第47話 ラトナ村
ワジュリアの城塞が、背後に遠ざかっていく。
石壁の上には、まだベルダイルの旗が揺れていた。
風に煽られているというより、こちらの背を見送っているようにも見える。
リアは一度だけ、立ち止まって振り返った。
高くはないが、堅い城壁。
その奥にいた男に言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。
私に従うか。
それとも、私より王に足る者を示すか。
その問いは、書状への返答よりも重かった。
「……行くか」
隣で、クランが短く言った。
リアは顔を上げる。
いつものように微笑もうとして、ほんの少し遅れた。
「はい」
声は整っていた。
けれど、その整え方を、クランは見落とさなかった。
城塞から少し離れた林の手前で、プレデリカとアリシアが待っていた。
プレデリカは旅用の外套を羽織り、腕を組んだままこちらを見ている。
深い蒼の髪が、風に小さく揺れていた。
背筋はいつも通りまっすぐで、警戒を解いていない。
アリシアは灰色の外套に包まれ、白い帽子を両手で押さえている。
リアとクランの姿を見つけると、少しだけ目を大きくした。
「くらん」
「ああ」
クランは短く返す。
「戻った」
アリシアは小さく頷いた。
「……うん」
それだけで、肩に入っていた力が少し抜ける。
プレデリカは、リアの顔を見た。
「無事だったようね」
「はい。ですが、良い返答はいただけませんでした……」
「でしょうね」
プレデリカは驚かなかった。
彼女は、ワジュリアの城塞を一度だけ見やる。
「簡単に引き下がるくらいなら、初めから王を名乗るようなことはしないわ」
「はい。侯爵は、王位の主張を取り下げるつもりはないそうです。今のルクレールとの戦いも止めない、と」
リアは、会談の内容を必要な分だけ伝えた。
ベルダイル侯爵は、ワトル領をすぐ敵と見なすつもりはない。
ただし、ワトル伯爵に選択を迫った。
従うか。
それとも、自分より王に足る者を示すか。
その言葉を聞いた時、プレデリカの眉がわずかに動いた。
「……ただの返答ではないわね」
「はい」
「ワトル伯への問いであり、同時に圧力でもある」
プレデリカは静かに言った。
「王を名乗る者の言葉ね」
リアは何も返さなかった。
返せる言葉はある。
だが、それを今ここで口にすることはできない。
クランも黙っていた。
政治の話に口を挟むつもりはないのだろう。
だが、ただ聞いていないわけではない。
黒い瞳は、リアとプレデリカの間に置かれた言葉を、静かに拾っていた。
アリシアだけが、少し不安そうに顔を上げる。
「……けんか、する?」
リアは膝を折り、アリシアと目線を合わせた。
「まだ、決まったわけではありません」
「まだ?」
「はい。だから、私たちは考えなければいけないのです」
アリシアはよく分からないという顔をしたが、それでも小さく頷いた。
プレデリカは周囲を確認してから、声を落とした。
「それで、これからどうするの?」
「マルムへ戻ります。ただ、その前に食料や薬草を補充しておきたいのです」
「ワジュリアで買うのは難しいでしょうね」
プレデリカは即座に言った。
「前線の拠点よ。食料も薬草も、まず軍が押さえるわ。外から来た使者に売れる余裕があるとは思えない」
「はい。城下でも、荷の動きはほとんど軍へ向かっていました」
リアは小さな地図を広げる。
携帯用の簡易な地図だ。
詳しい軍用地図ではないが、街道と村の位置くらいは分かる。
ワジュリアの周辺には、いくつかの村が点在している。
その中で、森に沿うように記された村名に、リアの指が止まった。
「ラトナ村」
プレデリカが地図を覗く。
「大きな村ではないわね」
「ですが、移動ルートから大きく外れてはいません。食料や薬草を少し分けていただけるかもしれません」
「対価は払うとしても、あまり期待はしない方がいいわ。ここはもうベルダイル領よ」
「分かっています」
リアは地図を畳んだ。
「それでも、あてもなく移動するよりはいいかと」
クランは短く頷いた。
「行くか」
「はい」
一行は林道を外れ、ラトナ村へ抜ける細い道へ入った。
これまでの道に比べれば、人の往来は少ない。
車輪の跡はあるが古いものばかりで、ところどころ落ち葉に隠れていた。
風が木々の間を抜ける。
