第48話 アンジェ・パトリース
森の中へ入ると、ラトナ村の気配はすぐに遠ざかった。
背後にあるはずの村は、木々の枝と葉に隠れて見えない。
だが、壊れた柵や、怯えた村人たちの顔は、まだリアの胸の奥に残っていた。
廃砦は、この先にある。
そこに、奪われた人たちがいる。
そう思うだけで、足は自然と速くなりそうだった。
「急ぎすぎないで」
前を歩いていたアンジェが、振り返らずに言った。
「焦って足音を増やすと、向こうに気づかれる」
「……はい」
リアは小さく息を整えた。
アンジェは軽装のまま、木の根や落ち葉の多い道を迷いなく進んでいく。
肩に掛けた弓も、背の矢筒も、枝に当たらないよう自然に角度を変えていた。
偵察に慣れている。
その歩き方だけで、それは分かった。
やがてアンジェは、歩きながら指を折るようにして言った。
「リア、プレデリカ、クラン、アリシア。……うん、確認した」
彼女は小さく頷く。
「こういう時、名前は大事だからね。とっさの警告で呼び間違えると面倒だ」
リアは少しだけ首を傾げた。
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」
アンジェは淡く笑う。
「命令でも、警告でも、呼びかけでも、一瞬遅れるだけで危ない時がある」
「なるほど」
プレデリカが短く返した。
「偵察役らしい考え方ね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
アンジェはそう言ってから、森の奥へ目を向けた。
「巡回兵が戻らないという話は、ワジュリアでも出ていた」
その声から、わずかに軽さが引いた。
「ただ、村の被害と同じ場所で繋がっているとは思っていなかった。少し厄介かもしれないね」
「少し、で済むといいけれど」
プレデリカの声は低かった。
「そうだね」
アンジェは否定しなかった。
少し進んだところで、彼女はふとプレデリカへ視線を向けた。
「プレデリカ。ひとつ聞いていい?」
「何かしら」
「きみ、ルクレールで部隊長をしていた人だよね」
空気がわずかに止まった。
クランは何も言わず、周囲への警戒を続けている。
アリシアはリアの手を握ったまま、二人を見上げた。
プレデリカは否定しなかった。
「……先日までは、そうだったわ」
彼女は前を向いたまま言う。
「今はもう、ルクレールの騎士ではないけれど」
「やっぱり」
アンジェは、納得したように目を細めた。
「グレース渓谷の大橋で見たんだ。遠目だったけど、指揮をしている姿と蒼い髪は目立っていたから」
「貴女も、あの場にいたのね」
「高い場所から見ていただけだよ。矢を射るには遠すぎたし、出る場面でもなかった」
アンジェの口調は軽い。
けれど、その目は冗談を言っていなかった。
プレデリカは短く息を吐く。
「なら、私のことを知っていても不思議ではないわね」
「理由は聞かないよ」
アンジェは前へ視線を戻した。
「聞かれたくなさそうだし」
プレデリカは少しだけ間を置いた。
「そうしてもらえると助かるわ」
「うん。そうする」
それ以上、アンジェは踏み込まなかった。
ただ、彼女の歩く速度は変わらない。
必要なことだけを聞き、不要なところでは引く。
その線引きは、思ったよりはっきりしていた。
「アリシア、大丈夫ですか?」
リアは、隣の少女へ声を落とした。
「お水を飲みますか?」
アリシアは白い帽子を押さえながら、首を横に振る。
「へいき……ありがとう、りあ」
「無理はしないでくださいね」
「うん」
そのやり取りを、アンジェが横目で見ていた。
他領の民を助けようとする使者。
その後ろを黙って守る黒髪の剣士。
元ルクレールの部隊長。
そして、白い髪の幼い少女。
変な一行だ。
そう思ってから、アンジェは小さく苦笑した。
そこに混ざろうとしている自分も、ひょっとすれば十分に変なのかもしれない。
しかし、それほど悪い気分でもなかった。
◇
しばらく進むと、森の空気が変わった。
鳥の声が遠くなり、代わりに、木々の向こうからかすかな人の声が聞こえてくる。
