第50話 守るもの
何が起きたのか、クランには一瞬分からなかった。
音が遠い。
石床が背中に硬く、冷たかった。
どうやら、一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。
遠くで――いや、近くなのか。
リアが自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
左肩から脇にかけて、熱いものを押しつけられているような痛みがある。
息を吸おうとすると、胸の奥が軋んだ。
指先に力を入れる。
痛みが走った。
痛む。
なら、まだ繋がっている。
まだ、動く。
よかった──なら、まだ戦える。
「クラン! クラン、聞こえますか!」
リアの声が近づく。
クランは返事をしようとして、喉の奥に血の味があることに気づいた。
声は出ない。
代わりに、浅い息だけが漏れる。
視界の端で、ドレムが笑っていた。
「まだ息があるのか。しぶといな」
ドレムは鉈を担いだまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
リアがクランの前に立った。
剣を構える腕は、わずかに震えている。
先ほどの衝撃が、まだ残っているのだろう。
それでも、リアは退かなかった。
「それ以上は、近づかせません」
静かな声だった。
けれど、その静けさの奥に、必死に押し殺したものがある。
ドレムは足を止めた。
「そいつを庇って、そのざまか。いいじゃねえか。泣ける話だな」
笑っている。
急ぐ気はないらしい。
倒れたクランよりも、リアとアリシアの反応を楽しんでいるようだった。
入口近くでは、アリシアが固まっている。
赤い瞳が、大きく揺れていた。
「くらん……」
小さな声。
震えている。
その声を聞いた瞬間、クランの中で、沈みかけていた意識が少しだけ戻った。
倒れている場合ではない。
まだ終わっていない。
クランは動く右手で、腰のポーチを探った。
指先が布を掴み、革紐に触れ、小さな瓶を引き寄せる。
赤い小瓶。
レッド・アンプル。
赤瓶とも呼ばれる、戦場用の応急強壮薬だ。
傷を塞ぐものではない。
失った血を戻すものでもない。
ただ、痛みを鈍らせ、落ちかけた意識を無理やり引き上げる。
代わりに、後で必ず身体へ反動が来る。
分かっている。
だが、今必要なのは、後のことではなかった。
クランは栓を噛むように外し、中身を一気に飲み干した。
飲んだ瞬間、喉が焼けた。
熱が腹の奥へ落ち、そこから無理やり全身へ広がっていく。
痛みが消えたわけではない。
ただ、ぼやけていた輪郭が戻り、遠かった音が近くなった。
リアの背中。
入口近くで固まっているアリシア。
壁際で身を寄せ合う娘たち。
勝ち誇った顔のドレム。
状況が、少しずつ形を取り戻していく。
そうだ。
自分はリアを守ろうとして、あの一撃を受けた。
理解した途端、喉の奥から血の味が上がってきた。
クランはそれを石床へ吐き捨てる。
状態は、最悪に近い。
勝ち筋は見えない。
だから何だ。
身体が動くなら、最後まで戦う。
そうしなければ、守れない。
守れなければ――また失う。
「……やるぞ」
クランの呟きに、リアが振り返った。
「クラン……ですが、もう」
無理です。
そう続きそうになった言葉を、リアは飲み込んだ。
止めたいのだろう。
だが、止めれば、ここにいる人たちは守れない。
それも分かっている。
だから、彼女は剣を握り直した。
「……分かりました」
声は震えていた。
けれど、剣先は下がらなかった。
クランは床に落ちていた空の赤瓶を握る。
無理かどうかではない。
やるか、やらないか。
選ぶだけだ。
クランは空瓶をドレムへ投げた。
「くだらねえ」
ドレムが顔をそらす。
瓶はその眼前で砕け、ガラス片が散った。
その一瞬で、クランは床に転がっていた剣へ手を伸ばす。
右手だけで柄を握った。
左腕は、上がらない。
それでいい。
まだ右手がある。
まだ足が動く。
クランは剣を支えにして立ち上がった。
膝が一度沈む。
視界が白く揺れる。
それでも、倒れなかった。
ドレムが笑った。
「まだ立つのかよ。しぶとい虫だな」
クランは答えない。
答える余裕がない。
ドレムはリアへ顔を向けた。
「そいつが死にかけてるのに、まだやる気か?」
口の端を吊り上げる。
「邪魔しなきゃ、少しは長く生きられたかもしれねえのにな」
リアの目から、迷いが消えた。
彼女は剣を構え直す。
「退きません」
「あ?」
「ここには、守らなければならない人がいます」
ドレムは一瞬、きょとんとした顔をした。
そして、腹の底から笑った。
