第46話 玉座に座る者
城塞の内側は、外から見るよりも静かだった。
人の気配がないわけではない。
石の廊下には兵の足音が響き、壁際では文官らしき男が書類を抱えて足早に通り過ぎていく。
開いた扉の向こうには地図を広げた部屋があり、低い声で命令を確認する騎士たちの姿も見えた。
今のワジュリアは、街である前に戦場のための拠点だった。
クランはリアの半歩後ろを歩きながら、左右へ目を配る。
剣には触れない。
それは、門で告げられた帯剣の条件だった。
この城塞の中で抜剣すれば、クランだけでは済まない。
リアもまた、使者ではなく敵対者と見なされる。
剣を抜けない。
だが、守らなければならない。
その矛盾を、クランは無言で呑み込んだ。
前を歩くセネルが、わずかに振り返る。
「長旅だったでしょう。ひと息つく時間を差し上げたいところですが、侯爵も多忙の身です。どうかご容赦ください」
礼を失わない声だった。
だが、その言葉の奥には、余計な時間を与えるつもりはないという職務の硬さもある。
リアは静かに答えた。
「いえ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
声は落ち着いていた。
敵地の城塞を歩いているというのに、足取りに乱れはない。
クランは、その横顔を見た。
リアは静かに前だけを見ている。
セネルは一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです」
扉の両側には、獅子の紋章を刻んだ盾を持つ兵が立っている。
セネルが短く頷くと、兵たちは扉を開いた。
中は、来客を迎えるために整えられていた。
だが、決して華やかな応接室ではない。
広い卓の上には地図が置かれ、いくつもの駒が並んでいる。
壁際には書類が積まれ、記録係らしき文官が控えていた。
窓は小さく、外の光は細くしか差し込まない。
ここは、客を迎える部屋であると同時に、戦を動かす部屋だった。
部屋の奥に、アルゼオス・ベルダイルがいた。
彼は、ただ、そこに静かに座しているだけだった。
それでも、部屋の空気は彼を中心に張っていた。
くすんだ金茶の髪。
琥珀色の瞳。
深い臙脂と黒を基調とした軍装には、金の意匠が走っている。
胸元には、ベルダイル家の獅子紋章。
吠える獅子ではない。
座したまま、群れを従わせる獅子だった。
セネルが一歩前へ出て、部屋の奥へ向けて頭を垂れる。
「ワトル伯爵家の特務騎士、リア・グローリー卿をお連れしました」
アルゼオスの視線が、リアへ向いた。
「ワトル伯の使者か」
その声は低く、よく通った。
「このような時期に、よく来た」
リアは一歩前へ出て、静かに礼を取る。
「お目通りいただき、感謝いたします、侯爵閣下」
「感謝は不要だ。ワトル伯の書状ならば、読まぬわけにはいかん」
セネルが一歩下がる。
部屋の端には、軽装の女騎士が控えていた。
暗い赤茶の髪を低く束ね、静かな目で場を見ている。
城壁の上からこちらを見ていた、弓を背負った女騎士だ。
彼女は余計な口を挟む気配もなく、ただ静かに成り行きを見守っているようだった。
リアは革筒を差し出す。
文官がそれを受け取り、封蝋を確認した。
「ワトル伯爵家の封で間違いありません」
文官は中の書状だけを抜き、革筒をリアへ返した。
書状はアルゼオスへ渡される。
アルゼオスは封を切り、目を通した。
部屋には、紙の擦れる音だけが落ちる。
リアは動かない。
クランも、リアの半歩後ろで静かに待った。
セネルは扉近くに控え、女騎士は壁際に立っている。
やがて、アルゼオスは書状を卓の上へ置いた。
「ワトル伯らしいな」
その声に、怒りはなかった。
「今も古い忠義を捨てていないようだ」
リアは黙って聞いている。
「私が王を名乗ることへの懸念。ルクレールとの交戦拡大を避けるべきだという忠告。ワトル領は民を守るため、戦火の拡大を望まぬ、か」
アルゼオスはリアを見る。
「よく整った言葉だ。あの男は、今も民のための領主であり続けているらしい」
「伯爵は、民と領地を守ることを第一に考えておられます」
「だろうな」
アルゼオスは頷いた。
「ワトル伯のことは私も一目置いているつもりだ。彼が私に敵対しない限りは、私も戦うつもりはない」
そこで、わずかに言葉を切る。
「……今のところはな」
空気が、少しだけ重くなった。
リアは目を伏せなかった。
「そのお言葉、伯爵へお伝えいたします」
「だが、書状の求めには応じられん」
アルゼオスは静かに言った。