先ほどまで背後にあった城塞の気配は、枝葉に遮られて少しずつ薄れていった。
クランが少し前を歩き、リアは地図で道を確かめながらアリシアの手を引いていた。
プレデリカは後方に近い位置で、全体の動きを見ている。
アリシアは時折、帽子を押さえながら歩いた。
「疲れたか」
クランが問う。
「だいじょうぶ」
「無理するな」
「……うん」
アリシアは答えたが、足取りは少しだけ遅い。
リアはそれに気づいて、速度を落とす。
プレデリカがその様子を見て、何か言いかける。
だが、結局言わなかった。
代わりに、周囲の木立へ目を向ける。
「静かね」
「人の気配が少ないです」
クランが言う。
「村へ通じる道なら、もう少し荷車の跡があってもいいはずです」
「そうね」
プレデリカの表情が硬くなる。
「補給が難しいだけならいいけれど」
その言葉の意味は、誰も聞き返さなかった。
やがて、森が開けた。
ラトナ村は、低い丘の麓にあった。
木の柵が村を囲んでいる。
畑は広くはないが、手入れの跡はある。
小さな水車と、乾かされた薬草を吊るす小屋も見えた。
だが、村は静かすぎた。
昼間であれば、畑に人が出ていてもいい。
子どもが走る声があってもいい。
家畜の鳴き声や、槌を打つ音が聞こえてもおかしくない。
それなのに、聞こえるのは風の音ばかりだった。
柵の一部は壊れている。
入口近くの荷車は、片輪が外れたまま放置されていた。
土の上には、何かを引きずったような跡が残っている。
リアは足を止めた。
「……様子が、おかしいですね」
「ああ」
クランは腰の剣に手を近づけた。
まだ抜かない。
だが、いつでも動ける位置だった。
村の入口へ近づくと、家の陰から数人の村人が姿を見せた。
斧や木の棒を持っている。
武器と呼ぶには頼りないが、よそ者を無警戒に迎えるつもりはないという意思は見えた。
「止まれ」
年配の男が言った。
声はかすれている。
「何者だ」
リアは両手を見える位置に置き、一歩だけ前へ出た。
「旅の途中の者です。食料や薬草を買わせていただきたいと思い、立ち寄りました」
「食料や薬草?」
男は笑わなかった。
ただ、疲れた目でリアたちを見る。
「見ての通りだ。売れるものなどない」
「何があったのですか」
リアが問うと、男の表情がわずかに歪んだ。
すぐには答えなかった。
近くにいた女が、男の袖を掴む。
「村長」
「……隠すことでもないな」
村長と呼ばれた男は、壊れた柵の方へ目を向けた。
「三日前、廃砦に住み着いた賊どもが略奪に来た」
リアの目が細くなる。
「賊、ですか」
「ああ。前から村の周りに怪しい連中がいるとは聞いていた。だが、ここまで来るとは思わなかった」
村長の声に、怒りよりも疲れが濃かった。
「若い娘たちや、力仕事に使える男たちが連れて行かれた。食料も薬草も奪われた」
アリシアが、リアの外套の端を掴む。
リアは一瞬だけ彼女へ視線を向け、それから村長へ戻した。
「連れて行かれた方々は、まだ廃砦に?」
「おそらくは」
「兵には知らせたのですか」
「ああ。昨日、近くを巡回していたベルダイルの兵たちが、廃砦へ向かった」
村長の手が震える。
「だが、誰も戻ってこない」
風が抜けた。
村の家々の戸が、かすかに揺れる。
プレデリカは、壊れた荷車と地面の跡を見る。
「ただの賊にしては、動きが大きいわね。略奪が目的なら、普通は男たちまで連れて行く必要は薄い」
「働かせるためでしょう」
クランが言った。
「荷運び、砦の補修、見張り。人手はいくらでも使える」
村長は苦々しく頷いた。
「そうだろうな。だが、兵で対応できないとなると、もう村に残る者ではどうにもならん」
「廃砦はどちらにありますか」
リアが問う。
村長が目を見開いた。
「行くつもりか」
「攫われた方々も、向かった兵士たちも、まだ生きているかもしれません」
「やめた方がいい」
村長は即座に言った。
「あんたらが何者かは知らん。だが、兵隊でどうにもならんことを、ただの旅人が解決できるとは思えん」
その言葉は、当然の反応だった。
リアは静かに答えた。
「それでも、見捨てる理由にはなりません」
「待ちなさい」
プレデリカの声が入った。
静かだが、鋭い。
リアが振り返る。
「アズワール卿」
「貴女はワトル伯への返答を預かっているのよ」
プレデリカは一歩前へ出た。
