
自分の傷ではなく。
自分が今にも倒れそうなことでもなく。
まず、私たちの無事を確かめたのです。
私は答えました。
私も、アリシアも無事です、と。
すると彼は、ほんの短く言いました。
……なら、いい。
その言葉の直後に、彼は血を吐きました。
ねえ、クラン。
何が、いいのですか?
私たちが無事なら、貴方が倒れてもいいのですか。
アリシアが泣かなければ、貴方が血を吐いてもいいのですか。
誰かを守れたなら、自分がそこに含まれていなくても構わないのですか。
そんなことを、言いたくなりました。
けれど、あの時の彼はもう、私の声を聞ける状態ではありませんでした。
守ってくださって、嬉しかったのです。
彼が私の前に立ってくれたことが、嬉しくないはずがありません。
あの時、私が一人ではなかったことを、彼が背中で教えてくれました。
ですが、それと同じくらい、私は腹が立ちました。
どうして、そこまでしてしまうのですか。
どうして、自分が倒れた後に残される者の顔を、少しも考えてくださらないのですか。
そんなことを、眠っている人に言っても仕方ありませんね。
それに、もし目を覚ましたクランに尋ねたとしても、彼はきっと短く答えるのでしょう。
必要だった、と。
その声が、今から聞こえるようです。
黒い瞳でこちらを見て、いつものように短く、まるでそれが当たり前のことのように。
けれど、必要だったとしてもです。
必要だったとしても、怖いものは怖いのです。
アリシアは、クランの手を握ったまま眠っています。
正確には、眠ったり、目を覚ましたりを繰り返しています。
少し目を閉じては、はっとしたように顔を上げ、クランの指を確かめます。
そして、彼の手がまだそこにあると分かると、また安心したように目を閉じるのです。
先ほど、小さな声で言いました。
「くらん……?」
私は、答えました。
「はい。ここにいます」
するとアリシアは、クランの指を握り直して、また目を閉じました。
それだけです。
それだけなのに、胸の奥が苦しくなりました。
アリシアは、まだ多くを語りません。
怖い時は怖いと言います。
分からない時は、分からない顔をします。
けれど、あの子はきっと、自分が思っている以上に多くのことを感じています。
クランが倒れたこと。
自分の力を、彼が使わなかったこと。
自分を、道具にしなかったこと。
その全てを、言葉にはできなくても、あの小さな手で受け止めているのだと思います。
私は、アリシアに日記を書くことを勧めました。
怖かったことも、嬉しかったことも、言葉にできないなら、少しずつ書いてみればいいのではないかと思ったからです。
紙の上なら、声に出せないことも、少しだけ置いておける気がします。
けれど、こうして自分で書いてみると、日記というものは思っていたより難しいですね。
正しいことだけを書こうとすると、何も書けなくなります。
格好の良いことだけを書こうとすると、嘘になってしまいます。
だから、今夜だけは、少し正直に書きます。
私は、クランの手に触れました。
もちろん、熱を確かめるためです。
包帯がずれていないか、指先が冷えていないか、それを確かめるためでした。
本当に、それだけです。
……そう書いておかないと、自分でも困ってしまいそうなので、ここにはそう書いておきます。
布団の外に出ていたのは、右手でした。
最後まで剣を握っていた手。
アリシアを守った手。
私の前に立った手。
何度も傷を受け、それでも離さなかった手。
その手が、今は力なく布団の上にあります。
私は、その指に少しだけ触れました。
ほんの少しだけです。
すると、アリシアが眠ったまま、クランの手を取られまいとするように、指をきゅっと握りました。
私は、すぐに手を引きました。
……少し、負けた気がしました。
いえ、何に負けたのかは分かりません。
分かりませんが、アリシアは強い子です。
扉の外には、アズワール卿がいます。
休んでくださいとお願いしたのですが、あの方は短く首を横に振りました。
外の様子を見るだけだ、と仰っていましたが、きっと見張りのつもりなのでしょう。
アズワール卿も、クランとよく似ています。
