第49話 地下の檻
「まず、外を押さえるわ」
プレデリカの声に迷いはなかった。
廃砦の外では、まだ村の男たちが荷を運ばされている。
見張りも残っている。
地下に人質がいると分かった以上、すぐにでも奥へ向かいたくなるのは当然だった。
だが、外を残したまま地下へ入れば、背後を取られる。
逃げようとした村人を盾にされるかもしれない。
プレデリカは、その危険を一瞬で見ていた。
「私が外を押さえる。働かされている村人を逃がし、見張りを地下へ行かせないようにする」
彼女は槍を持ち直し、崩れた外壁の向こうを見た。
「貴方たちは地下へ行きなさい。捕らわれた人たちを探して」
クランは短く頷いた。
「隊長、無理はしないでください」
プレデリカは横目でクランを見る。
「それはお互い様ね」
それだけだった。
長い言葉は要らなかった。
クランはアリシアへ視線を落とす。
「アリシア。離れるな」
「……うん」
「リアのそばにいろ」
アリシアは小さく頷き、リアの外套の端を握った。
リアも少し膝を折り、アリシアと目を合わせる。
「私の手が届くところにいてください」
「りあの、そば?」
「はい。約束です」
「……うん」
アリシアはもう一度頷いた。
アンジェは肩に掛けていた弓を背へ回し、腰の騎士剣を抜いた。
細身の剣身が、地下へ続く石段から漏れる薄い光を拾う。
リアが少しだけ目を向けた。
「剣も扱うのですね」
「仮にも騎士だからね」
アンジェは短く答え、石段の奥へ視線を落とした。
「足音を抑えて。下にいる」
その間に、プレデリカが動いた。
槍の穂先は、最初から相手の命を奪うために向けられてはいなかった。
見張りの一人が異変に気づき、声を上げかける。
その膝を、槍の柄が払った。
倒れた男の手から武器が落ちるより早く、プレデリカは次の見張りとの間合いを詰めていた。
鋭い穂先ではなく、硬い柄が肩を打つ。
武器を構える暇を奪い、足を止め、背後にいる村の男たちから敵を引き離す。
「走れる者から森へ」
プレデリカの声が、外の空気を切った。
「怪我人を置いていかないで。助け合って逃げなさい」
荷を抱えたまま固まっていた村人たちが、はっとしたように動き出す。
ひとりが転びかけた。
別の男が腕を掴む。
プレデリカは振り返らない。
背中で村人を逃がしながら、槍の間合いだけで見張りを寄せつけなかった。
「行くよ」
アンジェが低く言った。
クラン、リア、アリシア、アンジェの四人は、崩れた壁の脇から廃砦の内部へ入った。
中は、外から見たよりも暗かった。
古い石壁には苔がこびりつき、湿った空気が肌にまとわりつく。
木の扉はところどころ腐り、金具は錆びていた。
けれど、最近になって無理に使われている跡がある。
足跡。
引きずられた荷の跡。
壁に擦れた布の切れ端。
地下へ降りる石段は、奥の壁際にあった。
アンジェが先に屈み、石段の下を確認する。
「石段には見張りはいない。けど、下にいる」
「音か」
クランが問う。
「人の気配。たぶん、複数」
アンジェは短く答えた。
クランは剣へ手を近づける。
まだ抜かない。
リアはアリシアを自分の後ろへ下がらせ、剣を抜いた。
金属が擦れる音が、地下へ続く石段に小さく落ちる。
階段を下りるほど、空気は重くなっていった。
湿った石の匂い。
古い木の匂い。
そして、人が長く閉じ込められている場所の、澱んだ気配。
奥から、鎖がわずかに鳴る音がした。
アリシアの手が、リアの外套を強く握る。
「大丈夫です」
リアは小さく言った。
「私たちがいます」
アリシアは声を出さずに頷いた。
地下は、倉庫というより檻だった。
荷を置くためではなく、人を逃がさないために、扉と金具と鎖だけが使われている。
通路の脇にある部屋から、低い呻き声が聞こえた。
アンジェが足を止める。
「こっち」
彼女は騎士剣を構え直した。
扉の隙間から中を覗く。