「守る? 弱い奴が何を守るって?」
その言葉に、クランは剣を上げた。
守れるかどうかではない。
守ると決めた。
なら、動ける限り動く。
ドレムの右腕に浮かぶ紋章が光った。
鉈が振り下ろされる。
クランは横へ逃げる。
踏み込みが浅い。
体が追いつかない。
それでも床を蹴り、壁際へ体を滑らせた。
刃が石床を割り、破片が足元を叩く。
リアが逆側から入る。
白い刃が、ドレムの胴へ伸びた。
だが、ドレムは右腕を盾のように動かす。
剣が弾かれ、リアの手首が震えた。
その隙に、クランは低く潜り込む。
足元。
膝の裏。
崩せる場所。
剣を走らせるより早く、鉈の柄が降ってきた。
クランは咄嗟に身を捻る。
肩口の傷が開くような痛みが走り、息が詰まった。
壁に鉈がめり込む。
天井から古い砂が落ちた。
壁際の娘たちが声を殺して震える。
リアが短く息を呑む。
「このまま暴れられたら、地下ごと崩れます」
「長引かせない」
クランはそれだけ返した。
だが、勝ち筋はまだない。
ドレムの右腕は硬く重い。
こちらの攻撃は通らない。
何より、今のクランは片腕で剣を握っているだけで精一杯だった。
一瞬だけ、考えがよぎる。
魔剣が使えれば。
あの黒い剣なら、届くかもしれない。
紋章を裂けるかもしれない。
だが、すぐに振り払った。
それは駄目だ。
使わない。
代償があるかもしれない力を、ここで使うわけにはいかない。
アリシアを守るために、アリシアを削る選択はしない。
なら、今あるもので届かせるしかない。
剣。
足。
体重。
残っている力。
それだけで。
リアがドレムの動きを見ている。
次の一撃を避け、さらに一歩、横へずれる。
剣を振るのではなく、ドレムの右腕の動きを追っている。
「全身ではありません」
リアが言った。
「力は、右腕に偏っています」
クランも見る。
紋章が強く光った瞬間、ドレムの鉈は異常な重さで振るわれる。
だがその直後、肩と胴がわずかに流れる。
強すぎる右腕に、体の方が振り回されている。
そこを突ければ。
だが、近づかなければならない。
今の身体で、届くか。
考えがまとまりきる前に、奥の通路から足音がした。
「ドレム……」
アンジェだった。
息は少し乱れている。
だが、騎士剣は抜いたまま、目はドレムを捉えていた。
「動ける兵は外へ出した。歩けない者も、入口近くまでは運んである」
短く言い、アンジェは部屋の内側へ入る。
リアが問う。
「彼を知っているのですか」
アンジェは頷いた。
「元ベルダイル騎士だよ。領民への暴力と不正で、侯爵に騎士位を剥奪された男だ」
ここで初めて、ドレムの表情が変わった。
「アンジェ・パトリースか」
ドレムは唾を吐くように笑う。
「侯爵の犬が、まだ生きてたのか」
「きみよりは、まともに働いているつもりだよ」
アンジェは軽く返した。
けれど、剣先は下げない。
立つ位置は、ドレムと人質の間だった。
地下は狭い。
人質も近い。
弓を使えば、味方を巻き込む危険がある。
だから、今は剣で道を塞ぐ。
ドレムが舌打ちする。
「どいつもこいつも、邪魔しやがって」
再び紋章が光る。
鉈が横へ薙がれた。
アンジェは受けない。
身を引き、剣先で軌道だけをずらす。
ドレムの攻撃は彼女の前を通り抜け、石壁を削った。
石片が散る。
人質の娘たちが悲鳴を上げかけた、その時だった。
「外は押さえたわ」
別の声が、通路から落ちた。
プレデリカが槍を手にして入ってくる。
外套の裾に土がつき、肩で息をしていた。
それでも、目は冷静だった。
「村人は森側へ逃がしている。外の見張りも押さえたわ。けれど、騒ぎが広がる前に終わらせるわよ」
プレデリカの視線が、クランに止まる。
「貴方、その状態でまだ立つのね」
「立てます」
クランは短く答えた。
プレデリカは小さく息を吐く。
叱責よりも先に、状況を選んだ沈黙だった。
「なら、倒れないで。今だけでいいわ」
「……はい」
そう言うと、彼女はドレムの足元へ視線を移した。
状況を理解するのに、長い時間は要らなかった。
「右腕は受けない。足を止めるわ」
「人質側には行かせない」
アンジェが言う。
リアが剣を構え直した。
「右腕を止められれば、紋章に届きます」
クランはドレムの右腕を見た。
紋章。
あれを壊せば、力は止まるかもしれない。
ただし、届かせるには、あの右腕の間合いへ踏み込む必要がある。
「俺が行く」
リアが一瞬だけクランを見る。
言いたいことはあるのだろう。
けれど、ここでは何も言わなかった。
今、止めれば届かない。
だから、リアはただ剣を握り直した。
ドレムが笑う。
「話は済んだか?」
鉈が持ち上がる。
「まとめて潰れてろ!」
最初に動いたのはリアだった。