自分が疲れていることを後回しにする。
傷が痛んでいても、立つべき場所に立とうとする。
誰かを守るためなら、休む理由を見つけるより先に、動く理由を見つけてしまう。
だから、あの方はクランに厳しいのかもしれません。
似ているから。
そして、似ているからこそ、許せないのかもしれません。
アンジェは、まだ村に残っています。
捕らわれていたベルダイルの兵たちを確認し、村の方々から話を聞いていました。
夜が明けたら、ワジュリアへ戻るそうです。
ドレムという男のこと。
捕らわれていた兵たちのこと。
村が受けた被害のこと。
そして、あの紋章が壊れた時に滲んだ、黒い光のこと。
伝えなければならないことが、多すぎます。
ラトナ村には、人の声が戻りました。
けれど、それは明るい声ばかりではありません。
戻ってきた人を抱きしめて泣く声。
怪我人の手当てを急ぐ声。
壊された柵や奪われた食料の話をする声。
無事だったことを喜びながら、それでも消えない恐怖に震える声。
私たちは、助けられたのだと思います。
けれど、全てを元に戻せたわけではありません。
それを、忘れてはいけないのだと思います。
勝った、という言葉だけでは足りません。
守れた、という言葉だけでも足りません。
その後に残るものまで見つめなければ、きっと同じことを繰り返してしまうから。
クランは、そういうことを考えているのでしょうか。
考えていないわけではないと思います。
ただ、あの人は、守ると決めた瞬間に、自分の命を数から外してしまうのです。
それが、怖い。
私は、あの人に守られたいわけではありません。
いえ。
違いますね。
守られたくない、というのは嘘です。
守ってもらえたことは、嬉しかった。
彼が私の名を呼んでくれることも、私の前に立ってくれることも、きっと私は嬉しいのです。
ですが、私は彼に、消えてほしくありません。
私を守った結果、彼がいなくなってしまうのなら。
そんなものは、きっと私の望む守りではありません。
クラン。
もし、貴方が目を覚ましたら。
私は、言わなければならないことがあります。
ありがとう、と。
守ってくださって、ありがとう。
アリシアを道具にしないでくれて、ありがとう。
最後まで、誰かを人として見てくださって、ありがとう。
けれど、それだけでは足りません。
どうか、自分の命も守ってください。
貴方が守ろうとしたものの中に、貴方自身も入れてください。
私はきっと、うまく言えないでしょう。
怒っているように聞こえてしまうかもしれません。
困らせてしまうかもしれません。
それでも、言います。
言わなければ、私はきっと後悔します。
ここまで、この日記を読んでくださったあなたへ。
もし、この旅を見届けてくださっているのなら。
どうか、今夜だけは、私と一緒に祈っていただけないでしょうか。
アリシアが、明日も小さく笑えますように。
アズワール卿が、少しでも休んでくださいますように。
ラトナ村の方々が、失ったものを数えながらも、また朝を迎えられますように。
そして。
クランが、もう一度、目を開けてくれますように。
彼が倒れたところで、この旅を終わらせないでください。
私は、まだ歩きたいのです。
傷ついても、迷っても、何度も立ち止まりながらでも。
私は、まだ見たいのです。
クランが、アリシアの頭にそっと手を置くところを。
アリシアが、安心した顔で彼の名前を呼ぶところを。
アズワール卿が、呆れたように彼を叱るところを。
そして彼が、いつものように短く「分かった」と答えるところを。
そんな明日を、私はまだ諦めたくありません。
だから、今夜だけは書かせてください。
これは、誰にも見せない秘密の日記です。
けれど、もしあなたがこの日記を見つけてくださったのなら。
どうか、覚えていてください。
彼は、守りました。
けれど、守った人もまた、守られなければならないのです。
……いま、クランの指が、少しだけ動いた気がしました。
日記は、ここまでにしますね。
どうか、内緒にしてください。
この続きを、私自身の言葉で、彼に伝えなければなりませんから。