「王位の主張を取り下げるつもりはない。ルクレールとの交戦も止められん」
セネルも、壁際の女騎士も、表情を変えなかった。
すでに分かっていた答えなのだろう。
リアは問う。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
「王なき国が、いつまでも国でいられると思うか」
返答は早かった。
アルゼオスの琥珀色の瞳が、リアを捉える。
「諸侯は待たぬ。民も待てぬ。他国も待たぬ。玉座が空いたままの国は、やがて誰かの都合で裂かれる」
「だから、侯爵閣下が王を名乗ると」
「私とて、初めから玉座に手を伸ばしたわけではない」
アルゼオスの声は低い。
「玉座に座るべき者が現れるなら、それを待つつもりはあった」
「座るべき者──ですか」
「五年だ」
部屋の空気が、わずかに止まった。
「もしリシュア王女殿下が生きて戻られるのなら、それが一番国が乱れない道だったかもしれない」
革筒を持つリアの指に、ほんのわずかな力が入った。
だが、彼女は目を伏せなかった。
クランは、リアの横顔を見る。
小さな違和感を覚えたが、その正体は分からなかった。
「だが、ついに王女殿下は戻られなかった」
アルゼオスは続ける。
「王は死に、玉座は空いたままだ。その間にも、領主は自領の都合で動き、諸侯は互いの腹を探り、民はどこへ膝をつけばいいのかも分からぬ」
彼の手が、卓上の地図へ置かれる。
「それだけではない」
指先が、ベルダイル領の一点を示した。
「紋章を刻まれた魔物が、我が領にも現れた」
リアの表情が、わずかに引き締まる。
クランは、マルムで見たものを思い出した。
キメラ。
紋章魔物。
そして、ゲイツ。
その名を、ここで出すわけにはいかない。
アルゼオスは何も知らないのだろう。
誰が作ったのか。
どこから来たのか。
だが、現れたという事実だけで、十分だった。
「これは一領地の問題ではない」
アルゼオスは言った。
「王国そのものの病だ。もはや王なき国では、この病に対処できん」
リアは静かに息を吸った。
「仰ることの意味は、分かります」
声は乱れていない。
「ですが、王を名乗ることと、王として認められることは同じではありません。諸侯会議の場で、正しい形を取るべきではありませんか」
「諸侯会議か」
アルゼオスは薄く息を吐いた。
嘲りではない。
ただ、あまりにも現実を知っている者の吐息だった。
「諸侯が一つになり、新たな王が生まれるまでに、国が裂けるな」
「それでも、力ある者が先に名乗れば、従わぬ者は敵になるのではありませんか」
「敵になる者は、名乗らずとも敵になる」
アルゼオスの声に揺れはない。
「王位を望む者。利を得ようとする者。王家の名を盾にして時を稼ぐ者。王がいないという事実は、すでに多くの者を動かしている」
リアは黙って聞いていた。
ベルダイルの言葉には、私欲だけでは片づけられない重さがあった。
だからこそ、簡単に頷いてはいけなかった。
「ルクレールも同じだ」
その名が出た瞬間、セネルの表情がわずかに硬くなる。
「王家への忠義を掲げ、民の怒りをまとめ、聖騎士の光を先に立てる。戦いの大義を作るには、十分すぎる」
「少なくとも、ルクレールは民を守るために戦うと掲げています」
「掲げるだろう」
アルゼオスは短く返す。
「正義を掲げぬ軍などない」
その一言は、重かった。
リアは言葉を選ぶ。
「では、侯爵閣下は何を守るために王を名乗るのですか」
「グローリー卿」
セネルが思わず声を挟んだ。
使者の問いとしては、踏み込みすぎている。
そう判断したのだろう。
だが、アルゼオスは片手を上げた。
「よい」
短い一言だった。
セネルはすぐに口を閉じる。
アルゼオスは、リアから視線を外さなかった。
「国を裂かせぬことだ」
アルゼオスは答えた。
「民が、明日も同じ国の民でいられるようにすることだ。ルクレールの民も、ベルダイルの民も、ワトルの民も、王なき空白の中で奪い合いの駒にされぬようにする」
リアは、その言葉を受け止めた。
綺麗な理想ではない。
だが、空虚な野心でもない。
「そのために、ルクレールと戦うのですか」
「戦わずに済むなら、それに越したことはない」
アルゼオスは卓上の駒を一つ動かした。
ルクレール領とベルダイル領の境。
グレース渓谷の大橋。
「だが、ルクレールが私を僭称者と呼び、王家への忠義を名目に兵を進めるなら、こちらも退くわけにはいかん。退けば、ベルダイルの民は私を信じられなくなる」
「信じられる王と、恐れられる王は違います」