風に紛れているが、笑い声のようにも、怒鳴り声のようにも聞こえた。
アンジェの足が止まった。
彼女は片手を上げ、後ろの一行を制する。
「止まって」
一行は足を止める。
クランが前へ出かけたが、アンジェは手だけで制した。
「ここから先は声を落として」
彼女は屈み、低い茂みの陰から先を覗く。
「あそこが廃砦だよ」
リアも慎重に視線を向けた。
森の切れ間の先に、古い石造りの建物が見えた。
砦というには小さい。
だが、見張り台として使うには十分な高さがあり、崩れた外壁の名残が周囲を囲んでいる。
正面の門は半ば壊れていた。
それでも、出入り口としてはまだ使われているらしい。
入口付近には、武器を持った男たちが数人立っている。
さらに奥では、村の男たちと思われる者たちが荷を運ばされていた。
両手で木箱を抱える者。
薪を積まされている者。
顔は遠くてはっきり見えないが、自由に動いているようには見えなかった。
「入口に三人。外周に二人」
アンジェが小さく言う。
「荷を運ばされている男たちは、村の人だと思う。足取りが重いし、見張りを気にしている」
「中に入る道は?」
プレデリカが問う。
「正面の他に、崩れた壁の脇が使える。ただし、人ひとり通るのがやっとだね」
アンジェは目を細める。
「奥に、地下へ降りる場所らしき影がある。人を隠すなら、あそこかもしれない。ただ、見える範囲だけの話だよ。中に何人いるかまでは分からない」
「正面から入れば、人質を盾にされるわね」
プレデリカの判断は早かった。
リアは唇を結ぶ。
地下にいるかもしれない人たち。
外で働かされている男たち。
どちらも、見捨てて進むことはできない。
クランは黙ったまま、廃砦の入口ではなく、その少し外れた場所を見ていた。
「……あれは」
低い声だった。
アンジェがその視線を追う。
廃砦の入口から少し外れた草むらに、何人かの兵が倒れていた。
ベルダイルの兵だ。
遠目でも、鎧の形と布の色で分かる。
血は目立たない。
少なくとも、周囲に赤いものが広がっているわけではない。
だが、盾は大きく歪んでいた。
ひとりの兜は、石に叩きつけられたように割れている。
腕は剣に届く手前で止まっており、剣を抜く間もなかったのだと分かった。
彼らが、もはや自分の足で立ち上がれる状態ではないことも。
アンジェの表情から、軽さが消えた。
「……巡回に出ていた兵だ」
プレデリカが低く問う。
「賊にやられたように見える?」
「そうだね」
アンジェは、兵たちの倒れ方を見たまま答えた。
「けど、普通の賊のやり方じゃない」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
村長の言葉が、現実の重さを持って突きつけられていた。
戻らなかった兵。
その一部が、ここにいる。
リアはアリシアの手を握る力を、少しだけ強めた。
アリシアも何かを感じ取ったのか、声を出さずにリアのそばへ寄る。
「どうする?」
アンジェが問う。
プレデリカは廃砦を見た。
「正面突破は反対よ。捕らわれている人がいる」
「同感」
アンジェは、崩れた壁の方を顎で示した。
「外周に死角がある。あそこなら、見張りの一人に近づけるかもしれない」
「一人、捕まえる必要があるわね」
「配置と中の人数を知らないと、地下へは入れない」
アンジェが言う。
クランは短く口を開いた。
「隊長。俺が行きます」
その言葉は、プレデリカへ向けられていた。
彼女はクランを見る。
「貴方なら、音を立てずに近付いて制圧できるわね」
「はい」
それ以上の言葉はなかった。
リアも口を挟まない。
クランが無意味に命を奪う男ではないことは、もう分かっていた。
クランはアリシアへ視線を落とす。
「アリシア」
「うん」
「リアのそばにいろ。離れるな」
「……わかった」
アリシアはリアの外套を掴んだ。
クランはそれを確認してから、身を低くする。
アンジェが小さく指で道を示した。
「崩れた壁の陰を通って。右側の見張りは、時々ひとりで奥を見る時間がある。その時なら近づける」