正面から踏み込み、すぐに横へ流れる。
ドレムの視線が追う。
金の髪が暗い地下で揺れ、白い刃が鉈の間合いぎりぎりを通る。
ドレムが追った。
右腕の紋章が光る。
鉈がリアを狙う。
その進路を、アンジェの剣が横から遮った。
受けるのではない。
人質側へ抜ける道を塞ぎ、ドレムの体の向きをずらす。
「邪魔だ!」
ドレムが怒鳴る。
踏み込もうとした足元へ、プレデリカの槍が入った。
穂先ではなく、柄。
足首の前に置かれたそれが、ドレムの踏む場所を奪う。
ドレムは体勢を変えざるを得ない。
リアがさらに下がる。
支柱の近く。
割れた床。
ドレムの攻撃で、すでに石が欠けている場所。
そこへ誘い込む。
「ちょろちょろすんじゃねえ!」
ドレムが怒りに任せて鉈を振り上げた。
右腕の紋章が、これまでより強く光る。
鉈が振り下ろされた。
リアはぎりぎりで身を捌く。
腕の痺れが残っているのか、動きはわずかに遅れた。
それでも、刃は彼女を捉えなかった。
代わりに、鉈は支柱の脇、割れた石床の隙間へ深く食い込んだ。
鈍い音が地下に響く。
ドレムが鉈を引き抜こうとする。
だが、強すぎる力で叩き込まれた刃は、石の割れ目に噛んでいた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、右腕の動きが鈍る。
クランは動いていた。
左腕は使えない。
剣を振り上げる力も残っていない。
なら、振らない。
剣先を合わせる。
踏み込む。
体重ごと、押し込む。
ドレムの顔が歪んだ。
「てめぇ!」
右腕が無理に動こうとする。
プレデリカの槍が足元を押さえた。
アンジェが人質側への道を塞ぐ。
リアがドレムの視界へ入り、剣を構える。
注意が割れた。
その隙間へ、クランは滑り込む。
剣先が、ドレムの右腕に浮かぶ紋章へ届いた。
硬い感触。
弾かれそうになる。
クランは奥歯を噛み、さらに踏み込んだ。
肩の傷が裂けるように痛む。
視界が白くなる。
それでも、押し込む。
紋章が軋むように光った。
光に亀裂が入る。
「やめろ……!」
ドレムの声が歪んだ。
「それは……俺の力だ!」
クランは、止まらなかった。
「おまえは、今までやめろと言った相手に、やめてきたのか?」
剣先が、紋章の中心を貫いた。
光が、割れた。
次の瞬間、ドレムの右腕から力が抜けた。
巨大な鉈が床に落ちる。
ドレムの膝が崩れた。
「なんで……なんでだよ……」
その声は、もう怒鳴り声ではなかった。
紋章の割れ目から、黒い光が滲み出す。
リアが息を呑む。
アンジェの表情が変わった。
「……これは、紋章が壊れた反動だけじゃない」
黒い光は、皮膚の下を這うように右腕から肩へ広がった。
ドレムの体が大きく震える。
「なんだ……おい、なんだよ、これは……!」
プレデリカが槍を構え直す。
「近づかないで。まだ何か残っているかもしれない」
アンジェが人質の娘たちへ手を向ける。
「壁から離れて。ゆっくりでいい」
ドレムは立とうとした。
だが、足に力が入らない。
骨も、筋肉も、まだそこにあるはずだった。
それなのに、立つための芯だけが失われていくように、ドレムの体から力が抜けていく。
「俺の……力が……」
それきり、言葉にはならなかった。
ドレムの巨体が崩れ落ちる。
床に落ちた鉈が、鈍い音を立てた。
地下に、短い沈黙が落ちる。
人質の娘たちのすすり泣く声が、少し遅れて戻ってきた。
プレデリカがドレムの倒れた場所へ槍先を向けたまま、動きを確認する。
アンジェは人質側へ下がり、娘たちを落ち着かせていた。
リアは、クランを見ていた。
クランは立っていた。
ただ、立っているだけだった。
剣を支えにしなければ、膝から落ちそうだった。
息を吸うたび、胸の奥が熱く軋む。
「くらん……?」
アリシアの声がした。
クランは、アリシアを見た。
そしてリアを見た。
二人とも、立っている。
それだけでよかった。
「……無事か」
「はい。私も、アリシアも」
リアの声が聞こえた。
「……なら、いい」
それでクランには十分だった。
次の瞬間、喉の奥から熱いものが込み上げた。
クランは咄嗟に口元を押さえようとした。
けれど、左腕は動かず、右手は剣から離せなかった。
赤いものが、石床に落ちる。
「クラン……!」
痛みが戻ったわけではない。
ただ、立っていられる理由が、もう残っていなかった。
剣を支えにしていた手から、力が抜ける。
視界が、暗く沈んでいく。
「クラン!」
リアの声を最後に、クランの意識は深い闇の中に落ちた。
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