リアの声は静かだった。
だが、その言葉に、部屋の空気がわずかに動いた。
壁際の女騎士が、ほんの少しだけ目を細める。
アルゼオスもまた、リアを見る目を変えた。
「面白いことを言う」
「失礼を承知で申し上げています」
「いや、よい」
アルゼオスは背を椅子へ預けた。
「グローリー卿。そなたは、ただ書状を運ぶだけの騎士ではないようだな」
クランの意識が、わずかに鋭くなる。
剣には触れない。
だが、リアの半歩後ろという位置を変えない。
リアは答えた。
「私は、ワトル伯爵より書状を託された使者です」
「それだけか」
「はい」
即答だった。
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
アルゼオスはしばらくリアを見ていた。
「ただの使者の目ではない」
その言葉に、リアの指先が止まった。
ほんの一瞬。
ほとんど誰にも分からない程度の変化だった。
だが、クランには見えた。
リアはすぐに指の力を抜き、静かに答える。
「私が知っているのは、民を守ろうとする領主と、そこに暮らす人々です」
「ワトル伯のもとにいれば、そう育つか」
「伯爵は、民の暮らしを見ておられます」
「だからこそ、惜しい」
アルゼオスの声が低くなる。
「ワトル伯ほどの男が、まだ空いた玉座に忠義を残している」
「空いた玉座にではありません」
リアは初めて、少しだけ言葉を強めた。
「伯爵が忠義を残しているのは、かつて王が守ろうとした国と、今もそこに暮らす民です」
沈黙が落ちた。
セネルが息を止める。
壁際の女騎士も、何も言わない。
アルゼオスだけが、静かにリアを見ていた。
「その言葉を、ワトル伯の言葉として聞いてよいのか」
「いいえ」
リアは答えた。
「今の言葉は、私のものです」
クランは、リアの背を見ていた。
細い背だった。
けれど、退いてはいなかった。
アルゼオスは、低く笑った。
それは、何かを測り直すような笑みだった。
「ならば、そなた自身にも問いを置こう」
「はい」
「この国に必要なのは、空いた玉座を拝み続けることではない。民が膝をつける場所を示すことだ。私が王を名乗ることを止めさせたいなら、ただ反対するだけでは足りぬ」
アルゼオスの琥珀色の瞳が、リアを射抜く。
「私より王に足る者を示せ」
リアは動かなかった。
だが、空気が彼女の周りだけ冷えたように、クランには感じられた。
「……それが、ワトル伯爵への返答ですか」
「書状への返答は、すでに述べた」
アルゼオスは言う。
「私は王位の主張を取り下げぬ。ルクレールとの戦いも止めぬ。ワトル伯が中立を望むなら、それをしばらくは尊重しよう」
「しばらくは、ですか」
「この時代に永遠の中立などあり得ない」
アルゼオスの声は冷静だった。
「ワトル伯には、選んでもらう」
彼は、卓上の地図から手を離した。
「私に従うか。それとも、私より王に足る者を示すか。或いは──戦の道を選ぶか」
沈黙が落ちた。
書状への返答は、終わった。
だが、リアが持ち帰るべきものは、書状への返答だけではなくなっていた。
私に従うか。
それとも、私より王に足る者を示すか。
或いは──戦の道を選ぶか。
その問いは、ただワトル伯爵へ向けられたものではない。
リア自身の胸にも、静かに突き立てられていた。
アルゼオスは、卓上の書状から手を離す。
「話は以上だ」
それ以上の譲歩はない。
それ以上の脅しもない。
リアは深く礼を取った。
「承りました」
会談は、終わった。
セネルに案内され、リアとクランは部屋を出る。
廊下の空気は、入る時よりも冷たく感じた。
クランは何も言わない。
セネルもまた、余計な言葉を挟まなかった。
城塞の門が開く。
外の光が、細く差し込む。
リアは一歩外へ出た。
ワジュリアの空気は、思ったより冷たかった。
彼女はそこで、一度だけ足を止める。
私に従うか。
それとも、私より王に足る者を示すか。
その問いは、リアの胸の奥に、静かに残った。
「……大丈夫か」
クランが短く問う。
リアは振り返る。
そして、穏やかに微笑んだ。
「ええ、大丈夫です」
その声は、いつも通りに聞こえた。
表情も、静かだった。
だが、その声も表情も、ほんの少しだけ整えられすぎているように、クランには見えた。
リアは前を向く。
クランもまた、その半歩後ろに続いた。
背後では、ワジュリアの城塞が黙って彼らを見下ろしていた。
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