「合図は」
「私が作る。見張りが音の方を向いたら、行って」
クランは頷いた。
剣には触れない。
腰を落とし、足元の枝を避けながら、崩れた石壁へ近づいていく。
足音はほとんどしなかった。
アンジェは背の矢筒から、一本だけ矢を抜いた。
弓を構える。
だが、その狙いは見張りではなかった。
崩れた壁の向こう、少し離れた木杭。
人の目なら見落としそうな位置に、朽ちかけた古い板が引っかかっている。
アンジェは息を止めるようにして、弦を引いた。
「……そこに音を置く」
小さく呟く。
矢が放たれた。
風を裂く音は、ほとんどなかった。
次の瞬間、矢は古い板の端をかすめ、乾いた音を立てて木杭に突き立った。
「ん?」
見張りが振り向いた。
驚くほどの音ではない。
だが、退屈していた見張りが気にするには十分な音だった。
その背後に、クランがいた。
クランは片手で男の口を塞ぎ、もう片方の腕で肩を押さえる。
男が短剣へ手を伸ばすより早く、クランの膝が男の足を払った。
体勢が崩れる。
倒れる音が出る前に、クランは男の腕を捻り、崩れた壁の陰へ引き込んだ。
剣は抜いていない。
男は息を詰まらせたまま、地面に押さえ込まれていた。
プレデリカが、小さく息を吐く。
「相変わらず、綺麗な戦い方ではないわね」
アンジェは弓を下ろし、目を細めた。
「でも、音が少ない」
「貴女の矢も、十分に静かだったわ」
「これも褒め言葉として受け取っておくよ」
アンジェはそう答え、すぐに表情を戻した。
周囲の見張りは、まだ気づいていない。
クランは男を押さえたまま、こちらへ視線だけを向けた。
アンジェが低い姿勢で近づく。
プレデリカも周囲を見ながら、少し後ろについた。
「騒がなければ、手荒な事はしないよ」
アンジェは男の前に屈んだ。
「私はアンジェ・パトリース。ベルダイルの上級騎士だ」
その言葉を聞いた瞬間、男の目が大きく開いた。
「う、上級騎士……」
「そう。だから、嘘はやめてね」
アンジェの声は軽くない。
むしろ、先ほどまでの砕けた調子が消えた分だけ冷たく聞こえた。
「人質はどこにいる?」
「し、知らねえ」
男が身じろぎしようとした。
クランは、逃げようとする肩を強く押さえ直す。
男の動きが止まった。
アンジェは淡々と続ける。
「もう一度聞くよ。人質はどこ?」
「ち、地下だ。地下の倉庫にいる」
「村の娘たちも?」
「いる。男も何人か。荷運びに使えそうな奴は外に出してる。逆らいそうな奴は地下だ」
「兵士は?」
男は視線を逸らした。
アンジェの目が細くなる。
「他の兵士はどこ?」
「……何人かは、地下にいる」
「何人か、ね」
アンジェの声がさらに低くなった。
「外に倒れている兵は?」
「頭がやった」
「賊の頭?」
男は震えながら頷いた。
「あいつ、前はあそこまでじゃなかった。あんな力、なかったんだ」
リアの表情が変わる。
クランも男を見下ろした。
「今は違うのか」
「ああ。違う。少し前から、急におかしくなった。気に入らないことがあれば、すぐに殺しちまう。止めようとした仲間もやられた」
「何があった」
クランの声は短かった。
男は唇を震わせる。
「腕だ」
「腕?」
「腕に、変な紋章ができてからだ」
その言葉に、クランとリアが同時に沈黙した。
プレデリカも、眉をひそめる。
グレース渓谷で見た強化兵たちの姿が、頭をよぎった。
紋章。
マルムで見たものと同じ言葉だった。
風が、崩れた石壁の隙間を抜ける。
目の前では、今も村の男たちが荷を運ばされている。見張りも残っている。
地下には、娘たちや兵士たちがいる。
そして、その奥には、腕に紋章を持つ賊の頭がいる。
リアは剣の柄へ手を近づけた。
可能ならば、すぐに地下へ向かいたい。
だが、外を残したまま入れば、背後を取られる危険がある。
外にいる村人たちを、盾にされるかもしれない。
プレデリカの視線が、廃砦の外周へ動いた。
何を先に押さえるべきか。
彼女はもう、見ていた。
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