「しかも、ここはベルダイル領。勝手に動けば、余計な疑いを招くわ。ベルダイルの兵が戻らない以上、これはもう村の問題だけではない。私たちが踏み込めば、ワトル領とベルダイル領の間の問題にもなり得る」
言っていることは正しい。
リアも、それは分かっていた。
「それに」
プレデリカの視線が、リアをまっすぐ捉える。
「グローリー卿。貴女も護衛対象でしょう」
クランは何も言わなかった。
アリシアも、リアの外套を握ったまま黙っている。
村人たちは、息を詰めるように二人を見ていた。
リアは少しだけ目を伏せた。
迷いがないわけではない。
ベルダイル侯爵の言葉。
ワトル伯爵への返答。
マルムへ戻る責任。
どれも軽くない。
けれど、目の前には、壊れた柵と、空になった薬草小屋と、戻らない人を待つ村がある。
リアは顔を上げた。
「ここがベルダイル領であることは、分かっています」
声は穏やかだった。
「ですが、それ以前に、ザイファールの国の民です」
プレデリカの目が、わずかに細くなる。
「助けを求める人がいると知って、見捨てて戻ることが、騎士として胸を張れることだとは思えません」
「……理想論ね」
「そうかもしれません」
リアは否定しなかった。
「それでも、ここで見捨てれば、私は次に同じようなことが起きた時も、きっと理由を探してしまいます」
風が、リアの金髪を揺らす。
「領地が違うから。任務の途中だから。自分の責任ではないから」
彼女は、村の壊れた柵を見た。
「そうやって理由を重ねていけば、いつか、本当に助けたい時にも動けなくなる気がするのです」
プレデリカは何も言わなかった。
その沈黙は、反論できないからではない。
反論すべき言葉を選んでいる沈黙だった。
「貴女は、伯爵の使者よ」
「わかっています」
「危険よ。それでも行くのね」
「はい」
短い返事だった。
だが、揺れてはいなかった。
クランが、そこで口を開いた。
「俺はリアの護衛です」
低く、短い声だった。
「行くなら、付いていきます」
プレデリカがクランを見る。
「貴方は止める側ではないの?」
「リアが戻るなら、戻ります」
クランは答えた。
「行くなら、行きます」
「アリシアは?」
プレデリカが問う。
クランは村の家々へ視線を向けた。
閉じられた戸。
怯えた村人たち。
戻らない兵。
ここが安全だと言える理由はなかった。
「この村に残す方が危ない」
クランは短く言った。
「置いていけない」
プレデリカは小さく息を吐いた。
「そういう意味では、護衛としては正しいのかもしれないわね」
クランは答えなかった。
代わりに、アリシアへ視線を向ける。
「アリシア」
「うん」
「リアの近くにいろ。前に出るな」
アリシアはリアを見上げ、それからクランを見る。
「くらんは?」
「俺はおまえたちを守る」
「……うん」
「約束だ」
「やくそく」
アリシアは小さく頷いた。
プレデリカは額に指を当てる。
「重要任務の途中で、他領の問題に首を突っ込むのは感心できないわ」
言葉は冷静だった。
だが、先ほどより少しだけ温度が違う。
「けれど、貴女たちに借りがあるのも事実よ。それに、ここで見捨てて帰る方が、後味は悪いでしょうね」
「アズワール卿」
「私も行くわ」
プレデリカは槍の位置を確かめた。
「ただし、無策で突っ込むのは反対よ。廃砦なら入口も退路も限られる。まずは位置と人数を確認するべきだわ」
「はい」
リアが頷いた、その時だった。
木立の奥で、小さく枝が鳴った。
クランの手が剣の柄へ近づく。
プレデリカも、即座に半身をずらした。
「待って」
軽い声が、木陰から聞こえた。
姿を現したのは、暗い赤茶の髪を低く束ねた女騎士だった。
焦げ茶と深緑を基調にした軽装。重い鎧ではない。
動きやすさを優先した装備で、肩には弓を掛け、背には矢筒を負っている。
腰には、騎士用の片手剣を一本帯びていた。
リアは、その顔を覚えていた。
会談の部屋の端に控えていた女騎士。
ベルダイル侯爵のそばにいた、静かな目の騎士だった。
クランも、同じことに気づいたのだろう。
剣の柄へ近づいていた手は、そのままだった。
「貴女は……」
「私はアンジェ・パトリース。ベルダイルの上級騎士だよ」
女騎士――アンジェは、柔らかい口調で名乗った。
「アンジェでいい。今は堅苦しい公式の場ではないしね」
プレデリカの目が警戒を解かない。
「いつから私たちの近くにいたの?」
「ワジュリアを出てから」