部屋の中には、見張りが二人。
壁際には、ベルダイルの兵らしき男たちが数人、縛られたまま座り込んでいた。
顔色は悪い。
だが、息はある。
アンジェの表情がわずかに変わった。
「生きてる」
その声は、ほんの少しだけ掠れていた。
「よかった。まだ間に合う」
見張りの一人が扉の方を見た。
「誰だ」
答えはなかった。
扉が開くより早く、クランが踏み込んだ。
正面の男が剣に手を伸ばす。
その腕を、クランが鞘ごと押さえ込む。
剣は抜かせない。
男の膝を崩し、倒れる前に襟元を掴んで壁際へ押し込んだ。
片手で口を塞ぎ、もう片方の手で武器を抜こうとする腕を押さえる。
もう一人の見張りが叫びかけた。
アンジェが鋭く踏み込む。
騎士剣の柄が、男の手首を打つ。
武器が床に落ちるより早く、アンジェの剣先が男の喉元の手前で止まった。
「声を出さないで」
その声から、いつもの軽さは消えていた。
「次は止めないよ」
見張りの男は息を呑み、動きを止めた。
リアは入口側で剣を構えたまま、アリシアを背に置いている。
奥から別の敵が来れば、すぐに動ける位置だった。
アンジェは縛られた兵たちへ駆け寄る。
「聞こえる?」
兵の一人が、薄く目を開けた。
「……パトリース、卿……?」
「喋らなくていい。外へ連れて行く」
アンジェは短く答え、縛めを解き始めた。
クランは押さえた見張りを壁際に寄せ、通路の奥を確認する。
「奥は?」
アンジェは振り返らずに言った。
「この先に、もう一つ大きい部屋がある。人を集めるなら、そこだと思う」
「そうか」
「兵士たちは私が連れて行く。早く外へ出す」
アンジェは兵士の腕を肩に回した。
「外はプレデリカが押さえている。そこまで運べば何とかなる」
リアが一瞬だけ迷う。
「ですが、貴女一人では」
「大丈夫」
アンジェは軽く笑った。
「ベルダイルの兵を、ベルダイルの騎士が置いていくわけにはいかないだろ?」
リアは言葉を飲んだ。
「……分かりました」
アンジェは頷き、通路の奥を指した。
「奥へ行くなら気をつけて。賊の頭は、その先にいるはずだ」
クランは頷いた。
「行くぞ」
リアはアリシアへ視線を向ける。
「アリシア。手を離さないでください」
「……うん」
三人は奥へ向かった。
通路を進むほど、地下の空気はさらに重くなっていく。
壁には、大きな刃物で削ったような跡があった。
石床の一部はひび割れ、扉の金具は力任せに曲げられている。
荷を引きずった跡の上に、靴の跡がいくつも重なっていた。
普通の賊が残す跡ではない。
それは分かる。
だが、何が普通ではないのかまでは、まだ分からなかった。
奥から、人の息遣いが聞こえる。
怯えている者の、喉を塞ぐような呼吸だった。
リアは剣を握る手に力を込める。
クランが前へ出た。
「俺が先に見る」
「お願いします」
リアはアリシアを背に庇いながら、クランのすぐ後ろに続いた。
奥の部屋は広かった。
かつては備蓄庫だったのだろう。
天井は低いが、横幅はある。
今はそこに、木箱や壊れた荷車の部品、奪われた食料袋が雑に積まれていた。
壁際には、人がいた。
若い娘たち。
荷運びに使えないほど弱った男たち。
そして、数人の村人が、手足を縛られたまま身を寄せ合っている。
その前に、見張りが二人。
さらに部屋の中央に、一人の大柄な男が立っていた。
手には、刃の厚い鉈。
肩幅が異様に広い。
荒い息を吐くたび、胸元の革鎧が軋む。
右腕の袖は破れ、そこに黒い紋章のようなものが浮かんでいた。
脈打つように、暗い赤が混じっている。
クランの目が細くなった。
リアも、それを見る。
マルムで見たもの。
グレース渓谷の大橋で聞いたもの。
そして、廃砦の外で知ったもの。
それらが、今、目の前の男の腕に繋がっていた。
「おい」
大柄な男が顔を上げた。
口元が歪む。
「また客か」
見張りの一人が声を上げる。
「ドレム、侵入者だ――」
「うるせえ」
ドレムと呼ばれた男は、見張りを見ることもなく腕を振った。
それだけだった。
見張りの男は、壁へ叩きつけられたように吹き飛んだ。
木箱が砕け、部屋の中に悲鳴が広がる。
縛られていた村人たちが身をすくめた。
リアはすぐにアリシアを背後へ下げる。
「アリシア、私の後ろへ」
「……うん」
アリシアの声は震えていた。
クランは剣を抜いた。
まだ踏み込まない。
まず見る。
相手の足。
肩。
呼吸。
武器の重さ。
そして、右腕の紋章。
ドレムは首を鳴らした。
「逃げ出した奴がいると思えば、今度は騎士ごっこか」
見張りのもう一人が後ずさる。
「お、おい、ドレム。相手が悪い。逃げた方が――」
ドレムはそちらを見もしなかった。
男は慌てて、部屋の脇にある崩れた通路へ逃げ込んだ。
ドレムは追わない。
逃げた部下よりも、目の前の獲物に興味を向けていた。
「……まあいい」
ドレムは、クランとリアを見る。
「先に、おまえらを潰す」
クランが先に動いた。
床に転がる石を蹴る。
ドレムの視線が一瞬だけ揺れた。
その隙に、クランは左側の足元へ入る。
剣を低く走らせ、膝の裏を狙った。
だが、ドレムは片足を引いた。
鉈の柄が、クランの剣を上から叩く。
重さに手首が軋んだ。
リアが正面から踏み込む。
白い刃が、まっすぐドレムの胴へ向かった。
無駄のない、騎士の剣。
だが、ドレムは右腕で受けた。
刃が紋章の浮いた腕に触れた瞬間、硬いものにぶつかったような音がした。
「っ……!」
リアの剣が弾かれる。
ドレムが笑った。
「虫が刺したみてえな剣だな」
クランはすぐに体勢を戻す。
正面からは通らない。
右腕の周辺は特に駄目だ。
なら、足か、背か、首か。
視線を走らせる。
支柱。
壁。
鎖。
割れた床。
逃げ道。
そして、入口近くの陰にいるアリシア。
赤い瞳が、こちらを見ていた。
魔剣が使えれば。
一瞬だけ、考えが浮かんだ。
あの黒い剣なら――届くかもしれない。
紋章を裂けるかもしれない。
だが、すぐに振り払う。
それは駄目だ。
使わない。
代償があるかもしれない力を、ここで使うわけにはいかない。
アリシアを守るために、アリシアを削る選択はしない。
ドレムの鉈が、再び床を砕いた。
衝撃で、入口近くに積まれていた木箱が崩れる。
アリシアが小さく息を呑んだ。
その音に、ドレムの目が動く。
「そこにも隠れてる奴がいたか」
アリシアの体が固まる。
「アリシア!」
リアが叫ぶ。
ドレムの鉈が、アリシアへ向いた。
クランが動くより早く、リアが間に入った。
剣を構える。
まともに受ければ折れる。
リアは剣の角度を変え、鉈の軌道を逸らそうとした。
金属が噛み合う音が地下に響く。
「う……っ」
衝撃で、リアの体が大きく後退した。
完全に受け止めたわけではない。
だが、逸らしただけでも腕が痺れるほどの力だった。
アリシアが小さく声を漏らす。
「りあ……!」
リアは息を乱しながらも、アリシアへ視線を向けた。
「大丈夫です。アリシア、そこから動かないでください」
「おい」
ドレムの目がリアへ向く。
怒りと、歪んだ喜びが混ざっていた。
「女。おまえも俺に逆らうのか」
リアは剣を構え直した。
だが、先ほど受けた衝撃が身体に残っている。
指先が痺れ、剣先がわずかに遅れた。
ドレムが踏み込む。
鉈が振り上がった。
クランは、考えるより先に動いていた。
リアと鉈の間に割って入る。
避けきれない。
鉈の刃が、クランの左肩から脇にかけて皮鎧を裂いた。
それ以上に重かったのは、右腕ごと叩きつけられたような衝撃だった。
体が浮く。
石床に叩きつけられ、息が詰まった。
喉の奥に、血の味が広がる。
「クラン!」
リアの声が、地下の檻に響いた。
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