アンジェは悪びれずに答えた。
「侯爵に、ベルダイル領を出るまでは監視するよう言われていた。まあ、当然だよね。ワトル伯の使者が妙な動きをしないか、確認する必要はある」
「それで?」
プレデリカの声は冷たい。
「私たちを止めるつもり?」
「止めるなら、こんなに堂々と姿を見せないよ」
アンジェは村の方を見た。
壊れた柵。
閉じられた家の戸。
怯えた目でこちらを見る村人たち。
「ここはベルダイル領だ。ベルダイルの領民が困っている。そこへ、他領の騎士たちが助けに行こうとしている」
アンジェは肩をすくめる。
「それを見て、ベルダイルの騎士の私が知らないふりをするわけにはいかないだろ?」
クランはアンジェを見ていた。
敵意は薄い。
だが、油断できる相手ではない。
歩き方に無駄がない。
距離の取り方も、すぐに逃げられる位置を選んでいる。
偵察役。
そう見て、間違いない。
「巡回兵が戻っていないという話は、私も聞いていた」
アンジェの声から、わずかに軽さが引く。
「ただ、どこの村がどこまで被害を受けたのかまでは、まだ城塞に上がっていなかった。ここだったんだね」
村長が、アンジェの騎士装を見る。
「ベルダイルの騎士様……」
「遅くなってごめん」
アンジェは短く言った。
軽い調子ではなかった。
「まだ取り戻せるなら、取り戻す」
その一言で、場の空気が少しだけ変わった。
アンジェはリアへ視線を向ける。
「この辺りの地理と偵察なら、少しは役に立てると思う」
「同行するつもりですか」
「同行させてほしい。もちろん、きみたちを完全に信用したわけじゃない。きみたちも私を信用しなくていい」
「では、なぜ」
リアが問うと、アンジェは少しだけ笑った。
「理由が必要?」
「必要です」
「なら、簡単だよ」
アンジェは村を見た。
「きみたちには道案内がいる。私は、領民を助けるための手がいる」
もう一度、村を見る。
「利害は合っていると思うよ。どうかな?」
リアはその言葉を静かに受け止める。
そして、頷いた。
「分かりました」
彼女は一歩前へ出る。
「では、アンジェ。力を貸してください」
アンジェは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく息を漏らす。
「……本当にすぐ呼ぶんだね」
「そう言われましたので」
「うん。そう言った」
アンジェは少しだけ楽しそうに口元を緩め、それからすぐに表情を戻した。
「廃砦は、この先の森を抜けたところにある」
彼女は森の奥へ視線を向ける。
「昔の見張り台だよ。今は放置されているけどね」
「人を隠せる場所はあるの?」
プレデリカが問う。
「外壁は崩れている。でも、地下の倉庫が残っている可能性が高い」
アンジェは短く答えた。
「隠すなら、そこだと思う」
「案内をお願いします」
「任せて」
プレデリカはまだ警戒を解いていなかったが、反対はしなかった。
「アンジェ。先導は任せるわ。ただし、私たちは自分たちの隊列も崩さない」
「分かってるよ。きみ、指示が細かそうだしね」
プレデリカの眉がわずかに動く。
「必要なことを言うだけよ」
「うん。そういう人、嫌いじゃない」
アンジェはそう言って、森の方へ向き直った。
村長が、戸惑ったようにリアたちを見る。
「あんたら、本当に行くのか」
「はい」
リアは答えた。
「必ず助けられるとは、言えません」
無責任な約束はしない。
「ですが、見捨てることはできません」
村長は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げる。
「……頼む」
その声は、かすれていた。
「娘たちを。男たちを。兵たちを。どうか」
リアは静かに頷いた。
村の外れから、森の向こうに古い砦の影が見えた。
そこに、奪われたものがある。
そこに、戻らない兵たちがいる。
リアは一度だけ村を振り返り、それから前を向いた。
アリシアは、リアの近くに立っている。
クランはその少し前に出た。
プレデリカは後方と横合いを確かめ、アンジェは先頭で森へ続く道を見ている。
敵の領地。
そう呼べば、引き返す理由にはなる。
だが、リアはそう呼ばなかった。
一行は、廃砦へ向かって歩き出した。
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